6 ラスト・レター
結局私は未だ、祖父母の家で見つけたあの封筒を、開けることができないでいた。
それは半分が体力的な問題で、もう半分が精神的な問題からきていた。
でも精神力を使うことは体力を消費することであるような気もするので、詰まるところはとにかくなんというか気分で、手が伸びなかったのだ。
それを開けてしまったら。中を見てしまったら。
何か取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
そんな風に思っていたからだった。
私は保健室のソファーに深くもたれ込んで、その封筒をなんとなく頭上に掲げてみる。
『日和が高校を卒業したら、これを彼女に渡してください。それまではこの封筒を絶対に開封せず、話題にも挙げないでください』
封筒の裏面、差出人としての兄の名前の隣に小さく書かれた、そんな注意書き。
祖父母はそれをちゃんと守ってくれていた。――まあ随分と無防備な場所に保管されていたと思わなくもないけれど、普段はあの家に私はいないわけだし、あんなところ私は触らないだろうと思っていたのだろう。
保健室を意味もなくぐるぐる歩き回っていたカミサマは私の手元の封筒に気づき、近寄ってきて私の隣に座り込む。
「ヒヨリー、なにー? それー」
「んー、お兄ちゃんからの手紙」
本当は手紙かどうかは定かではなかったけれど、封筒の厚みや手触りからして紙が一枚か二枚折りたたまれて封入されているだけのように感じられた。
「えー! どういうことー⁉ なんでまだ開けてないのー⁉」
カミサマは訳が分からないとばかりに声を上げる。
「んー……」
まだ開けていない。そうだ、考えてみればこれは、単純に考えて三年近く開封されずにそのままだったのだ。高校卒業のタイミングで、という兄の言葉通りに考えれば、本来ならばこの封筒はほぼ四年間、開けられることなく待ち続けているはずだった。
「開けないのー?」
開けても、いいものだろうか。
兄がそのタイミングを指定したということは、それには何かしらの意味が、意図が、あるのではないだろうか。
――じゃあ、どうして、私はこれを持ってきたのだろう。
それは自分でも明白だった。あの場での動揺が原因じゃない。
あの日を境に両親の家にも、祖父母の家にも戻らないつもりでいたからだった。
私は全てを捨てて、カミサマと逃げるつもりでいた。それは、本気だった。
「開けていいのかなぁ」
私はカミサマに裏の注意書きのことを話す。カミサマはちょっとだけ唸ってから、
「今開けるべきだよ」
――まっすぐ、迷いなく、そう言い切った。
「……どうして?」
「この旅の中で、ヒヨリはトキヒラのことを乗り越えるべきだから」
カミサマの揺らがない瞳が、私を貫く。
カミサマがどんな理由でその言葉を言ったかは分からない。でも私は、その言葉をきっかけに、彼女と出会ってからのことを思い出して、全ては繋がっているような気がしてきた。兄がいなくなったことで、変わってしまった両親。行けなくなった東京の高校。思い描くようになった世界の終わり。より息苦しくなった自分の町。そうして、東京に飛び出してきたこと。そこで、私と同じように〝逃げ出してきた〟カミサマとの邂逅。憧れだった東京を巡る旅。俯瞰する都会と田舎町。私自身について、世界について考えた時間。自殺未遂のサラリーマンとの出会い。彼の諦観と、カミサマの言葉。ルカさんとの出会い。彼女の希望、世界に対する想い。そしてカミサマの背後にうっすらと見える、不条理や、悲しみ。
「……今読むことに意味がある、ってこと?」
「うん」
カミサマは、力強く頷いた。
「明日じゃだめかもしれない。明後日じゃだめかもしれない。今この時、だよ。他でもない、掛け替えのない、この一瞬、だよ」
しばらく、カミサマと見つめ合う。私は――意を決する。
「……分かった」
私は半身を起こす。リュックから、100円ショップで買った、結局別に使い道のなかった「六徳万能ナイフ」を取り出して、小さな刃を封筒の隙間に差し込む。
