7 月光サンタクロース

「……」

 暗い部屋。右手にすきばさみ、左手にビニール袋。

 狭い四畳半をもの珍しそうに駆け回るカミサマ。

 主のいなくなった部屋で、私は考える。

「カミサマ」

「なに?」

「髪の毛、切る?」

「うーん」

 この綺麗で美しい髪を、美容師でもない私が適当に切ってしまうことには躊躇いがあった。確かに人目は惹くけれど、言い換えればそれは彼女の魅力であって――ああでも、それじゃあ追手に気づかれちゃうんだっけ。

 月明かりの下。部屋の端に吊り下がった衣服の森の中にいるカミサマを呼ぶ。

「……切ろっか、髪」

「うん。ヒヨリがそう言うなら、切る」

 ちょうど台所の裏手側に面した壁にある扉を開くと、そこはユニットバスになっていた。流石に光量が足りなさすぎるので照明をつけると、トイレのタンク上蓋から鏡の前、洗面台の縁にかけて化粧品やら香水やらがびっちりと、敷き詰められるようにして置かれていた。

 カラーコンタクトの個包装のゴミが大量に散らばっている。浴槽も到底掃除されているとは言えないような水垢やらカビが目立つ。

「う~ん……ルカさん……」

「きたな――――い!」

 カミサマはそんなユニットバスを見て何故かはしゃぐ。


「……じゃあ、切るね」

 浴槽に頭を突き出し、長い髪を束ねてビニール袋に突っ込んで、適当な部分に鋤ばさみを入れる。

「……」

 意を決してハサミのグリップを閉じる。ざっくりと、重みのある手応えを感じる。なんだかちょっと、冷や汗が出る。

「わー切られたー」

 カミサマは眼前でビニール袋の中に沈んでいく自分の髪を見ながら、気の抜けた声を上げる。

「せめて……せめて見栄えのいいように整えよう……」



「帰宅~」

 しばらくして、鍵ががちゃがちゃと鳴り、私は追手かと身構えて部屋の影の中に隠れたけれど、現れたのはルカさんだった。

「あ、えっと、……おかえりなさい?」なんとなく私は言う。

「お帰りなさいなんて100年ぶりくらいに聞いたかも」

 ルカさんはまた適当に靴を放り出して、部屋の中に足を踏み入れる。

「おー、バッサリいったね。かわいいかわいい。地がよけりゃそりゃそーだよねぇ~。羨ましい限りだよ」

 ルカさんは短くなったカミサマの髪をぐしゃぐしゃと大きく撫でつけて、手に持った買い物袋をどんと床に置いた。

「ほい、カミちゃん。それ脱いで」

 カミサマが両手をばっと上に掲げる。はいはい、分かったよという顔をしてルカさんはカミサマのワンピースの裾を持ち上げる。

「ん、かわいいポシェット」

 ルカさんは衣服の下で首にかけられていたポシェットに気づき、手で触れようとする。

「さわっちゃだめ」

 触れるか触れないかの直前、カミサマは言う。ルカさんは「ん、そっか」とすんなり納得、黄色い袋から買ってきた服を取り出して、カミサマに着させる。

「ほい、どう」

 最後に目元が隠れる鍔の長い目深帽子を頭に乗っけて、着替え完了。

 カミサマは自分の全身をきょろきょろ眺めながら、はしゃぐ。

「ありがとうございます!」

 私は思わずお礼を言う。カミサマも続けて「ありがとー!」

「さて、あんたには悪いけどあたしのお古を着てもらうよ」

「え……?」

 さらりと発された言葉に理解が追いつかず声が漏れると、「何かおかしいこと言った?」という表情でルカさんは首を傾げた。

「なに? あんただって追われてる身に変わりないんでしょ? だったらあんたも変装しなきゃ駄目じゃん」

 ……ああ、なるほど。

「すみません、何から何までお世話になっちゃって……」

 ルカさんは突っ張り棒にかかった服から何着か手に取っては私と見比べていく。

 納得いくものを見つけたらしく、私に手渡してくれる。私はそれに着替える。

「どう?」

