3 Tokyo Suicide : 渋谷スクランブル2

 そして私は今再び、渋谷スクランブル交差点のど真ん中に、立っている。

 ――隣に、この渋谷で出会った小さな神様を連れて。

 ふたりして、真夏の往来の中心で、高い空を見上げながら、すれ違う視線を無視して、透明な存在になって、世界に融け出して。


 深夜、私はカミサマに、兄の話を出来得る限り全て話した。

 カミサマは私の話を真剣に聴いてくれた。

 知り合って間もない相手に自分の想いが全て伝わったとは思わないけれど、カミサマはちゃんと、受け取ってくれた。


「あー……」

 空を仰いだままのカミサマがぽつりと、気怠げに言う。

「きもちーねー、これ……」

 私たちはふたり、顔を上に向けながら、傍から見たら間抜けに映るか、不気味に映るか、そのままぼーっと、青い空に吸い込まれるように立ち尽くして。


「あー……しんごーかわるよー……」

 時間切れ。私たちは人の波に紛れて、誰でもなくなって、ぎらつく太陽を背に受けて、交差点の中心から離れていく。

 ちょうど時間はお昼時も過ぎる頃。目的だったハチ公との記念撮影を終え、後は適当に渋谷をふらつく。しばらく宛てもなく歩いてから、空調の効いた雑貨ビルの四階で遅めの昼食を済ませ、昇ってきたエレベーターの前で待つ。

「ねーあそこから外出られるかなー」

 ふと、カミサマがそう言って、階段横の扉を指差した。

「……外階段?」

「うん」

 カミサマの右手が示す先、内側から鍵は自由に開閉できるようになっているそのガラス扉の先には、外階段が見えた。言うが早いかカミサマはもう出る気満々で扉に向かっていく。仕方がないから私もついていく。

 扉開いて外に出ると、むわりとした外気に晒される。裏階段は遥か高く、屋上まで続いていた。

「上行ってみようよー」

「いいけど……どうせ屋上は施錠されてて入れないんじゃないのかなぁ」

「だいじょーぶだいじょーぶ」

 ……確かにカミサマなら、そのくらい造作もないことだったりするんだろうな。


 建物裏手には巨大な排気ファンが階ごとに設置され、低く唸りを上げながら熱風を生む。

 周囲のビルディングもまた裏手側で、それらに囲まれた日陰で薄暗い鉄の階段を、カンカンと音を立てながら上っていく。足下が覗ける作りの階段、6階ほどまでくればさすがにその高さを痛感する。ひんやりと冷たい手摺りを掴みながら、上へ上へと登っていく。カミサマは数歩先を元気に跳ねる。

 最上階、裏手扉すぐ隣に設置された鉄製の柵には鍵がついていて、関係者以外の立ち入りを拒んでいた。私の身長よりも高いが頑張れば乗り越えることも可能だけれど、わざわざそんなことをする輩もいないだろう。――私たち以外には。

 ほっ、と声を上げたかと思えば、カミサマは悠々とその鉄柵を越えていた。「ヒヨリ、いくよ~」と言われ身構えると、私の身体も宙に浮いて、難なく柵を乗り越える。

「反則だよね、それ……」

 着地して、改めて思う。素朴な感想が思わず漏れる。


 屋上に出る。傾き始めた太陽が眩しく両目を刺す。センター街から少し離れたこの場所からは、目線と同じ高さほどに広がるビルディングの連なりを望むことができる。

「このくらいの高さから見る景色も悪くないねー」

 なんて、すっかり一丁前の審美眼を手に入れたカミサマは言う。

 四角い屋上の淵を囲む、私の胸元辺りまでの高さのあるアルミの柵。道路に面したビル正面側の柵に私は両手をかけて、体重を預ける。

 アルミが蓄えた太陽の熱が、皮膚を伝う。

 地上11階分の高さのビル。周囲には様々な高さの同じような無機質さが立ち並ぶ。どちらかと言えば会社の入ったビルの方が多いこの場所は、どことなく閑静な雰囲気を漂わせる。ぼんやりと、昼下がりの陽光に揺らぐ灰色の街を眺めながら、雑踏から外れた嘘みたいな穏やかさを享受する。

 右隣で、なんとも大胆に柵の上に立っているカミサマは、その髪を生ぬるい風になびかせて、遠くを見つめている。


 そうして私たちは淡い色の空の下、ビルとビルの狭間で、ぽつり、ぽつりと、私の町のことや、私に纏う薄皮のこと、私の家族のことなんかを話した。


「私が暮らしてた地域は、私や兄が生まれるずっと前から『いつか巨大地震がやってくる』って言われ続けてて、それでもこれと言った大きな災害には見舞われないまま、自分たちの町とは離れたところのニュースばかりを目にしてきて」

