5 路地裏

 どのくらい走っただろう。思えば初めてカミサマと出会ったほんの一週間ほど前のあの日も、こんな風にして渋谷の街から北へ北へと逃げてきたのだった。

 ――たった一週間、か。

 思い返して、その密度にちょっと驚きを隠せない。正確には一週間すら経っていないのに、なんだかもうひと月ほど一緒にいたんじゃないかって錯覚に陥る。多分それだけ私たちは互いに近づいた。歩み寄った。人との関わりを避けてきた私が、薄皮を纏う私が、カミサマとだけは、触れ合った。――彼女は私にとって、特別だった。


 でも、私は、カミサマのことを何も知らなかった。


 ここに来て、それを思い出す。意識させられる。結局私は彼女のことを、その不思議な力のこともあって本当の「神様」だと思いながら、でも半分、何かしら仄暗い家庭事情から家出してきた少女くらいにしか思っていなかったけれど、真実は多分、そのどちらとも違ったものだった。


 日の暮れかけた東京。おそらく今ここは、新宿辺りだろう。前回の逃走よりもずっと遠くまで、本気で走ってきた。カミサマの小さな手を握りながら、言葉も交わさずに。


 薄暗い路地に入り込む。橙色の光が地面を這う。周囲に人影のないことを確認して、ようやく私たちは一息つく。

 沈黙。私は言葉を探す。施設、両親、能力者たち。訊きたいことはたくさんあって、でもそんなことよりも、もっと大事な何かがあるような気がして。

「……ヒヨリ」

 カミサマが、疲れ切った弱々しい声を、絞り出すように漏らす。

「……なに?」

「逃げよう」

「え?」

「逃げようよ」

「……逃げる?」

「うん、どこかずっとずっと遠い場所に、知らない場所に」

 私は黙り込んだまま、何の言葉も返せない。

「逃げよう、わたしたち、ふたりで、ずっと、ずっと、どこまでも、どこまでも、誰の手も届かないような、遠く、遠く、――世界の果てまで」

 私の目をじっと覗き込んで、カミサマは、懇願するように、縋るように、言う。

「ねえ、だって、退屈なんでしょ? 空っぽなんでしょ? 世界なんて嫌いなんでしょ? 自分の町が嫌で逃げてきたんでしょ、世界との関係を絶ったんでしょ、世界が終わってほしいんでしょ、全部全部消えてほしいんでしょ、だったら一緒じゃん、わたしたちふたりがどこか遠くに消えたって、世界は変わらず廻る、何事もなかったかのように廻る、それでいいでしょ、世界と隔絶された場所で、わたしたち、ふたりで、ずっと……」

 今にも泣き出しそうな表情で重ねられる言葉は、単なる羅列で、理屈も一貫性も何もなくて、――それでも切実で、痛々しくて、――ひとりのか弱い少女そのもので、だから、私は、私は――――


「逃げよう」

 そう、答えた。


 逃げ出そう。

 どこまでも、どこまでも。

 世界の果てまで。


「……ヒヨリ……! ヒヨリぃ……」

 カミサマは私に抱きついて、私の胸に顔をうずめる。柔らかく、弱々しいその華奢な身体はどうしようもなく、震えていた。縋るように擦りついてくる。だから私は頭を撫でる。その綺麗で、儚げな、細い金色のまとまりを、ゆっくり、ゆっくり、何度も何度も撫でてあげる。すん、すん、と、小さく泣く吐息が聴こえてくる。

 カミサマが、私の前で初めて、泣いた。

 そこにいるのはただ、その無邪気な身にはあまりに似つかない、何か悲しい運命を抱いた、小さな少女だった。

 ――大丈夫。私がいるから。

 私だけは、カミサマとずっと一緒にいるから。



 そうしてどれくらい時間が経っただろう。陽もほとんど落ちて、空は深い蒼色に染まっていた。もうすぐに、夜がやってくる。

 私たちはふたり、逃げると決めた。

 けれど、具体的には何も考えていなかった。

「ねえ、カミサマ? 逃げるって言うけど、具体的にはどこに逃げるの?」

 ゆっくりと、名残惜しげに私から身体を離したカミサマは、腫れた目を拭ってから、口を尖らせたまま考え込む。

「……何にも考えてなかったり?」

 その時、返事の代わりに返ってきたのはカミサマのお腹が鳴る音。

「……おなかすいちゃった」



 飛んだり跳ねたり叫んだり落下したり走ったり泣いたり、とにかくたくさんエネルギーを使ったのだろう、コンビニで買ってきたおにぎりやパンを次から次へと頬張っていくカミサマ。追われている身だから飲食店で呑気に食事したりはできないけれど、かと言ってこれから始まるであろう逃避行のために腹ごしらえをしない訳にもいかない。

「家の住所まで知られてたし、もしかしたら張られてるかもしれないよね……」

 食事をしながら、作戦会議のようなやりとりを交わす。

 ――まず何よりも、一度祖父母の家に行って、旅のための支度を整えなければならなかった。スマートフォンの充電コードや充電器だってほしいし、長旅になるなら十分な資金だって必要になる。私の祖母は、あの世代の人間の傾向なのかどうかは知らないけれど、年金が入ったらすぐに全額引き落として、現金の状態で手元に置いておくような人だった。居間の箪笥の上にある小さな収納棚の二段目、そこから出される現金を、私はいつもお小遣いとしてもらっていた。今どれくらいあの中にあるかは知らないけれど、――この際だから、あるだけもらってしまおう。