「……なんか、いつも自分が着るタイプの服じゃないので、ムズムズします」

 はは、とルカさんは笑った。


「で、当面の目的地は?」

 窓際の定位置に座って、出掛ける前と同じように煙草を吹かすルカさんが、私たちに尋ねる。

「えっと、おばあちゃんの家……」

「はぁ?」

 確かに予想外な返答ではあったのかもしれない。声を上げたルカさんに私は説明を加える。

「その……――区の――駅の近くに家があって、そこにある荷物を回収してから旅立とうかと思って……」

「……なるほどね。そっか、あの辺りだと……」

 ルカさんは何かを思案するように宙を仰ぐ。煙草の煙が、渦を巻く。

「あ、でもそのおばあちゃん家の住所も相手方に知られてて……」

 追伸に彼女は眉を吊り上げて、それからまた少し何かを考えた後、私たちに具体的な提案をくれた。

「なるほど……そうか、そうだな、じゃあ終電ギリギリの電車に乗って、最寄り駅の一駅先で降りて、そっから徒歩で家に行って……って感じはどう? 家に着いてからのことは知らないけど、どうせおばあちゃんにもバレたくないんでしょ?」

「……はい……」

 どうしてそんなところまで分かるんだろう。この人、一体……。

「なんで一駅先なのー?」

 カミサマが無邪気に疑問を呈する。

「最寄駅じゃ改札前張られてるかもしんないじゃん」

「あー、なるほどー」

「一駅手前だと荒川越えないといけないし、それだと必然的に通る道って限られてくるでしょ? 橋の二、三本くらい簡単に監視できちゃうじゃん」

「おー……」

 カミサマは感心したように声を漏らし、ぱちぱちと拍手する。

「か、過去になにか、そういう経験でも……?」

「ま、あたしも家出少女だったんだよ」

 ルカさんはそう言って、ちょっとだけ砕けたように笑った。

「……ところで、ルカさんって今いくつなんですか?」

「18歳」

「え⁉」

「は、お店での年齢。本当は20」

 歳がそんなに離れてないことに驚いた。たった三つしか違わないのに、私とのこの差は一体何なのだろう。なんというかどっしりと、ちゃんと自分の足で立って「生きている」って感じがする。既に自分の力でお金を稼いで、生活をしているのだ。

「……お店、って、その」

「いわゆるお水ってやつ。見て分からなかったの?」

「あぁ……」

 服装やその雰囲気からなんとなく、そんな風には思っていたけれど、まさに的中だった。

 私の知らない世界。きっと余程のことがなければ、死ぬまで縁のないであろう世界。

「ねぇ、お水ってなにー?」

 カミサマもさすがにこればっかりは知らないらしい。私がどう説明しようか(そもそも私自身よく知らない)考えていると、ルカさんは実に端的に、何でもない風に答えた。

「男に金と精液を出させる仕事」

「おー……」

 分かったのか分かってないのか、カミサマは謎の感嘆。



 終電の時間にはまだもう少し余裕があった。私たちも屋内にいられることでいくらか気を張らずに安らぐことができる。相変わらず電気はつけないまま(ルカさんの趣向?)、私たちは言葉を交わす。

「ねえ」ルカさんが私たちに尋ねる。「サンタクロースって、信じてた?」

「サンタクロース、ですか……」

「そ。真夏だけど、サンタクロースの話」

「うーん……小学生低学年くらいまでは、多分」

「カミサマは信じてるー! 実際にいるって聞いたことあるしー!」

 カミサマの言葉にルカさんは笑いかけて、それからふっと表情を戻して、窓の外の月を見上げながら、言う。

「私は小さい頃からどっかさかしくて、クリスマスの枕元にプレゼントを置いてくれるのは父親だって、物心ついた頃から気づいてた。だから幼稚園の先生の言葉とか全然信じてなかったし、何ならサンタを無邪気に信じてる同い歳のガキのこともちょっとだけ見下してたように思う」