 私は、話す。風に乗せるように、思い出や、不満や、苛立ちや、焦燥のことを。

「それでね、いつか兄が言ったの。この町には終末予言が生きているんだ、って」

「終末予言」

「うん。それで、確かにな、って私は思った。崩壊は宙吊りになったままで、私は暮らしてきたの。ずっと、あの町で」

 ぎらりと、どこか遠くのビルの窓ガラスが光を反射させる。


「ヒヨリは、どうして家出してきたの?」

「んー……」

 街は、鈍く煌く。


「何もなかったから」


「ヒヨリの町に?」

「ううん」

 違う。

 そうじゃなくて、本当は。


「私自身に」


「……そっか」

 カミサマは一言だけ返事をして、立っていた柵に腰を下ろす。

「うん」

 私は小さく頷いて、柵の上で両腕を組んで、そこに頭を預けて、東京の街を眺める。


 結局、〝何もない〟のは、私自身なんだ。

 全部何かのせいにして、あの町のせいにして、私は逃げてきた。

 不満で、不服で仕方なくて、居ても立っても居られなくて。

 狭い世界を作っていたのはきっと自分で、そんな自分だからこそ、半透明の薄皮を生み出してしまった。

 ――そんなこと、分かっていた。気づいていた。ずっと、心の何処かで。

 でも、だからって、どうしようもなかったんだよ。

 ねえ、カミサマ。私は、私は……――――


「……ヒヨリ、あれ」

 右隣のカミサマが、首を右に向けて、何かを捉えた。

 カミサマの後頭部を視界の端に置きながら、彼女の視線の先に目をやる。


 みっつ隣のビルの屋上。グレーのスーツ姿の中年男性が、こちらのビルと同じような柵に手をかけて、俯いていた。ビルの高さはこちらより少しだけ低い。

 くたびれたサラリーマン、という形容がまさに似合うような、どこか生気の抜けた男性。遅めの昼休みか、煙草休憩か、それにしてはどうにも表情は深刻だった。

 カミサマは視線を逸らさない。私も何となく注視したまま、その人の挙動を追う。


 しばらく項垂れていた男性はやがて、

 意を決するようにして、

 目の前の柵を乗り越えた。


「――!」

 ……それって、まさか。

「ヒヨリ」

「え……、あ、なに」

「行くよ」

 唖然とする私の名を鋭く呼んだカミサマは、私の隣に降り立って、――私の右手を掴んで、「……え?」

 カミサマは駆け出した。そのおじさんのいるビルの方角に向かって。

「え! ちょ、ちょっとまさかカミ――――」

 ものすごい力で引っ張られていく。引き摺られるようにして足取りも覚束ないままで、私たちは柵に近づいていく。そして――――


 カミサマと一緒に、私も、跳んだ。


「うぎゃ……」

 思わずそんな潰れた声が漏れて、体感五秒の滞空。

 風を切る。少しだけ空に近づく。下を見ればビルとビルの隙間の日陰。


 そして気づけば、ふわりと着地。おじさんのいるビルの屋上。


 こちら側に顔を向けたおじさんは、呆然とした表情で固まっていた。

 カミサマとスーツ姿の中年は、柵を挟んで向かい合う。

 近づいて見ればはっきりと判る、そのやつれた顔。生気のない表情。きっと毎日思い詰めているのだろう、眉間に刻み込まれた深い皺。

「き、君たちは今……どこから……」

「死ぬつもりなの?」

 狼狽えるおじさんに向かって、カミサマが言った。とても端的に、鋭く突き刺すように。

「あ……」

 柵を掴んだまま腰を引いていたそのおじさんはすっと真っ直ぐ体勢を戻して、何かを悟ったかのようにふと、溜め息を漏らすようにして小さく笑った。

 卑屈な笑みだった。

「あぁ……そうだね。うん、私は今から自殺するつもりで、この柵を越えたよ」

 淡々と、どこか投げやりな、自嘲的な返事が返ってくる。

「どうして自殺しようって思うの」

 これまでも時折現れた、あの達観したようなカミサマの口調が、ぴりりと張り詰めた空気を生む。

「どうして……か。そんなの、君たちには関係のないことだよ」

「関係ないのなんて当たり前じゃん。それでも訊いてるの」

「…………」

 カミサマの強い口調に驚いた表情を見せたおじさんは、しかしすぐに柔らかく、あるいは諦めたかのような表情に変わる。

「……はは、面白いね。……君たちはいくつだい? 小学生と……高校生くらいかな?」

「話を逸らさないで」

「……」

 おじさんはその返事に再び目を丸くして、そして一旦視線を落としてから、堪忍したように肩を竦めて言う。

「まあ……そうだね、簡単に言えば、……人生に疲れたんだよ」

 人生に疲れた。その言葉が、奇妙な余韻を私に残す。

「妻とはもう何年もまともな会話をしていないし、高校生になった娘にもすっかり嫌われてしまった。家に居場所はないし、職場でも歳取っただけのお荷物さ。家族のためにって頑張ってきたけれど、それももう、いいかなって思ってね」

