6 ルカ

「何やってんの、こんなところで」

 すらりと背の高いその女性は、呆れ顔でそう言った。

 細長い右手の中、煙草の煙が、ゆらりと漂う。

「うーん……」

 そのお姉さんは立ち尽くす私とカミサマを順に、つま先から頭の先まで精査するように眺めてから、一言。

「家出か」

「え……あ、いや……」

 なんというか、……バレてしまうものらしい。

「ま、正解だろうね」

 んー、と、月の明るい空を仰いでから、その女の人はなんでもないように、私たちに言う。

「とりあえず家来る? ちょうど今日のシフト終わったところだし」

 人差し指と中指で挟んだ煙草のフィルターを二回、親指でとんとんと叩いて、それから彼女はそれを咥えた。



 大人の歓楽街を後にして十五分くらい歩いたところに、彼女の住むアパートはあった。彼女は立ち止まりその建物を見上げる。

「到着。ま、家賃安い代わりにむちゃくちゃボロいけど、気にしないで」

 東京という土地柄だろうか、縦に細長い建物、二部屋ずつ五階分あるそのアパートは、いかにも年季の入った風貌をしていて、ビルとビルの間に無理矢理押し込めましたみたいな窮屈な印象を受ける。

「あ……えっと、その」

「あ、あと汚い」

 有無を言わせず彼女は先を行く。アパート側面にある錆びたボロボロの鉄階段を上って三階、扉に鍵を差し込んで、回す。

 部屋に入ると、(外出していたであろうに)開け放たれた窓から射す月明かりがぼんやりと部屋を照らしていた。部屋の扉を開いたことで風が通ったのか、束ねられたカーテンがふわりと持ち上がる。四畳半、畳敷き。絵に描いたような貧乏暮らし(失礼)の風景に、やわらかい光が降る。……にしても、洋服やら雑誌やらが雑然と散らばるその様は、女性の部屋と言うにはちょっと無理があるくらいには汚かった。

 部屋主の彼女はヒール靴をほっぽり出すように脱ぎ捨てて、揃える気もなく部屋に入っていく。私は小さくお邪魔しますと断ってから靴を脱いで、自分の靴と一緒に散らばった靴も綺麗に並べ直してみる。カミサマもまた、一人暮らしの部屋に入った経験がないのか、半ば高揚しながら靴を放り出す。……もう。

 玄関入ってすぐ右手はキッチン。ちょっと頭を抱えたくなるくらい汚い。スープの溜まったままのカップ麺のゴミとか、使ったまま洗っていない食器とか。男の兄だってこんな暮らし方はしていなかった。キッチンの先は仕切り扉も何もなく畳の間直結。窓際に座って煙草をふかし始めた彼女は、玄関で立ち往生したままの私たちを見て、「いいよ、入ってきて」と首を傾ける。いつの間にか服を脱ぎ捨てて、下着姿になっている。……大人のオンナ?

 プラスチック製の安っぽいローテーブル。敷きっぱなしの布団。収納の見当たらない部屋、布団すぐ脇の天井には突っ張り棒が伸び、重量オーバーで棒ごと落下するんじゃないかってくらいに大量の洋服がかかっている。生活感ってレベルじゃない。

 そして何故か、部屋の電気をつけない。

 月明かりは十分に射し込んでくるけれど、だからと言って電気をつけないなんてあるだろうか。ましてや……こういう言い方は失礼かもしれないが、人を招き入れているのに。部屋の感じからしても、節電とかそういう類いの心がけだろうか。疑問は言葉にはしない。

「汚くてごめんね。そこらへん、適当に座って」

 雑誌やらコンビニの袋やら化粧品やらさっき脱いだばかりの服やらがごろごろ転がっている床を押し広げ、どうにか私たちは座る。私は正座でかしこまって、窓辺で月を見上げている彼女を見る。

 煙を燻らせながら夜空を見つめるその横顔は、濃い目の化粧で随分大人びた印象を受ける。23、4歳くらいだろうか。きりっとした目元が、強く、(そしてこの部屋の様相も相まって)どこかぶっきらぼうで奔放なイメージを想起させる。あと胸が大きい。私より。