 ルカさんは続ける。その意図も判らず、私たちはただ聴く。

「でも、クリスマスはいつも楽しみだったんだ。お父さんとお母さんが、他の誰でもない一人娘のあたしのためにプレゼントを考えて選んでくれて、それが毎年ちゃんと枕元に届いて。クリスマスの朝、両親の前で『プレゼント届いた!』ってはしゃぐ私を見た両親の笑顔があたしは大好きで、もちろんサンタなんていないって分かってたけど、その笑顔を見るために演技までして、でも心から嬉しかったのは本当で」

 そこでルカさんは一旦言葉を切って、煙草を深く吸い込んで、吐き出して。

「でもさ、唐突に終わったんだ、あたしのクリスマスはさ」

 寂しげな瞳が、月明かりにきらりと揺れる。

「12歳のクリスマス・イヴ。父親が交通事故に遭って死んだ。即死だった。助手席にはあたしのためのプレゼントを乗せてさ。ありがちな話でしょ? ネットのコピペじみた話なんだけど、まあとにかく、その日父親は死んだんだよ」

 まるで何でもないかのように、本当にインターネット掲示板で目にした創作話を語るみたいに淡々と、ルカさんはその死のことについて語った。

 カミサマも黙り込んで、目を見開いて食い入るようにして、その話を聴いていた。

「父親が事故で亡くなってからしばらくして、後追いで母親も自殺した。あの二人は相当ラブラブだったからね。特にお母さんの方がさ。で、一人身になったあたしは父の兄の家に引き取られた。テンガイコドクってやつ。でもまぁそこで待ってたのはさ、これまた笑っちゃうくらいにありがちな話なんだけど、伯父さんや従兄からのセーテキギャクタイってやつ? とことんぶっ壊れたんだよ。齢12にして、私の世界は」

 その言葉は、淡々と語るにはあまりにも衝撃的で、私は軽く眩暈がした。

 私の目の前にいる20歳のお姉さんは、私の想像の届かないような過去を生きて、苦しみも味わって、きっと何度も悲しくて泣いて、そのはずなのに、はずなのに。

 どうして、そんなに、何でもないことみたいに語ることができるの――?

 その時同時に、ぎゅっと、ルカさんに借りたデニムに力が加わっていることに気づく。視線を落とせば左隣のカミサマが、右手で私の太もも辺りを握っていた。

「小学生の頃から発育はよかったけど、中学に進学してますますこう、女性的になったんだろうな。ていうか性的? まあ酷いものだったよ。家にいるの大嫌いだった。居場所なんてなかったよ。奥さんは能天気で身内のクズの所業にまるで気づかない人で、その人だけは優しかったけど、まあ嫁いできた人だしね。当事者意識とかなかったんだと思う。で、ちょうどその頃に、さっき話した小説を読んでさ、あたしも逃げよう、って思ったの。どうしようもない不条理を抱えたヒロインの女の子を救いたくて、その子のことが大好きなだけの一心で、主人公の男の子は一緒に逃げ出すことを決意してさ。それがカッコよくて、あたしは感化された。そんでどこに行こうとしたかって言ったら、母方のおじいちゃん家。距離にして電車で一時間。県すら跨がない、今思えばほんと、なんてことない距離。でも当時のあたしはものすごい、一世一代の冒険だと思ってた。心臓バクバクで、思い立ったその日の夜に支度を全部済ませて、一睡もしないまま次の日の朝、まだ太陽が出る前に家を出て、始発列車に乗ろうとして。でもあたし、電車が来るまでの待ち時間に何を思ったか公衆電話でおじいちゃんの家に電話かけちゃったの。律儀に。そしたらさ、当然家に連絡行くよね。叔父さんの奥さんが迎えにきちゃって。あたしの逃避行はあえなく失敗」

 どこか楽しげに自身の思い出を振り返るルカさん。その表情は優しく、柔らかく、まるで過酷なんて何にもなかったみたいに、微笑んで。

「でもそこから、ストレス溜まったら家出をする癖がついちゃってさ。警察にもよくお世話になった。顔覚えられたしね、あたし。いる場所にはいるもので、夜の街で似たような年齢の似たような境遇の人たちと仲良くなって、中学もロクに行かずにみんなで悪さして警察から逃げて、逃げることそれ自体を楽しんでた」

