8 World's end / 世界の終わり

 目を覚ますと、私は空の上にいた。

 遙か眼下にはビルが埋め尽くす街並み。

 ――ああ、ここは。

 東京だ。

 そして、私の真下に見える真っ赤な四本足は、東京タワーだ。


 一度空を見上げてから、状況を整理する。

 つまりここは東京タワーの頂上で、――正確には、頂上の尖塔から膨らんだ、円型の鉄骨組みの上で、私は今、そこにいる。そして、あるはずの尖塔は、ここにはなかった。

 私が座っているこの場所から伸びていたはずの先っぽは根本――つまり私が今いる場所からぽっきりと折られ、それはまるでパフェに刺さっているウエハースみたいに、東京タワーの特別展望台のちょっと下辺りに斜めに突き刺さっている。


 私はしばらく、ジオラマみたいになった東京の街をぼんやりと眺める。

 ところどころに穿たれた、深く、大きなクレーター。

 あちらこちらから煙が立ち昇り、赤く揺らめく炎が見える。

 強い風が吹く。

 耳元を切る風の音、それ以外は聴こえない。

 空はどこまでも青い。

 世界は、止まっている。


 終わりの風景だ、と私は思う。


 目が覚めたら、私は終わりの風景の中にいた。

 私は確か、カミサマと一緒に、青森の、小さな納屋の中で眠りについたはずだった。その日積み重なった、上手く行かない色々をきっかけに喧嘩をして、おやすみも交わさないまま、それぞれ眠りについたはずだった。


