第三章 そして少女たちは世界と対峙して、本当の家出を決意する。

1 常平

「いいか? 現代文明が機能しなくなったら、まずはショッピングモールに向かえ。そこで保存の効く食料や水や工具一式をしこたま奪ってくるんだ。無論競争相手はたくさんいるだろうが、幸いなことにこの国は銃社会じゃない。なんとか生きてそこから脱出したら、安全な場所に籠城するんだ」

 小学生の私に、高校生の兄はよくそんなことを言った。

「あまりにも美しすぎる彗星は見ないようにしろ。光を遮断した部屋でやり過ごすんだ。じゃないと失明してしまうからな。いいか? 視力は人間にとっておそらく一番のアドバンテージになる。崩壊した文明の中で、視力を失えば残された道は自殺しかない。それから生き返った死体には噛まれないようにしろ。噛まれたらお前も感染して、自我なく這い回るゾンビになってしまうからな」

 好きな小説や映画のシチュエーションに自分自身がいることを想定して、それを生き抜くシミュレーションに、幼い頃から私も付き合わされた。私はそれが嫌いじゃなかったし、何より兄のことが好きだったから、いつだって楽しかったことを、覚えている。

「トリフィドの日が来ても必ず生き延びられるように、ゾンビが跋扈する世界で生き延びられるように、第三次世界大戦が勃発しても生き延びられるように、正しい原チャリの盗み方と、鍵なしで車のエンジンを点火する方法と、モールス信号と、パンク修理の仕方だけは絶対に覚えておくんだ。それからできれば英語だな。英語が使えれば大体どこの国でもどうにかやっていけるだろう」

 兄の隣にはいつだって、〝世界の終わり〟があった。どこか漠然としていて、その実体は掴めなくて、それでも覗き込めばどこまでもどこまでも続いている深淵のような恐ろしさがあって、けれど何故か魅力的でもあるそんな終末を、兄は愛していた。

「終わりなき日常」「透明な存在」「デカイ一発」「平坦な戦場」――そんな言葉を教わったのも、他ならぬ兄からだった。


 二人兄妹の私たちの歳は学年にして七つ離れていたけれど、きっと私のことを可愛がってくれていたのだろう、兄はクラスメイトの男子たちと交流することと同じくらい、私に構ってくれていた。私は幼い頃から人見知りだったから、友達を作るのはあまり上手ではなくて、いつも兄に相手をしてもらっていたように思う。七つも離れていれば半ば子守りのような感覚だったのかもしれないけれど、何もない田舎町の生活を楽しく過ごせたのも、きっと兄のおかげだっただろう。

 兄は端的に言ってオカルトが好きだった。部屋の本棚にはそういう類いの本がたくさん並んでいた。インターネットのオカルト掲示板を毎日欠かさずチェックし、テレビでオカルト番組が放送されれば、膝の間に私を置いて、笑いながらそれを見ていた。

「あの映像はフェイクだけど、だからって宇宙人がいない理由にはならない」

 兄はそんなことを、いつだって大真面目に言っていた。


 兄が特に思い焦がれていたのは90年代――大げさに言えば世紀末と呼ばれる期間のことだ。

 世紀末には魅力が溢れていた、と兄は言う。どこかザラついた皮膚感覚、だなんて、自分だってその全てを十代に満たない年齢で過ごしたくせに、何かの受け売りなのか、そんな風に表現していた。

 中学生の少年少女が戦闘兵器に乗って〝使徒〟と戦うアニメーション、世紀末思想に囚われた新興宗教、地下鉄に毒ガスが撒かれた大事件、切断された児童の生首を校門に晒した少年犯罪、自殺の方法がマニュアル化された書籍、西日本の大震災、ノストラダムスの大予言……当時起きた事件、生み出された作品、流布された風説なんかに兄は大きな関心を寄せた。関連資料をいくつも手に取り、まるで追体験するかのようにして、それらに対する知識を深めていった。