 煙草が終わる。二本目は点けないまま、ルカさんは続ける。

「スリリングで、エキサイティングで、恋仲になった男と二人で逃げながら、永遠の愛とか誓っちゃりして、まあそいつは三日後に他の女抱いてあたしに蹴り飛ばされることになるんだけど、そんな感じでいつも、楽しくやってた。でもそんなだから当然、高校もどうしようもなくアホなとこにしか入れなくて、全然楽しくもなんともないからソッコー中退して、16で思い切って東京出てきた。これが人生最大の家出。叔父さんも、身よりないガキに余計な金かけたくなかったんだろうね、別に何のお咎めもなく、もちろん何の援助もなく、この身ひとつで東京に来た。来ちゃった。もうどうにかするしかないから、この街でも同じようにいる、似たような境遇の人たちを探して――っていうかまあ、自然と引き合っちゃうもんなんだと思うけど、18歳からは水商売。クソボロいけどなんとか屋根と水とガスがある部屋で過ごせるようになって、今に至るってわけ」

 一通り語り終えたらしいルカさんは一息ついて、もう一本煙草に火を点けた。変に甘い香りが、部屋に広がる。

「こっち出てきて、痛感した。自分だけで生きていくことの大変さ。地元にいた頃は、親の顔色窺って生きてるやつとかダセェ、って思ってたけど、今となっては思う、親に支えてもらえるうちは、めいっぱい支えてもらって、のびのび暮らす方が絶対いいよ。仕事柄、親の金で射精しに来る大学生とかもたくさん相手にしてきた。仕事始めたての頃はそーいうやつ死ぬほどムカついたしチンコ嚙みちぎってやろうかとか思ってたけど、今はそうは思わない。それってさ、幸せなことなんだよ。そんであたしは、他人の幸せを羨むような人間にはなりたくないなって、今は思うんだ」

 どうしてこんな話を、その人生を、出会ってすぐの私たちに話してくれるのかは分からなかったけれど、家出という境遇に、何か似たようなものを感じてくれたのかもしれない。ルカさんの話は今、「今此処にいる私」にまで来ていた。20歳。私よりもたった三歳年上なだけだけれど、彼女は今の私の年齢の時には既にこの街で、生きていたんだ。

「あたしはこの世界のことが大嫌いだった。両親は死んで、待っていたのは頭おかしい雄共で。だって普通、弟の娘を性の対象になんてできなくない? 知らんけど。――でも今はさ、そんな世界でも、捨てたもんじゃないなって、思う。世界の底の方を這いつくばるような人生だけど、それでもあたしはこの世界のこと、結構、嫌いじゃないんだ。……ううん、ほんとはさ、世界の方が嫌われるものになるか好かれるものになるかじゃないんだ。捉え方次第なんだよ。他でもないこのあたしが、嫌うか、好きになるか。その人次第なんだ。だからあたしはそれでよくて、だからあたしはここで、生きてるんだよ」

 ルカさんはこちらを向く。

「お姉さんのお話に付き合ってくれてありがとう。なんか似てるなって思ってさ、つい話しちゃった。でもこの話十八番だから、残念ながら既に100人くらい知ってるのね。話せば大体同情買えるし、中にはそれで興奮する男もいるんだよ」

 そう言って彼女は悪戯っぽく、にぃっと、笑った。


「……ほい、大出血大サービス。エスケープの足しにして」

 そしてルカさんは、机の上に置いてあった財布を手に取って、中から紙幣を二枚取り出して、私に手渡した。

「……え、ちょ、っと、うわ、え、これ……」

 私の手には、二万円。月明かりを受けて、体感では燦然と輝く、二万円。

「あたしも貧乏だけど、ま、昔の自分に会ったら、きっとあたしはこうしてるから」

「あ……ありがとうございます! 本当に……あ、その、えと、いつか絶対返します! だから……だから……」


 この街に来る前、まっさらにした電話帳に、新規登録一件。

 ルカさん。


 私はこの人のことを、忘れない。

 真夏のサンタクロース。

 月明かりに煙草を吹かす、イカしたサンタクロース。


「さ、ぼちぼち時間だね。いこうぜ、家出少女」

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