8 HEY GIRLS GOD LUCK
新宿駅に向かう道程。着替えた私と、カミサマと、――そしてルカさん。
ルカさんはカミサマの手を引いて、まるでお母さんのような振る舞いで、歩いていく。
「ルカさんがついてきてくれるとは思いませんでした」
子どもだけで終電に乗っていれば必ず怪しまれるから、私が母親のふりをして目的の駅まで付き添うよ――ルカさんはそう言って、わざわざ母親っぽい服装と化粧までして、私たちについてきてくれた。
「ルカーあれってなんのお店ー」
「カミちゃん、あたしのことはお母さんって呼びなさい」
「んーなんでー?」
目深帽から栗色の瞳を覗かせ、夜の闇に浮かぶネオンを指差しながら、次から次へと尋ねるカミサマに、ルカさんはどこか楽しげにそう返す。
新宿駅に着く。特に怪しい人影はない。難なく電車に乗り込むことができた。
いよいよ旅が始まる。どことない高揚が、私の身体を巡る。
世界の果てへの、逃避行。
世界の果てとは、どこだろう。でも、多分、きっとどこかに、それはあるんだ。
誰も見たことがない、その地平。
私は想像する。その風景を、思い描く。
きっとそれは美しい。誰もが見惚れるような、圧倒的な景色。
鼓動が、高まっていく。
電車を乗り換え、ついに私たちは目的の駅に辿り着く。
駅員は少しだけ怪訝な目で私たちを見てきたけれど、ルカさんが深夜でも子供を連れ回すダメな母親っぽい演技をアドリブでキメて(そこそこ楽しんでたように思う)、事なきを得た。
駅を出る。月明かりが静かに降る。
「さ、あたしの役目はここまで。後はあんたたちだけで、足掻いて、もがいて、いろんなもの振り絞って、歩いていきなね。――世界の果てまで、さ」
ルカさんはからりと言う。何かを懐かしむような表情で、私たちを見る。
「本当に……ありがとうございました」
「ルカはこっからどーするのー? 電車ないよー?」
「んー、タクシー呼ぶ――お金はもうないし……連絡つく男でも適当に呼ぶかなぁ」
「オトナだねー」
タクシーを呼ぶお金がないのは、きっと私たちに二万円もくれたからで。
「……私、今日のこと、絶対に忘れません」
「誰かの記憶に残るなら、あたしも嬉しいよ」
そう言って、ルカさんは笑う。そして、空を見上げてから、ぽつりと一言。
「世界は素晴らしいし、戦う価値がある。あたしは前半にも後半にも賛成」
「……なんですか、それ」
「ヘミングウェイ。と、その引用がある映画の台詞。昔付き合ってた男の影響」
「……いろいろ知ってるんですね」
「あたし、学はないけど本は好きだから。なんかそういう男と話合うんだよね」
世界は素晴らしいし、戦う価値がある。
「ま、頑張んなよ。世界の果ての写真、撮れたら送ってね」
最後にルカさんはカミサマの頬を優しく撫でて、小さく微笑む。
「じゃあね」
そして、何でもない風に手を振って、夜の闇に消えていった。
「かっこよかったねぇ……」
残された私たち。カミサマに言うように、独り言ちるように、私は呟く。
「……さて、家に向かおう」
日付も変わった。私たちは闇の中を、身を隠すようにして歩いていく。
祖父母の家の近くまで辿り着く。遠くそびえるスカイツリーに、ほんの少しだけ近づく。
「家の正面から入るのはやめようね」
その言葉を口にしてから数分後、ブロック塀の陰から家の前を覗き込めば、少し遠くに一台、不審な車が止まっていた。やっぱり。予想は的中。危機一髪。
「……裏手に回ろう」
少し遠回りして、家の裏手側に隣接する民家の庭を、音を立てないように通り抜けて、カミサマの力で塀を越えて、私の家の敷地内に、ようやく辿り着いた。神経を集中させ続けたからか、敷地内に入った途端ふっと肩の力が抜けた。ちょっとだけ気を緩めて休んで、そうしていよいよ。
静かな世界。心臓の音だけが嫌に大きく聴こえる。カミサマも同じように、その鼓動は高まっているのだろうか。
「どこか……鍵が開いてるかな」
脱衣所の窓からが最も効率のいい侵入経路だが、もちろん開いてはいない。
「開いてないね……」
「ん~、そのくらいカミサマに任せて~」
カミサマはそう言って、唇を舌でぺろりと舐めてみせる。
人差し指を窓ガラスに向けて、ちょちょいと指を振る。
すると静かに、スモークガラスの先の鍵が回る。
「――開いた!」カミサマが小さな声で言う。私たちは静かに手を合わせる。
「……じゃあ、カミサマはここで待ってて」
「うん。ぬいぐるみ、忘れないで」
「分かった」
家の中に忍び込む。寝ている祖父母を起こさないように慎重に脱衣所の扉を開き、廊下を居間に向けて歩いていく。ライトなどを点けなくても歩けるくらいには視界ははっきりしている。何よりこの家のことなら、それなりに分かっている。
高鳴る鼓動、呼吸の音さえ響かせないように全神経を集中させながら、居間の扉を開く。箪笥の前に近づいて、その上の収納棚の二段目を引き出す。スマートフォンのライトを点けて、片手で光を籠らせるようにして、棚の中を照らす。
――あった。
棚の中には銀行の封筒。静かに取り出して、中身を確認する。
五万円。
「……これだけ?」と私は心の中で呟く。タイミングが悪かったのだろうか。