 なのに、気づけば東京に戻っていた。

 そしていつの間にか、世界の終わりがやってきていた。


 空が光る。私のすぐ頭上。私は右腕で顔を覆って光を遮りながら、輝きの中心にぼんやりと浮かぶ何かに目を凝らす。

 それはヒトのカタチをしている。翼が生えている。

 神聖さを抱いた。

 その神々しい発光は徐々に収まっていく。そして姿を現したのは――

「……カミサマ」

「ん、ヒヨリ。目が覚めた?」

「ねえ、カミサマ、ここは……」

「ここは、って……見たまんまだよ。東京タワーと、そこから見える東京の街」

 カミサマは宙に浮かんだまま、晴れやかで、澄み渡った表情を見せる。

「それは、分かってるんだけど……、これは全部……カミサマがやったの?」

「うん、そうだよ」

 柔らかく、優しい返事が返ってくる。全てを赦すかのような、微笑を湛えて。

「……東京タワーを折ったのも?」

「うん。そうだよ。ヒヨリに特等席を作ってあげたくて」

「特、等席……」

「うん! そこから、終わりの風景が見えるでしょ?」

「……うん」


 ぐるりと360度、世界を見回す。破壊の限りを尽くされた、営みのむくろ

 東京タワーのてっぺんから見下ろす、崩壊した世界。

 遠く、小さく見える富士山は、こちらから見て右側の上半分が抉り取られている。

「東京だけじゃないよ、世界中」

「…………えっ、そんな――」

「ねえ! 見てヒヨリ!」

 カミサマは無邪気に笑って、とある方角を指差す。

 小さな手の先、平らに均された大地から一本だけ、無傷のまま突っ立っている鉄塔。

「スカイ、ツリー……?」

「うん、そうだよ! ヒヨリのために取っておいたの!」

「え……どういうこと?」

 背景は青空。浮かぶ入道雲。こんな時でも空は青くて、雲は穏やかで。

 その嘘みたいな夏の空に、ぽつりと寂しく佇んでいる細長い鉄塔。

「今からあれをぶっ壊すよ! 最後のおたのしみ~」

 カミサマはそう言って、けひひと笑う。いつもみたいな、可愛い笑顔で。

 そしてカミサマは右手を大きく広げる。

 伸ばした右腕がぼんやりと発光し始める。光の粒が渦を巻く。何かを纏っていく。

 ――具現化されたそれは、カミサマ本来の腕より何倍も大きい、巨大な腕。

 五本の爪が鋭く伸びる、金色に発光する腕。ばちばちと、腕の表面を稲妻のようなものが這う。彼女の背中に生えている翼と似たような形質をしている。

「じゃあ、いくね~」

 何でもない風に呑気に言って、カミサマはその右手を水平に軽く薙いだ。

 見えない巨大な何がが、空気を裂いた。世界を裂いた。

 僅かな時間差。

 スカイツリーが、ちょうど中心部くらいで、垂直真っ二つに割れた。

 地響きがして、唸り声みたいな鈍い音が轟いて、スカイツリーが崩れ落ちた。

 言葉すら出なかった。


「さ、これで全部おしまい」

 ぱん、ぱんと、元に戻った右手と左手を叩いて、乾いた音を鳴らすカミサマ。

 私に向き直って、近づいてくる。

 東京タワーに降り立つ。翼は粒子みたいになって空に融けて、目の前にいるのはいつものカミサマ。二人でずっと旅をしてきた、小っちゃな可愛いカミサマ。

「さ、最後はヒヨリだよ」

「……え?」

 ――でも、違う。

 今のカミサマは、何かが違う。

「当たり前じゃん。にんげんはもうみーんな殺したよ。あと残ってるのはヒヨリだけ」

「そ、それって、えっと……」

「なに? ヒヨリだってにんげんでしょ?」

「え、だって、それを言ったら、カミサマも……」


「カミサマは神様だよ?」


 カミサマはにっこりと笑って、重く、私の胸に沈むようなずっしりとした言葉を囁く。

「自分だけは特別だと思った?」

 そしてカミサマは私の首にそっと、小さな両手をかける。

「ヒヨリを最後に残したのは、カミサマのお情け。カミサマの個人的なわがまま。だってカミサマはヒヨリのことすきだから。でもヒヨリだって消えないといけないことに変わりはないの。だからね、だいすきなヒヨリは、カミサマが最後この手で直接、殺してあげるの」

 ぐっと、最初は優しく、私の首に力がかかる。

「カミ、サマ……ねえ、分かんないよ、どういう、こと……」

 恐怖と困惑が湧き上がる。咄嗟に薄皮を思い描く。私を守る絶対的な壁。

「薄皮なんてあるわけないじゃん」

「――え」

 カミサマは目を見開いて、じっと私を見て、低く呟く。

「そんなのヒヨリの想像だよ? 妄想だよ?」

「……っ」

「ねえ、見て? 最期にその目に灼きつけて? これが、ヒヨリの望んだ世界の終わりだよ? 全部全部ぶっ壊れた、世界の終わりだよ。そして最後にヒヨリは、文明が突き立てた赤い塔の上で、東京の、世界のど真ん中で、終われるんだよ」

 カミサマが、どこか無邪気に、狂ったように言葉を重ねる。少しずつ締まってゆく私の首。息が、できない。

「嫌……だ、嫌だよ、苦しいよ……」

 絞り出す私の懇願に、カミサマは首を傾げる。

「嫌だ? 何が嫌なの? だってヒヨリが望んだんじゃん。お願いしたんじゃん。世界が終わりますようにって。それともなに? 自分だけは生き残れると思ってたの? 薄皮が自分を守ってくれるとでも、思ってたの?」

 私は後ろに倒れ込む。背中に鉄骨がぶつかって、鈍い痛みが広がる。カミサマは私に馬乗りになったまま、真っ直ぐ下ろした両手で首を掴んだまま。短くなった金色の髪が、揺れる。ふわりと、あのバニラみたいな甘い香りが、風に乗って私に伝う。

「東京にはほんとうに、何でもある?」

「――え……?」

「ショッピングモールがあって、本屋があって映画館があって、レンタルビデオ屋があって、コンビニがそこら中にあって、オンラインショッピングでいつでもちゃんとほしいものが届いて、インターネットがあって、ほしい情報はどこでも手に入って、平和なこの国で、物の豊かさなら保証されていて」

 カミサマは捲し立てるように言葉を連ねる。熱の籠る言葉に合わせて、その手は強く、私の首を握りしめる。

「ほんとうに自分一人で生きてるつもりでいる? 自分の人生は自分のものだから、全部自分の意志で決めて、自分の足で歩いていくんだって言える自信ある? お小遣いを毎月ちゃんともらって、学校のお金も出してもらって、お小遣いとは別に月々のスマホ代も払ってもらって、服も靴も買うお金をもらえて、毎日ちゃんとご飯が用意されてお弁当を作ってもらえてそうじゃなければお昼代をもらえて、自分の部屋があって安心して眠れる布団があって、シャンプーはお望み通りのものが使えて、洗濯物は毎回ちゃんとお父さんと分けて洗ってもらえて」

 カミサマは私から目を逸らさない。ずっと、心の裏側まで見透かすみたいに、覗き込んでくる。

「それでもまだ、自由がほしいとか、窮屈だとか、息苦しい田舎町だとか、退屈な日々だとか、灰色の教室だとか、そんなことばっかり言い続けるの? 周りにある世界を受け入れないで、拒絶して、触れもしないで、考えもしないで、目を逸らし続けるの?」

「やめ、て……ねえ、やめてよ、おかしいよカミサマ、どうしちゃったの、ねえ、苦しいよ、手を、離して……嫌、嫌だ、嫌だよ、カミサマ、私、私、まだ、まだ、死にたくな――――」