「90年代に思春期を過ごしたかった」だなんて、いつだか兄は(できるはずもない)懐古の表情でそう言った。

 兄がよく聴いていた音楽は90年代にデビューしたバンドばかりで、そのどれもがどこかザラついたギターサウンドに、聴き取れないような叫び声を乗せていた。

 それこそ、〝世界の終わり〟っていう歌がそのままあって、兄はよく口ずさんでいた。


 世界の終わり。その想像力は、東西冷戦の流れを汲んでいる。兄はいつしか私にそう言った。いつか第三次世界大戦が起こるかもしれない、そんな危機感が、肌感覚が、想像力として、創作という場において発露したのだ。第二次世界大戦が終わってからの時代、終末をテーマにした多くの名作が生み出され、またそれらに影響を受けた次の世代の人々が、新たに終末をテーマにした作品を生み出していった。

 50年代のSF小説、SF映画をこよなく愛していた兄は、それらの魅力は〝世界の終わり〟に続いているからだと言っていた。あの怪獣映画の一作目だって、50年代で。


 兄は高校を卒業して、東京の大学に進学することになった。私は当時まだ小学生。兄と離れるのがどうしても嫌で、祝うべき合格発表の日から三日三晩泣き通して家族を困らせた。兄は長期休みには必ず帰省すると約束し、一人上京していった。

 小学生の間は親と共に、中学生になってからは一人で、西東京にある兄の下宿先によく赴いて、その度に兄に東京を案内してもらった。中学の時から既に狭苦しい田舎町――兄のいなくなった田舎町にウンザリしていた私は、兄に連れられて巡る東京に惹かれていった。東京の高校を受験して、兄の近くで暮らそう。そんな風に考えていた。

 中学生の自分にとって、東京は知らない世界で、電車に乗って、初めて一人で兄の元へ行った日のことを、今でも鮮明に覚えている。人に飲まれそうになりながら、ああ、私が過ごしていた世界は、ちっぽけなものだったんだ。世界は教室ばっかりじゃ、ないんだ。そんな風に思って、どこか清々しい気持ちになって、一人で東京を歩く私は、教室の誰よりも大人なんだって、誇らしく思ったのだった。

 一人暮らしを始め、時間に余裕のできた兄は、ますます自分の趣味嗜好にのめり込んでいった。傍から見れば一方的なものであるだろうけれど、幼い頃から兄の理解者であった私は、兄が東京に出てからも連絡を取り続ける中で、様々な話を聴いた。でもいつからか、私にもまるで解らないほど、その言葉たちは難解になっていった。

 2011年の春先。世界が揺れた。私の町でもはっきりと続く揺れが、普段のそれとは違うことを示していた。

 ちょうどその時春休みだった兄は実家に帰省していて、私たちは一緒になってそのニュースを見ていた。私はテレビに映し出されるその光景が恐ろしくて、〝世界の終わり〟はきっとこれよりももっと凄惨で、測り知れなくて、兄の影響で育った自分の想像力なんて可愛いものなのかもしれないと思った。

 そして、その時。津波が沿岸の町を覆い尽くす映像を見て兄は――笑っていた。

 何かが違う、と私は思った。

 兄は、誰かの死に笑うような人では、決してなかった。


 同じ年の冬。マヤのカレンダーがひとつの区切りを迎えることを根拠に、12月の21日辺りに世界が終わるのだという〝予言〟が話題になった。それを裏づける様々な〝予兆〟が関連づけられ、兄もやっぱりその予言に熱を上げた。


 だけど、世界は終わらなかった。


 それから兄は、長期休暇にも帰省しなくなった。連絡も、ほとんど返ってこなくなった。一度私が遊びに行った時もどこか上の空で、私は大学の講義とかが大変なんだろうとぼんやり思っていたけれど、そのやつれた顔はどこか痛々しく、恐ろしかった。


 そして、2014年の3月。

 私が中学三年生になる直前の春。

『世界が終わらないのならば、自分が終わってしまえばいい』

 それだけを書き残して、兄は、下宿先のロフトの梁に首を括って、自殺した。

 大学四年生になる直前だった。


 常平ときひら。日常の常に、平和の平。

 それが、私のお兄ちゃんの、名前。

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