7 トキヒラ

 池袋に行った日の夜。――深夜一時。

 ふと目が覚めて、隣を見るとカミサマがいなかった。

 部屋の扉が、空いている。

 きっとトイレにでも行ったのだろうと、起こした上半身を再び布団に沈めようとして、ふと違和感に気づく。

 蒼い月明かりにぼんやりと照らされた、カミサマの白い布団の上。

 真っ黒いシミが、ふたつ、みっつ。

「……?」

 よく見ると、それは、血だった。

「鼻血……かな?」

 すぅっと、なんとなくその血が染みたシーツを撫でる。日中体調の悪い素振りは微塵も見せなかったし、帰ってきてからも家の中を元気に駆け回っていたはずだけれど。


 ――そして、私の視線は、カミサマの布団の枕元にある、あるものに向かう。


 ポシェット。白くて、丸くて、中身は謎な、カミサマ唯一の所持品。


 ふと、よこしまな想いが、脳裡を掠める。

 無防備にも置き去りにされたポシェット。どんな時でも肌身離さず持ち歩いているそれも、真夜中のトイレばかりには、さすがに持っては行かないのだろうか。

 鼓動が高まっていく。脂汗がにわかに滲み出してくる。


 今なら、その中身を、確認できるかもしれない。


 私は、部屋の扉の先の暗闇をちらりと確認してから、生唾を飲み込んで、カミサマのポシェットに手を伸ばす。震える手を、ゆっくりと、物音を立てないように……


 ――それとも、これは信頼?


 手が止まる。

 隣の布団の枕元で、くつろぐようにして無造作に散らばった首かけの紐は、カミサマが私を信頼していることの証のように思えて。

 私は、そんなカミサマを愛しく思う。彼女を裏切ることは、できない。


 思い留まる。手を引っ込める。と、同時に、足音が聴こえて、カミサマが戻ってくる。

「あ……ヒヨリ」

 カミサマは部屋の扉前で驚いたように立ち止まる。

「トイレ?」

「うん。……起こしちゃった?」

「んー、そんなところかも」

「ごめんね」

「ううん、いいよ」

 カミサマは部屋の扉を静かに閉じて、そのまま何故か――私の胸に飛び込んできた。

「わ、なに、どうしたの」

 何も言わないで、しばらく抱き着かれたまま静寂が過ぎて。


「ヒヨリ、さんぽいこ」



 真夜中の散歩。街灯と、月明かりだけの、静まり返った世界。

「わるいことしてるみたいだね」

 カミサマはひひひと笑いながら、小さな歩幅で、私の隣を歩く。


 高速道路下の信号を渡って、辿り着いたのは荒川の土手。

「あらかわー」

 カミサマが囁き声で叫んで、くすくすと笑う。

 首都高を通過するトラックの音が、妙に心地良い。

「ねえ、今日はあの橋を歩こう?」

 幅のある荒川の上を、対岸に向けて伸びる巨大な鉄橋。深夜だからか、車はほんの時折一台二台が通過するだけで、人影なんてもちろんない。


 眼下では真っ黒な水面が揺れる。晴れた夜空、細い月が、それでもはっきりと世界を照らす。寝静まった街。流れる雲、遠く暗闇にそびえる摩天楼。

 橋の中心ほどに辿り着いて、私たちは立ち止まる。私たちは西に向かう車線側の歩道を歩いてきたので、左手側にずっと荒川があって、その流れはどこまでも南に伸びている。

 カミサマは欄干から身を乗り出すようにして、月明かりの反射する水面のうねりを眺める。

「……静かだね」

「うん」

「なんだか東京じゃないみたい」

「だねー」

 とりあえず言葉が聞こえてきたから返事だけしたみたいな曖昧な肯定が返ってきたかと思ったら、次の瞬間カミサマは勢いよく跳ね上がって、欄干の上に器用に立った。

「ちょ、ちょっと! 危ないよ何やってんの!」

「へへ~……」

 カミサマはなんとも悪戯っぽく微笑んで、それから――

「えっ、うわわっ、ちょ、ちょっと!」

 跳んだ。

 真っ黒な夜の川に向けて、飛び込んだ。一瞬の出来事で、私は手すら伸ばせなかった。

 慌てて下を覗き込む。垂直に落下していくカミサマ。

 着水しそうな瞬間、水面がぶわりと飛沫を上げて、カミサマは跳ね返ったように飛び上がって戻ってくる。橋よりも少し低い場所で滞空しながら、私に無邪気なピースサインを向ける。

