2 日和

 身内だけの葬儀を終えた後、何やら話し込んでいる家族の元を離れ一人葬儀場を出た私は、すぐ近くを流れている川の土手に上がった。冬の気配はまだ残っていて、肌寒い空気に身を縮める。

 私は冬服のセーラー服姿でぼんやりと突っ立って、町の北部に連なる山々を眺める。

 春を待つ世界は曇り空、どんよりと灰色に染まっていて、どこか色彩の落ちた景色は時間が止まっているように見えた。


 兄が死んだ。


 嘘みたいなその事実を、今でも飲み込むことができなかった。

 決定的な理由は、今となっては誰にも分からない。新興宗教にハマっていただとか、そんなことを親戚の誰かと両親が話していたのを耳にしたけれど、それが本当のことなのかどうか、それだって私には分からない。

 分かりたくも、なかった。


 涙は出なかった。心の中が空っぽで、感情を動かすことが億劫だった。


 目の前を、一羽の鳥が、飛んでいく。


 分厚い雲の隙間から、太陽の光が鈍く世界に降る。晴れない心みたいに、空は重く沈んでいる。


 目の前を流れる、寒々しく映る川。やがて海に続く、河。

 河の終わり。

 平坦な戦場。


「日常は戦場だ。俺たちはそのどこまでも平坦に続く戦場を、生き抜かなければならない」

 そう言った兄は、生き抜くことをやめた。


 鋭く、寂しげな風が頬を切る。髪を撒き上げる。胸元で、赤いスカーフが揺れる。


 神様。

 どうして兄は、自殺しなければならなかったのですか。



 兄が死んでから体調を崩した母は、仕事を辞めた。ノイローゼになり、次第に家事にも手がつかなくなり、部屋に籠るようになった。社交的だった母が誰とも連絡を取らなくなり、口を閉ざすその姿は、痛々しく、そして衝撃的だった。

 真夜中、母の泣き叫ぶ声で目が覚める。台所にはクスリの個包装のゴミが散らばっている。父や私に、ヒステリックに当たり散らす。

 父も、私も、母のそんな気持ちは痛いほど分かった。兄はみんなに愛されていて、そして特に母は、人一倍いろんな期待を兄に対し抱いていた。


 けれど、私にはどうしても許せないことがあった。


「日和を東京の高校になんて行かせません」


 目の前が真っ暗になった。

 それとこれとは、別の話じゃないの?


 母は一歩も譲らなかった。陰鬱な家の空気にやられていた私は、そのことで何度も母と喧嘩をした。本当は受け入れるべきところだったのかもしれない。でも、それでも、兄がいなくなってしまったこの世界ならなおのこと、この町に私が留まる理由なんてどこにもなかった。


 山に囲まれて、電車は二十分に一本で、駅前の商店街はシャッターだらけで、南は海で北は山だから町の高低差も激しくて、そのくせバスも満足に走ってはいなくて、遊ぶ場所なんてゲームセンターとかカラオケとかそんな場所だけで、マクドナルドに100円払って二時間とかみすぼらしくて、柄の悪い金髪ばかりそこら中にいるし、映画館のついたショッピングモールは隣町にあって、その町は特産や名物も充実して賑わっているのにこの町は寂れたままで、そんな風に不満を挙げればキリがない、そんな場所に私は生きてきた。

 クラスメイトたちの世界は狭い。子供っぽくて、話はつまらなくて、付き合っていられない。色褪せた教室はどこまでも灰色で、学校行事も適当で、「心をひとつに」は、言葉だけ。誰と誰が付き合い始めて、誰と誰が別れて、誰と誰がキスをして、誰と誰がセックスをして。そんなことを毎日毎日、飽きもせず話題にして。


 青春。そんな言葉は、私には遠かった。


 そうして結局、私は地元の高校に進学することになった。父が母側に付いたからだった。何度もぶつかって、私は悔しいというよりも理不尽さに対する憤りで満ちていた。とにかく全てが嫌いで、許せなくて、それでも涙は出なかった。


 兄が亡くなってから、私の周りには、半透明の膜のようなものが纏わりつき始めた。――それは所詮、私の想像の産物でしかないのだろうけれど、それに包まれていると、世界との関係性を断ったような気分になれて、安全な場所に身を隠せた気分になれて、どこか安心することができた。


 誰とも関わりたくなくて、話をしたくなくて、会いたくなくて――ただ、兄にだけ会いたくて、私は人との関わりを避けるようになって。そのうちに段々と、クラスメイトの、教師の、果ては両親の言葉さえ、どこか濁って、ノイズのように聴こえるようになった。


 独りぼっちになった。

 私はそれでも、生きていけると思った。

 ――いや、生きることにも、投げやりだったかもしれない。

 進路も、成績も、どうでもよくて、友情も、恋愛も、部活動も、――青春なんてものも、私には関係がなかった。必要じゃなかった。

 四角い箱の中で私は透明で、誰とも交わることなく、染まることもなく、退屈な日々を無為にやり過ごしていた。制服は、私を縛りつける枷でしかなくて、「お前は此処から何処へも行けないのだ」と、突きつけられて、嘲笑われているようで。


 同じ服を着て、同じものだけを見て、同じものをして。

 それが、生きるってこと?


 あの時両親の反対を押し切ってでも東京に出ていたら、何か違っただろうか。

 そんなことばかりを考えながら、いつしか私は、兄が愛した、思い描いた、〝世界の終わり〟を、想像するようになった。

 より緻密に、より詳細に、崩壊を思い描く。終わりを望む。

 全てが破壊されて、灼き尽くされて。校舎は粉々に吹き飛んで、クラスメイトは全員死んで、ゲームセンターはひっくり返って、カラオケボックスは叩き潰されて、盛りのついた男女の逢瀬に使われる神社も焼け落ちて。

 ――そうするとふっと、心が軽くなった気がした。

 全部全部ぶっ壊す、そんな強大な力。

 爆弾。

 その爆弾は様々な形や方法となって、世界を終わらせる。

 想像の中で、夢想の果てで、何度私は世界を終わらせただろう。

 いなくなった兄の影を求めるように、兄の愛した想像力にのめり込んで。

 そうしてどうにか、私自身を保っていた。

 それだけが、今はもういない兄との、繋がりだったから。

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