一息、大きく息を吸い込む。外はしとしと雨が降っていて、世界は、どこか音の籠ったような静けさで満ちていて。遮られた太陽光は薄暗い部屋にわずかな光を運んでくるだけ。
私はゆっくりと、刃を進めていく。封を開ける。中から取り出されたのは、たった一枚のルーズリーフ。三つ折りになって畳まれていた。
心拍数が高まっていく。手に汗が滲む。目を瞑りたくなる気持ちを、逸らしたくなる気持ちを抑え、そのルーズリーフをしっかりと見据えながら、私は過去と、現実と、真実と、向き合う。
――――――
THE BELOVED
HOW YOU SURVIVE IN FLAT FIELD
日和へ。
この手紙を読んでいるということはお前は今18歳で、高校を卒業して、俺が死んでから四年近くが経ったということになるだろう。どんな進路に進むのか、俺には知ることさえできなくなってしまうけれど、とにかくお前はこれまでとは違う世界に踏み出していくことになる。誰かに決められていた道が、周りの人たちと一緒だった道が唐突に途切れ、そこから日和の人生が始まる。お前のものだけれど、お前だけのものじゃない、そういう人生が始まる。だから俺はここに書き残しておこうと決めた。これからを生きるお前のために、平坦な戦場を歩き始めるお前のために、きっとお前を縛りつけてしまったであろう俺の言葉から、お前を解き放つために。
俺は今から首を括って死ぬ。自殺の直前にこれを書いている。何故自らこの命を終えるのか。きっと日和は明日から長いこと、それを想い続けることになるはずだろう。理由は笑ってしまうくらい単純だ。終わりなき日常に耐えられなくなったからだ。続く世界に耐えきれなくなったからだ。未来を恐れてしまったからだ。今この瞬間も何かに恐れ、怯え、震えながらこれを書いている。目に見えない、何か漠然とした影にいつも見つめられているような気がする。世界は終わらないと耳元で囁かれているような気がしている。目を閉じても、耳を塞いでも、それを消し去ることはできなくなってしまった。世界の終わりが俺を見ている。世界の終わりが、俺を待っている。俺は紅茶を飲み干してから、逝く。俺は、東京に来れば何者かになれると思っていた。特別な存在になれると思っていた。でも、それは違った。人間の本質はおそらく、環境に規定されたりはしない。いや、そうじゃない。それは結局、生まれ育った場所に根を張るんだ。生まれ育った世界のことを忘れ去ることはできないんだ。誰かにとってそれは呪縛のようになる。自縛するものになり得る。どんな世界に出てきても、18までの世界はその心にこびりついている。それは全ての基準だからだ。物事の判断、行動の判断、価値の判断、それら全ては過去との対比だ。かつての自分との対話だ。俺は世界の終わりに魅了された。そしていつからか、それを望むようになっていた。心が躍るものは、終末しかなかった。馬鹿な兄だ。それしかなくなってしまった。だから日に日に、決して終わることのない世界との〝ズレ〟を感じるようになってきてしまった。山と海に囲まれたあの小さな町の、高い丘から見下ろした風景と、そしてその風景を崩壊させる想像が、俺の脳味噌の隙間にびっしりと根を張って、蝕んで、苛んで、喰らい尽くして、いつしかそれが、俺の全てになっていたんだ。
ああ、どうか哀れな兄だと嗤ってくれないか。世界は終わらない。終わらないんだよ。俺にとってそれは諦観だ。でもきっと、日和にとってはそうじゃないはずなんだ。中学生のお前が一人東京に来た時のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。その時俺は、お前の強さを見誤っていたんだなって思わされた。たった一人で、知らない世界に飛び込めるお前は、世界の終わりに閉じ籠りたい俺とは違うんだって、そう思った。終わりなき日常を生きる、たったひとつの冴えたやり方は、それは結局、無責任だがお前自身が見つける以外に方法はない。そしてまた、自分自身で見つけなければ意味がない。だってそれは人から教わるようなものではないし、他人の言葉は究極的には実感できないからだ。俺は他者のどんな言葉も受け入れられなかった。偉人も、賢者も、哲学も、俺を救ってはくれなかった。偉そうに言っておきながら、俺自身は変われなかった。だから俺はここで終わりにする。無責任だ。嗤ってくれ。