別の封筒がないかどうか探す。音を立てないようにして、いくつか同じように収納されていた封筒を手に取って確認する。
「……?」
ひとつの封筒で、手が止まる。それは未だ開封されていない郵送物。見覚えのある筆致で書かれた祖母の名前と――その隣には私の名前。
裏に返して、差出人を確認する。
「――――!」
常平。
兄からのものだった。
私の手が震える。鼓動が抑えられなくなって、世界全体がぐわんぐわん揺れる。
兄の名前の隣には小さな文字で、こう書かれていた。
『ヒヨリが高校を卒業したら、これを彼女に渡してください。それまではこの封筒を絶対に開封せず、話題にも挙げないでください』
もう一度表側に返して、掠れた消印を確認する。
――――兄の自殺の翌日に、その消印は押されていた。
動揺が収まらない。手がガタガタと震える。
廊下のどこかで鳴った、床の軋む音に驚いて、声を上げそうになる。
結局私は現金の入った封筒から三万円だけ取り出して(それは多分祖父母に対する申し訳なさと、兄の手紙による動揺からで)、そして兄の手紙を手に持って、居間を出る前に呼吸を整えてから、私が使わせてもらっている部屋に向かう。
私の部屋は居間よりも、より祖父母が寝ている部屋に近い。先程よりもより慎重に、細心の注意を払って進んでいく。
部屋の扉を開けて、中に入る。前もってリスト化しておいた、必要なものをリュックに詰めていく。スマートフォンの充電コード、予備バッテリー、下着、替えの服とりあえず一着、ライト。缶切りとかライターとか歯ブラシとかは旅先の百均で買えばいいとして、あ、虫除けもとりあえず突っ込んでおこう。それからそれから……。
最後に、畳まれたふたつの布団のうち、カミサマがいつも使っている方に乗っかっていた、池袋のゲームセンターで取ったぬいぐるみをリュックにしまい込む。
――毎日、敷きっぱなしで家を出る私たちの布団を畳んでくれているのは、祖母だ。
そういえば今日は、遅く帰るって連絡すらしていない。きっと心配したことだろう。私の普段の行動を考えて一日くらいは、と考えていたりするだろうか。
なんだか急に申し訳なくなって、後ろめたくなって、書き置きでも残していこうかという思いが芽生える。
――そうだ、これは、本当の家出なんだ。
そこで私はふっと、思い至る。今からするのは、本当の家出。
カーテンの開いたままの部屋に差し込む月明かり。蒼暗い部屋をぐるりと見回す。
お別れだ、とそう思う。
一息の深呼吸。覚悟は決まった。書き置きは残さないままで、私は部屋を出る。
「首尾は万全?」
脱衣所の窓の外で待っていたカミサマが、戻ってきた私にそう言う。首尾、だなんて、どこで覚えた言葉だろう。
「オールオッケー」
「よし、じゃあ行こう!」
行きと同じく慎重に、影の中を移動しながら、降りた駅の近くに戻ってくる。
「戻ってきたはいいけど……今から始発までどうやって過ごそう……この辺24時間のマックとかあるのかな。あ、でもそんなことしたら補導されちゃうや」
建物と建物の狭間の暗闇の中。静まり返った世界で立ち往生。
「ね、ヒヨリ、あそこ」
その時、さっきから何やらきょろきょろと顔を動かしていたカミサマが、斜め上を指差して私を呼んだ。視線の先には、茶色をした高さ5階分のビル。
「……屋上?」
カミサマは頷く。私たちはビルとビルの間の細い路地に入り込んで、カミサマの力で壁面を昇っていく。屋上に辿り着くと遠く、月明かりの反射する荒川を望むことができた。
――この景色とも、しばしのお別れ。
この先の旅が、どんなものになるかは分からないけれど。
隣で同じように風景を眺めていたカミサマは、満足したのか私の元から離れて、屋内へ通じる扉の鍵をその能力で開く。「ほんと反則だよね」と私は呟いて、二人して中に入る。
入ってすぐの踊り場、真っ暗な中で身を寄せ合って、太陽が昇るちょっと前の時間にスマートフォンのアラームをセットして、仮眠を取る準備をする。
「寝袋とかあるといいのかもね」
「ねー。床かたーい」
暗闇の中、囁くようにして、私たちは言葉を交わす。扉の隙間から染み出してくる僅かな光が、私たちの表情をかろうじて、映し出す。
「ね、ところでさ、ずっと後回しになっちゃったけど、具体的にどこに向かうの?」
私はカミサマに、結局ずっと話し合えなかったことを訊く。
「どこがいい?」
「えー? 誘ったのカミサマだよ」
「んーと、じゃあ、北? 南?」
「日本列島の?」
「うん」
「うーん……南……は、私の地元を通ることになるから……北、かな」
「北」
「うん」
「北海道?」
「ん、いいんじゃない? 今の季節涼しそうだし」
「北海道から先は?」
「知らない。外国とか行ったことないし」
「じゃあ北海道の端っこまでね!」
「……分かった。当面の目標だね」
くひひ、と堪えるようにして笑うカミサマにつられて、私も笑う。
「楽しみだね」
「……うん、そうだね」
こうして、私たちの逃避行は始まる。
本当の家出が、始まる。
(最終章に続く)
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