「駅前にも張ってたりするのかなぁ」

「あの人たちがそんなに人手を割けるとも思わないけどね。接近戦では敵わないことはあっちだって分かってるはずだし、結局説得しかないもん」

 カミサマは涙まで流した割にはどこか楽観的で、なんならこれから始まる旅を楽しみにしているような節さえある。

「とりあえずもうしばらくは身を潜めていようか――完全に夜になるまではさ」

 排熱と廃棄物が溜まる路地裏。華やかな街の裏側に、私たちは身を潜める。



「……んぁ、え……?」

 段差になっていたコンクリートの上で身を寄せ合っていた私たちは、こんな状況なのに気づいたら少しの間眠ってしまっていたらしい。

 どうにも緊張感がない。

 でも、疲れていたのは確かだった。深夜には散歩をしたし、自殺しそうな人間と対峙したことは予想外に精神と体力を疲弊させた。そしてその直後からの逃走劇。お腹も満たした時宜、身を潜めて縮こまっていたら眠ってしまうのも――仕方がない。

「カミサマ、ねえ、ねえってば、起きて、そろそろ行こう?」

 私の左手側、腕の隙間に籠るようにして眠っているカミサマを起こす。

「……んぅ……」

 身体を起こし、目を擦るカミサマ。

「いまなんじ?」

 彼女は寝ぼけたような口調で私に訊く。

「んーと……9時過ぎたよ……」

「えー……」

 驚いたのかそうでないのか変な声を上げてから、のっそりと立ち上がる。

「逃げるんじゃなかったの?」

「うん、逃げる。どうしよう」

「とりあえず私の家に一旦帰る、これが目標」

「でも張られてそうなんでしょ」

「……そこは……なんとか……。というか、とりあえずこの路地出よう? さすがに気味悪い」

 日中こそ光が差し込んだけれど、夜になってからは完全に闇の中。表の通りのネオンが辛うじてぼんやり足元や建物の輪郭を照らす程度で、人気ひとけもないからより不気味だ。


 表通りに出ると、予想外の騒々しさに驚く。日中はこんな感じじゃなかったのに。

 ――それもそのはず、ここはいわゆる「大人の世界」と呼べる場所だった。どう考えても私たちは異物であり、それどころかいつまでもこんな所にいたらしかる国家機関に補導されてしまう。これから逃げようという矢先、警察なんかに捕まってしまったら始まるものも始まらない。

「な、なるべく裏路地を通ろう……? あんまりいい手ではないけど……」

 カミサマにそう言って、私たちはなるべく光の当たらない薄暗い場所を歩いていく。


「ねぇー君タチぃ~……」

 ふいに声がかかって、心臓が飛び出しそうになるほど驚く。

 薄暗い路地、目の前の電柱に手をかけて、薄気味悪い笑みを浮かべた中年男性が、こちらを舐め回すように見ていた。

「こんな時間にこんなところでェー……なぁにィ、してるのかなぁ?」

「あ……えっと……」

 おそらく酔っぱらっている、独特の言葉のリズム。さっさと通り過ぎてしまいたいが、あいにく狭い道、目の前におじさんが陣取っているため、通り抜けようにも通り抜けられない。というか、通り抜けたくない。

 おじさんは一歩、こちらへ近づいてきた。

 足が、動かない。私はカミサマを一歩、私の後ろに隠れるように後退させる。右手を後ろへ回して、彼女を守らねばと身構える。

「あの、道に迷っただけです。帰りたいのでそこ、通してもらえますか」

 気丈に振る舞う。自分の住んでいた町ではこんな時間にふらつく路地なんてどこにもなかったし、こんなおじさんにも遭遇したことはなかった。初めての経験に、思った以上に動揺する。

「へへェ、そうかぁ~じゃあおじさんが家まで送ってあげるよォ~。ん? おうちはどこなのかなぁ?」

 にたにたと、気味悪く笑いながら、一歩、一歩、ふらりふらりと近寄ってくる。

 足が竦んで、動けない。大柄の、大人の男の人に迫られると、こんなに無力で、無防備なものなのか。薄皮なんて役に立たない。危機感なんて微塵も持ち合わせてはいなかった。東京。怖い。誰か。思考だけがぐるぐる巡る。背中に貼りつくカミサマはどんな表情をしているだろう。両手でぎゅっと、服の裾が握られているのが分かる。っていうかカミサマ、なんか力あるんだからどうにかしてよ、こいつ吹っ飛ばせば一発じゃん、そうだよ、どうしてそんな簡単なこと思い浮かばなかったんだろう、「ねぇ、カミサマ――!」

「……ぐ……ぇ?」

 私が声を上げたと同時、目の前まで迫ってきていたおじさんが右方向から何かの衝撃を受けて、左方向に向けて吹き飛んだ。路地に置かれた丸い大きなポリバケツに、まるで漫画みたいに突っ込んでぶっ倒れた。


 私は右を向く。そこには一人の女の人が立っていた。

「高校生と……小学生? 何やってんの、こんなとこで」

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