「……あの、えっと、改めて、さっきはありがとうございました」

 私は改めて、お礼を言う。下着姿の彼女はこちらを見ないまま、左手を振って答える。

「あーいや、いいよ。よくあることだし。ああいう手合いはとりあえず蹴っ飛ばすに限る」

「そ、そう、なんですか……」

 彼女は窓枠に預けて外へと伸ばしていた右手で煙草をつまんで、一息。白い煙が、月明かりの夜空に昇っていく。

「で、なんでこんな時間にあんなとこにいたの?」

 ずばりな疑問。端的な質問。私は答えあぐねる。なんと説明したらいいか……。

「……いや、えっと、その……」

「追手から逃げてるの!」

 座らされ、うずうずとしていたらしいカミサマが限界だと言わんばかりに立ち上がりながら、言った。

「え⁉ ちょっとカミサマ⁉」

 私はいつもの癖でその名を呼ぶ。すると窓際の彼女はこちらを向いて、不思議そうな顔。

「追手、に……カミサマ?」

「そ、カミサマのことはカミサマと呼びなさい」

 カミサマは両手を腰に添えて、偉そうにもそう宣言する。

「神って、Godの神?」

「いかにも」

「で、カミサマは何者かに追われてるの?」

「うん、カミサマは組織の悪い人たちに追われてるの」

「で、んーと……」

 彼女は私の方に視線を移す。おそらく名前を訊かれているのだろうと思った私は答える。

「日和って言います」

 彼女はこくりと頷いて、続ける。

「……で、カミサマと日和ちゃんはそれらから逃げてるってわけ」

「……はい、一応そうです」

 ふぅん、と小さく何回か頷く下着姿の彼女。少しだけ微笑んでいるようにも見えた。

「カミサマたちはね、逃げるの」

 するとカミサマが再び発言。……あんまり余計なところまで説明しなくてもいいのに。

「逃げる? どこに?」

「世界の果て」

「世界の、果て」

 大真面目に言い放ったカミサマを見て目を丸くした後、言葉を反復した彼女は表情を崩して、笑った。

「あの……ところで、その、お姉さんの……名前は」

 やはり呼び名がないと会話がしづらいと思った私は、彼女に尋ねる。

「あー……そうだね、……ルカ。ルカって呼んで」

「ルカ、さん」

「ルカ!」

 カミサマが叫ぶ。ルカさんの方に視線を向けたまま、カミサマをひっ捕らえて座らせる。

「まーいわゆる源氏名ってやつだけど。すっかりそれで呼ばれ慣れてるし、結構気に入ってるんだよね。それに、本名ダサいし」

「親からもらった名前は大切にしないといけません!」

 私の両腕の間で、カミサマはルカさんに説教。

「カミサマだってそれまさか本名じゃないでしょ? 本当の名前は?」

「……うーっ! カミサマはカミサマなの!」

 ルカさんの返答にカミサマは狼狽えて、理屈にならない返答。ははは、とルカさんは笑う。

 ――両親。

『ご両親のことをお忘れになったとは言わせませんよ』

 眼鏡の男は、カミサマに向かって確かにそう言った。それはつまり、カミサマにはちゃんと両親がいて、――そしてあの時の前後の文脈からしてカミサマは――その両親に、何かしらよくないことをしてしまった過去があるらしい。

「見たところ日和の方は普通の女の子っぽいし……問題はそっちのカミサマちゃんにあるって感じかな」

「……はい、まあ」

「ふーん……」

 しばし静寂。煙草の煙だけが時間を生きる。

「よし」

 やがて、煙草をアパートの外壁に擦りつけて揉み消したルカさんは、立ち上がる。

「カミサマちゃん、身長いくつ、あと靴のサイズ」

 先程脱ぎ散らかした服を再び着ながら、カミサマに尋ねる。

 首を傾げるカミサマの代わりに、私が彼女の身につけているもののサイズを答える。

「おっけ、把握。じゃ、ちょっと待ってて」

 ルカさんはどう考えても外出するつもりでいる。一体どこに向かうというのだろう。

 私のそんな疑問を見透かすように、ルカさんはその意図を答えてくれる。

「追手撒くには変装が必要でしょ? ドンキで適当に服買ってきてあげるから、あんたたちは家にいて」

「え……」

 出会ったばかりの私たちに、どうしてそこまでしてくれるのだろう。

「あ、それからさぁ」

 そう言って、玄関前まで行ったルカさんはこちらに戻ってくる。私とカミサマの前でしゃがみ込んで、カミサマの金色の髪に触れる。カミサマはくすぐったそうな顔。

「この髪も、切ったら?」

「え?」

 カミサマはきょとんとして、ルカさんを見つめている。突然何を言い出すかと思えば、この髪を切れだなんて、これまた一体どんな理由で?

「中学の時読んだ小説で、中学生の少年少女が追手から逃げる話があってさ、逃避行が始まってすぐ、主人公の男の子がヒロインの女の子の髪を切るんだよ。その男の子は散髪屋の息子で、まさかその設定が生きるとは思ってなくてちょっとびっくりしたな。女の子はとある事情で長い髪が全部真っ白になっちゃって、それだとあまりにも目立つからって理由でさ。短くすれば帽子なりなんなりで隠すことができるでしょ? その金髪だって、かなり目立つわけだしさ」

 そう言いながら、ルカさんは立ち上がる。彼女の右手からカミサマの髪がさらさらと流れていく。

すきばさみは……あったあった。それから、ビニール袋……ほい、風呂場で適当にやっちゃって。あいにくあたしは散髪屋の娘じゃないからさ」

 辺りをごそごそと探して、目的のものをふたつ見つけ、私に手渡す。ちなみにビニール袋は私のすぐ左に落ちていたもの。

 再びルカさんは玄関まで進んで、靴を履き始める。履き終えてから、一度こちらを向いて、言う。

「あたしは、いいと思うよ。逃げるってさ」

 扉が開く。外からの光が差し込んで、逆光は彼女の表情を分からなくさせる。

「じゃ、30分で戻ってくるから」

 そう言って、ルカさんは出ていった。

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