4 教室
月明かりを頼りに、田畑が広がる畦道の端にある小学校に辿り着く。
暗くなるまで身を潜めて待った私たちは、人目についていないか注意深く確認しながら、校舎に近づいていく。夏の虫が鳴く。蛙が騒ぐ。東京とは違う夜。
ふと、カミサマが立ち止まって空を見上げる。私は急かそうとしたけれど、突っ立ったカミサマは「ヒヨリも見て」と呟く。
私もカミサマとおんなじように、空を見上げる。晴れた夜空に、星が瞬いている。光の粒が空を覆い尽くしている。宝石の海みたいだ、と私は思う。
「……すごいね」
「ね」
東京じゃ、どんなに目を凝らしても、こんな空を見ることはできなかった。
でもこの星の光は本当は、どんな場所にも同じように届いているはずで。
なんとなく私は、離れてきた自分の町のことを、思い出す。
建物と建物がちょうど重なって死角になっている一階の窓をカミサマの力で開けて、物音を立てないように校舎内に侵入する。
「ねえカミサマ、学校って大体防犯用の設備がついてると思うんだけど……」
「えー、そうなの?」
「うん……。田舎だから大丈夫、だったり……してくれる?」
「しらなーい。いざとなったら逃げればいーよ」
「楽観的な……」
とりあえず保健室を探す。そこにならきっと、ベッドがあるはずだからだ。電気のスイッチには触れるべきではないだろう。当たり前だけど光がついていたら怪しまれるし、それこそ何か防犯関係の会社に通達が行くかもしれない。水道やトイレは……多分大丈夫だと思うけど、極力使わない方向でいこう。
スマートフォンの光も点けず、どうにか月明かりだけで保健室を見つけ出す。ゆっくりと扉を開くと、そこにはよくある感じの保健室の風景。ベッドは二台ある。
夏休み中の今、日中学校が開くかどうかは分からないけれど、太陽が昇る前にはこの場所を去るべきだろう。
カミサマがベッドに飛び込んで、細く射す月明かりに埃が舞う。
「こら、あんまり音立てないで……」
私もベッドの足元に近づいて、とりあえず重いリュックを降ろす。カミサマがぬいぐるみを出して、と言う。リュックから取り出してカミサマに手渡すと、喜んでそれを抱きかかえる。かなりお気に入りらしい。
「ヒヨリ! 学校探検しよ!」
妙に浮かれているカミサマの瞳は、夜の闇にもきらりと輝いて。
私はびくびくしながらも、一人で出歩かせるのも恐ろしいので付き添うことにする。リュックはもしも万が一のことを考えてベッドの下に隠してきた。身軽になって歩くのは久しぶりだ。ポケットには財布とスマートフォン。
一階を端から端まで歩いて、それから二階。クラスも学年に1クラスか2クラスしかないようだ。……自分の町のことを田舎田舎と言っていたけれど、それでも小学校は各学年4クラスあった。この町はコンビニの数だって圧倒的に少ないし、外食チェーンだって見当たらない。
世界には、私の知らない実情が、たくさんある。
東日本の、ほんの一部しか知らないのに、そのくせ思い描くのはいつも、遠い「世界」のことで。
「世界」はとりあえず漠然としていて、そのディティールはよく考えないのだけれど、でも別にそれでよかった。だって想像の中では、いつだって全部、綺麗さっぱり破壊し尽くされてしまっていたから。
だから、本当は「考えない」んじゃなくて「考えられない」んだってことは、大した問題じゃなかった。
でも、それってやっぱり、――単に無知ってだけなんだ。
私はなんにも知らないんだ。きっと、この世界のことなんて、ちっとも。
「ヒヨリ! 教室に入ろう!」
階段上がってすぐ目についた、真正面の教室。月明かりが差し込んで、蒼暗く浮かび上がる学習机。のっぺりと伸びる深緑色の黒板。教室奥のロッカー。教室という場所は、この日本だったら大抵、どこも同じ作りなのだろうか。
妙に懐かしさを覚える。私が大きくなったからなのか、小学生が活動するこの空間はなんだかミニチュアみたいに感じられる。きっと机が小さいからだろう。