「どうしてそれが死ぬことにつながるの」

 カミサマは鋭い視線をおじさんに向けたまま、疑問をぶつける。

「どうして、って……もう生きている理由もないからだよ」

「生きている理由がないってなに? どういうこと?」

「何、って……」

 返す言葉に詰まったのか、しばらくの沈黙の後、おじさんは笑って、どこか優しい口調で私たちに言う。

「はは、いいねぇ、子供はさ。まだいくらでも可能性があって」

 慈しむかのような、達観した瞳が私たちを撫でる。四十代、五十代だろうか、皺のある目元が、生気なく、哀愁を誘う。

「君たちも大人になったらきっと分かるよ。同じような毎日の繰り返し、自分よりも力のある人間が周りにはたくさんいて、歳下にすら追い抜かれて、ただ長く生きているだけでふんぞり返る上司に頭ばかり下げて。死にたくもなるよ」

 悲愴感に満ちた瞳。弱弱しく吐き出される言葉。

「若いうちはなんでもできる。今のうちにめいっぱい、人生を楽しんでおきなさい。ああ、でも女の人には結婚もあるしな。君たちは顔もいいし、きっと――」

「馬鹿にしないでよ‼」

 カミサマが叫んだ。ぶわりと、大きな風が吹く。おじさんは驚いた表情を見せてすぐ、慌てて柵を掴んでその風を凌ぐ。

「子供がどうだとか、若さがどうだとか、そんなの関係ない!」

「……何が言いたいんだい?」

「……自殺なんて……自殺なんて……絶対にだめだから!」


 ――自殺なんて絶対に駄目。

 それは、世界を終わらせる神様には、あまりにも似つかわしくない言葉だった。


「がんばって、がんばって生きて、幸せになるの! つらいことも、苦しいことも乗り越えて、自分の人生を、めいっぱい、楽しむの!」

「……私はもう、十分頑張って生きたよ。両親もちゃんと看取った。ここらで頃合いなんだ。いいだろう、どうせもう、私がいなくなったって、悲しむ人なんていないんだから」

「だったら……だったら! 逃げ出せばいいじゃん! 全部捨てて! 全部とさよならして! 一人きりで、どこか遠くに逃げちゃえばいいじゃん!」

 カミサマは叫ぶ。その感情剝き出しの言葉は、いつにないほど――

「……それは、子供の理屈だよ」

 ……おじさんの返す通り、どこか幼いものだった。

「家庭のこと、お金のこと、保険、毎月の支払い、責任とか、締め切りとか、契約とか、そんなことばかりに囚われて、縛られて、逃げ出すことなんかできないんだ。楽しさや嬉しさ、喜びなんてものは、ほとんど味わうことはできないんだ。そういうのは、二十代で終わったんだよ」

「そんなの――そんなの! おじさん次第じゃん! 勝手に見限んないでよ! 自分を! この世界を! 全部を知ったふりなんかすんな! 生きてるくせに、死んだつもりになんかなるなぁ‼」

 カミサマは言葉をぶつけた。それは暴力的で、感情的で、独り善がりでもあったかもしれない。でもそこには切実さがあった。――ひとりのとしての、切実さがあった。

 きっとおじさんにその言葉は届いていないのだろう。妙に柔らかい視線が、聞き分けのない子供に呆れ、諦めたかのような表情が、そこにはあった。

「でもね、どうしようもないことが、世の中にはたくさんあるんだよ。君たちもいつか大人になって、それを知ることになる。神様なんていない。努力が必ず報われるとは限らない。理不尽さ、不条理さ、そういうものが、この世界の本質なんだよ」

 この人がどんな人生を過ごし、どんな苦悩に直面し、どんな理不尽や不条理を見てきたのかは知らない。けれど、言葉に含まれる達観と諦念には、私の人生の二倍以上はあるだろう何十年分の重さがあるような気がした。

「――さあ、お喋りはもうお終いだよ。屋内に戻りなさい。きっとショックを受けちゃうだろうから……」

 カミサマは一歩も動かない。身じろぎひとつしない。両手をぎゅっと握りしめたまま、おじさんを睨んでいる。風に金色の髪がなびいている。

 そんなカミサマに、おじさんは諦めたように溜め息をついて、言う。

「……動かないというのなら、それでもいいけれど……――そうだね、じゃあ、せっかくこんな私に最後に話しかけてくれたことだし、どうせだから君たちに、見送ってもらおうかな。私の、惨めな死に様をね」

 全てを捨てる直前の人は、こんな風な言葉を言うものなのだろうか。投げやりで、どこか柔らかくて、寂しい言葉を。


 おじさんは柵から両手を離す。一歩踏み出して、下を覗き込む。

 一瞬だけこちらに顔を向ける、そして――――

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