「じゃーね、ばいばいヒヨリ」



「――――あああっ!」

 冷や汗びっしょりで飛び起きて、私は咳込む。首元を何度もさすって、なんでもないことを確かめて。深呼吸をして、早鐘を打つ心臓を鎮めて。

 ボロ小屋の屋根と壁の隙間から、弱い光が差し込んでいる。

 朝だ。

 ゆっくり、薄暗い納屋の中を見回す。

 ここは、青森だ。私はまだ、旅の途中だ。

 深く、息を吐き出す。


 夢を、見ていた。

 世界が終わる夢。カミサマが世界を終わらせる夢。最後に私に手をかけて、私自身が終わる夢。

 ――夢でよかった、と、心の底からそう思った。

 最後に重ねられたあの言葉。私の夢だからそれはつまり、自問自答だ。

 そうだ。私は自分自身の甘えと矛盾に、ずっと気がついていた。

 東京に出てくることができたのは、おばあちゃんの家があったからだ。

 東京の街を出歩くことができたのは、おばあちゃんが毎日お小遣いをくれたからだ。

 ここまで逃げてくることができたのは、ルカさんにお金を借りたからだ。おばあちゃんの家からお金を盗んできたからだ。

 自分一人じゃ何もできないくせに。上手くいかなくてカミサマに当たり散らしたくせに。お金がなければ本州から出ることもできないくせに。

 何が自由だ。何が逃避行だ。

 ほんの一日二日お風呂に入れないだけでイライラして、満足に眠れない環境に布団が恋しくなって。雑草なんて食べる気になれないよ。虫なんて食べる気になれないよ。海に潜って魚を捕まえるなんてできないよ。釣り竿の作り方なんて知らないよ。火の起こし方だって知らないよ。

 世界の果てへの行き方なんて、知らないよ。


 ――カミサマ。お兄ちゃん。こんな私を、笑ってよ。


「……――!」

 そうして初めて思い至る。隣に、カミサマがいない。

「カミサマっ!」

 私は荷物をまとめて、慌てて納屋を飛び出した。辺りを探す。いない。声を上げて名前を呼ぶ。返事が返ってこない。トイレってわけでもないみたい。

「カミサマ、カミサマ!」

 私は無我夢中で走り出す。朝露で湿る草むらを横切って、名前を呼びながら、走っていく。小さな林を抜けると、唐突に舗装された道に出て、その先の家の玄関で、老人と話しているカミサマを見つけて――――!

「カミサマっ!」

 私は駆け寄る。駆け寄って、しゃがみ込んで、抱きしめる。

「わ、……なに、ヒヨリ」

「どこかに行っちゃったのかと思った……いなくなっちゃったかと思った」

 安堵で胸がいっぱいになる。カミサマの肩口で、両目が滲む。情けない。私は泣いた。

 カミサマは私の頭を撫でる。いつも私がカミサマにしていたみたいに。

「カミサマ、ごめんね、ごめんね、私、自分が上手く行かないからって、カミサマに当たり散らしちゃって、おかしいよね、一緒に頑張ろうって決めたのにね、ごめんね……」

「ううん、カミサマの方こそ、わがままばっかり言って、ごめんなさい」

 私は身体を離す。涙を拭う。おばあさんは困惑したような微笑みで私たちを見ていた。

「……今ね、朝ごはん分けてもらえないか、お願いしてたところなの」

「え……」

 カミサマは、私たちのために、考えて行動してくれていた。

「二人で旅を続けているんですってね、粗末なものしかないけれど、ちょうど作っていたところだから。上がってちょうだい」


 私たちは一人暮らしのおばあさんの小さな家で、朝食をごちそうになった。汚れだらけの私たちを見て、お風呂まで使わせてくれた。その間におばあさんは私たちの服を洗濯してくれて、スマートフォンも充電させてもらって、何から何までしてもらった。

「若いって、いいわねぇ。でも女の子ふたりなんだから、気をつけなきゃ駄目よ」

 おばあさんは目を細めて、くしゃっと笑う。

 おばあさんの善意で、結局その日は一泊させてもらって、次の日私たちは出発した。

「むつの方までなんて、ここから歩いたらまだまだかかるよ。本当に、大丈夫かい?」

「はい。なんとかやっていきます。本当に、何から何までありがとうございました」

「いいえ。私も久しぶりに若い子とお話ができて嬉しかったよ。こっちまで若返った気分だよ」

「おばーちゃん、ありがとう!」

「はい、元気でやるんだよ」

 私たちはまた心に暖かさと希望を灯して、本州の果てを目指して、歩く。

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