カミサマは教室をぐるぐる歩き回る。壁や、ロッカーをじっくり見て巡る。何をそんなに注目することがあるのだろうと思うけれど、その表情は真剣で、見て、触って、それらを確かめている。いろんなポジションの椅子に座っては立ち上がり、そこからの教室を眺めて、楽しそうに笑う。
「カミサマは……学校に通ったことがなかった……んだよね?」
「うん、そうだよー」
何でもない風に返すカミサマ。
――彼女がこの四角い空間に向ける眼差しは間違いなく、憧れそのものだった。
無邪気な羨望。私は胸がきゅっとする。彼女の境遇を、想う。
「……どうして、学校に通えなかったの?」
ちょうど教室の真ん中の席に座ったカミサマは、じっと黒板を見ながら、何でもないように話し出す。
「カミサマねー、ずっと施設にいたの。神奈川県の山奥にあるね、真っ白な施設。そこにはカミサマと似たような子どもがたくさんいてね、みんなそれぞれ違う力を持っていて、大人のひとたちはそれを毎日けんきゅーするの」
ずっと教室入り口に立ち尽くしていた私はなんとなく、カミサマと向かい合えるように、教卓に向かう。
低い教壇に乗り上がって、教卓に手をかけて、カミサマと向かい合う。
「……その施設に学校みたいなものはなかったの?」
「んー、ようちえんみたいなところはあったよ。でもおべんきょうは全部パソコンの画面に向かってやってた」
自分が小学生だった頃の風景が、どこか俯瞰の視点で、脳裡に
「本と、テレビと、パソコンだけが全ての世界だよ。真っ白な部屋で、物心ついた時からずーっと、カミサマはそこで暮らしてた」
「……外に出たことは?」
「ほとんどないよ」
だからだ。
だからカミサマは、見るもの全てに目を輝かせて、東京の街を歩いたんだ。
彼女は――彼女はずっと、外の世界を知らなくて!
「カミサマの世界はね、本とテレビとパソコンだけだった。ずっとそれだけが友達だった。外の世界には出られないから、それだけを頼りにして、いろんなことを覚えてきたつもりだった。でも、あの施設から逃げ出して、実際にこの目で見たものは、画面とか、写真で見るものとはぜんぜん違った! カミサマ、なーんにも知らないんだなって、思った!」
私は唐突に、世界の理不尽さに対して強い反抗心が芽生えた。ぐらぐらと沸き立つ、ぶつける先のない怒り、憤り。――それはその〝施設〟に、向けたらいい?
幼い少女を、世界から隔絶した場所に閉じ込めて、ずっとずっと何かの実験に付き合わせて。学校にも通えなくて、遊園地にも、動物園にも、100円ショップにさえ行けなくて!
そんなのって、あんまりだよ。残酷すぎるよ。私まで、こんなにも悔しい気持ちになる。
――きっと、だから逃げ出してきたんだ。カミサマは。
「しょうがくせいってランドセルを背負って学校に行くんでしょ⁉」
それでもカミサマは、笑う。その表情を輝かせる。自分の境遇がどれだけ普通じゃないかなんて知らないみたいに、無邪気に笑う。私の涙腺に、何かが込み上がる。
「……うん、そうだよ。女の子は赤いランドセルを背負うのが通例だったけど、最近はいろんな色のランドセルがあるみたいだね。カミサマは何色がいい?」
私は込み上がるそれを誤魔化すために、堪えるために、取り繕って笑ってみせる。質問なんか、したりして。
「んー、やっぱり赤がいいかなぁ~。あ! でさ、でさ、ちゅうがくせいはセーラー服で、こうこうせいはブレザーがいい!」
「カミサマが着たい、ってこと?」
「うん!」
……確か、渋谷の街で対峙したあのスーツの男は、初等教育以降なら適宜、普通の学校に通えるかもしれない、なんて話をしていたような気がする。
でもカミサマはあの時、あの言葉に反発していた――ように思う。
それはどうして? 仮に今12歳だとすれば、場合によってはもう少ししたら本当に、セーラー服を着て、普通の学校に通って、普通に友達を作って、普通に授業を受けて、普通の放課後を迎えて、毎日楽しく過ごせるかもしれないのに。きっと美人に成長するはずだから、男子からもモテて、最近はアイドルも流行ってるから、もしかしたらどこかのアイドルグループなんかに所属したりすることになったりもして……――――
それができないって自分で分かっているから、逃げ出してきた?