俺はお前が小さい頃から、俺の好きなこと、好きな話に付き合わせすぎた。自意識も芽生え始めた頃にできた妹は、本当にどうしようもないくらいに可愛かった。日和のことが大好きだった。慕われたいと思った。同じものを見せたいと思った。でも俺が魅了されたものは、一歩間違えばこの世界との繋がりを見失ってしまうような、そういうものだったんだ。俺はもう後戻りしない。後戻りできない。終わりが呼んでいるんだ。深淵が口を開けて、俺を飲み込もうとしているんだ。逃げ場所はどこにもない。己が己で意識を絶つ以外に、残された方法はないんだよ。
身勝手な兄のことを、どうか許してほしい。
いつだって日和を見守っている。地獄でも、天国でも、何処でだって。
平坦な戦場を、どうか生き抜け。
日和の兄、常平
――――――
こんなものが最後の手紙だなんて、父や母が見たら首を傾げるだろう。なんて意味不明で、自分勝手で、パラノイア的で、頭のおかしい文章だろう。
でもこの文章は、兄の言葉は、私にとって、世界中のどんな言葉よりも、価値があった。
「……――すぎるよ」止まらない。「任――ぎるよ」私は声を出したい。「無――……す……」止められない。「無責任すぎるよ」何度も、何度も、罵ってやりたい!
「無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよ無責任すぎるよっあぁぁああ‼ もう! 馬鹿! 気狂い! 偏執病! ああっ! 馬鹿バカばか馬鹿っ! お兄ちゃんの馬鹿野郎‼」
くだらない。馬鹿馬鹿しい。何が世界の終わりがそこで見てるだよ、何が世界の終わりがそこで待ってるだよ、紅茶を飲み干して俺は逝くじゃねーよ、アホ、ばか、バカ、親不孝者、親不孝者は私だって一緒だ、気狂いめ、私の前に出てこい、ぶん殴ってやる、蹴り飛ばしてやる、殺さないでって言うまで絶対やめないから、早く出てこい、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!
狂ったように笑いながら、私は泣いていた。兄が死んでから、一度も出てこなかった涙が、ようやく溢れ出した。ぼろぼろ、ぼろぼろ、止まらない、止まらないよ、ねえ、ずっと、ずっと知りたかったこと、蓋を開けてみたら、こんなに馬鹿馬鹿しくて、くだらなくて、大したことなくて、笑っちゃうような遺書で、こんな理由で、お兄ちゃんは死んだ、死にやがった、あほだ、ばかだ、どうしようもない親不孝者だ、あ、それは私も変わんないか、もう、なんだよ、もう、こんな、こんな、偉そうに四年も待たせるつもりだったのかよ、お前が弱いだけで死んだくせに、笑わせないでよ、泣かせないでよ、ねえ、なんで死ぬ必要があったの、そんなの、そんなの、むだじゃん、ばかじゃん、死んだら終わりじゃん、なんにも残んないじゃん、悲しませるだけじゃん、何が終わりしかないだよ、ばか、お兄ちゃんのばか、頭おかしいよ、私は、ずっと、ずっと、ずっと……。
私はカミサマの胸で、泣いた。ずっと、ずっと、泣き続けた。
その間カミサマは、ずっと私の頭を撫でてくれていた。
私はスマートフォンの音楽再生アプリを立ち上げる。
すっかり真っ暗になった木造の校舎の一角で、白い光が浮かび上がる。
スピーカーの音量を絞って、私は曲を再生する。
腕の間にカミサマを抱きかかえて、ソファーに二人で寝転んで。
口ずさむ。くだらない歌。お兄ちゃんが大好きだった歌。私も大好きな、歌。
パンを焼きながら、待ち焦がれている。
やってくる時を、待ち焦がれている。
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