「ヒヨリは学校がきらいなんだよね?」
「……うん」
普通の学校生活。
そんなものは退屈で、色褪せていて、誰も彼もおんなじようなことをして、とりあえず目指せ県大会の部活とか、放課後のショッピングモールとか、遊園地でダブルデートだとか、プリクラで示す友情だとか、判を押されすぎて掠れているような、メディアとか消費社会が作り出したありきたりで画一で均一な「青春」を、私は嫌悪してきた。――そこから目を逸らしてきた。逃げてきた。
でもカミサマは、どこまでも無邪気に「普通」を求めていた。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。私は特別でいたかった。他の奴らとは違うんだって、そうやって思い込んで、灰色の学び舎を独りで生きてきたつもりだった。薄皮はまさにそんな私の象徴で、でもカミサマは違うんだ。カミサマはきっと、特別なんて求めていないんだ。普通の、ありふれた、誰もが慣れきって見失って、感性をすり減らしすぎた「日常」を、生きたいと思っているんだ。
〝世界の終わり〟の裏にあるのは、どこまでも続く普通の日常で、
〝世界が終われば〟の裏にあるのは、上手くいかない現状からの逃避で。
「――ヒヨリ!」
私が上の空になっている間も、カミサマは何か楽しそうにしゃべり続けていたらしい。自分の話が少しも届いていないことに気づいたのかカミサマは、私の名を呼んで――その表情は何故か、何かいいことを思いついた時のようなわくわくときらきらに満ちていて。
「じゅぎょう! して!」
「……授業? 授業って、学校の?」
「うん! そう! じゅぎょう!」
カミサマは私に勉強を教えてほしいと言う。でも私は高校の授業だって上の空でやり過ごしてきたし、義務教育の内容ならなんとか覚えているような気がするけれど、でも他人に教えられるような技量なんて持ち合わせていない。
「えーと、あの、先生っていうのは、誰にでもできるわけじゃないんだよ? 教員免許ってのが必要で、それを取るには大学で勉強しないといけなくて……」
口から適当に逃げの言葉が溢れ出す。急な提案に困惑している。
「ぅー、うるさーい! なんでもいいから! ヒヨリに教わるの!」
「……分かったよ」
「ヒヨリがせんせい、カミサマがせいと!」
「マンツーマン? 補習みたい」
「ホシュー?」
「赤点取るとやらされるやつ」
「アカテンー?」
ははぁ、と、思わず溜め息。
「あ、でも、せいとはもうひとり!」
カミサマはそう言って、自分の左手側の席を引き出して、膝の上で抱えていたぬいぐるみを手に取って、椅子と机の間に挟み込んだ。
「これでせいとはふたり!」
笑顔のカミサマと、間の抜けた顔のぬいぐるみが、私を見つめる。
月明かりの中、私はスマートフォンも頼りにしながら、漢字の穴埋め問題だとか、計算問題だとか、年号クイズだとか、授業にならない授業を進めていく。
先生になれない先生と、生徒になれない生徒、それからアホ面のぬいぐるみ、たった三人だけの、ニセモノの夜間授業。
カミサマは正解不正解に一喜一憂する。私は独自に編み出した語呂合わせを、ちょっと恥ずかしくなりながらも、教える。カミサマはすごいすごいって褒めてくれる。
壁掛け時計がカチカチと進む。ゆっくりと、時間が流れていく。
夜の校舎、ずっと大嫌いだった教室で、大切な思い出が刻まれていく。
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