「……びっくりさせないでよ」

 あまりに普通な観光の日々を過ごしていたために、今やすっかり忘れていた。

 カミサマには、ヘンな力があったんだった。

 奇蹟。確かカミサマは自分の力のことをそう言った。それは便宜上のもので、多分名称とか特にないものだとは思うけれど。

 少なくとも私がこの目で確かに見たのは、体験したのは、何かを(私を)宙に浮かせることと、お風呂の水を割ることと、それから今、自分自身をも浮かばせることのみっつだ。

 結局、この不思議な力があるからこそ、彼女のことを警察に突き出したりもできなかったりする。だって、神様っぽいじゃん。超常だもん。普通は有り得ないよ。

「ヒヨリ~見てて~」

 カミサマはそう言って、荒川上空に滞空したまま、両手をゆっくりと持ち上げる。

 すると、カミサマのそれぞれの手の真下辺りの水面が渦を巻いて盛り上がり始める。

 二本の水流が細く、とはいってもおそらく半径1メートルくらいはある大きさで、渦を巻きながら、高く、高く、カミサマのいる辺りまで上昇していく。

 カミサマが両手を胸の前で交差させると、その二本の水流はうねり始め、カミサマの頭上から、絶妙に水と水が交わらないようにして螺旋を描き始める。

「……すごっ」

 私は思わず言葉を漏らす。さらに上昇した螺旋の水流は再び二つに別れて、そのまま暴れる竜みたいに空を飛び回る。カミサマはその中心でふわふわと身体を移動させながら、水の竜と戯れる。

「いけ――――っ!」

 カミサマが右手を私の方に突き出すと、二本の水流――水竜のうちの一匹が私の方めがけてものすごい速さで突っ込んでくる。

「いやちょっと無理無理ダメだってばそれ!」

 思わずしゃがみ込んで頭を抱えると、水の竜は巨大な鉄骨と鉄骨の間を器用にすり抜けながら、橋を越えた川の水面に沈んでいった。

「ちょっと!」

 私は立ち上がって、カミサマに抗議する。

「てへへ~ごめーん」

 わざとらしく「てへへ」なんておどけちゃって。いくら真夏だからってさすがに私、あんな汚い水浴びたくないよ。

「あ、ねぇヒヨリ!」

 カミサマが残り一本の水柱も解放して、統制を失った水が勢いよく水面に戻っていく。彼女は私の方に近寄りつつ、声を上げる。

「あそこ! 座れそう!」

「あそこ……って」

 カミサマが指差したのは、橋の中央部分、欄干から出っ張った……何かを管制する装置だろうか? よく分からないけれど、それには(おそらく点検用で)人が歩けるスペースが設けられていて、橋側からも梯子を使って降りられるようになっている。とはいえその梯子の上には鉄柵の蓋がしてあって鍵までつけられていて、当たり前だけれど誰もが簡単に侵入できるようにはなっていない。そのベランダみたいな何かが突き出している部分の手摺りには、侵入防止のためか鉄製のがついていて、乗り越えることも容易ではなさそうだ。

 けれど、

 カミサマは、

 私を浮かせて。

「――うわぁ! ちょっと! いきなりやめてってば!」

 私を操りながら、カミサマもこちらに近づいてくる。

 そうして私たちは二人、そのベランダみたいな出っ張りの、白く塗装された鉄板の足場に腰かける。両足は完全に宙ぶらりんで、自分だけじゃ絶対こんなところ来ようとも思わないし、落ちても多分カミサマが助けてくれるんだろうけど、それでも下を覗き込めば、なんとなくひやっとする。


 荒れ狂っていた水面もすっかり落ち着いて、静かな水面には月が映し出される。

 私の右隣で、鉄柵を掴みながら足をぶらつかせるカミサマ。

 空を見上げる。星が出ている。東京は星が見えないと聞くけれど、それでもちゃんとこの目に映る、小さな瞬き。

「ヒヨリ」

「ん」

「ありがとね」

 ぽつり、どこか寂しくカミサマは言う。

「あの時手を取ったのが、ヒヨリでよかった」

「……ん」

 その言葉は、世界の命運を司る神様とは到底思えないような、等身大の言葉で。

「ヒヨリとの毎日はとっても楽しくて、おばーちゃんもおじーちゃんもやさしくて、カミサマはほんとうに幸せ」

「……うん」

「これからも、ずっとこんな毎日が続けばいいのに」

 それじゃあ、世界を終わらせる神様がこの世界に降り立った理由が、なくなっちゃうよ。

「……ねぇ、カミサマは、本当は――――」

 そう言いかけて、止める。

 神様でも、そうじゃなくても、関係ない。そんなこと、どっちだっていいんだ。

 だって、私だって、おんなじように、楽しいと思ったから。

 瞼の裏を駆け巡る、不思議な少女との出逢いと、そこから始まった東京の旅。

 振り返るその映像は、どれもきらきらとしていて、新しい発見が、そこにはあって。

「……ううん、なんでもない」

 言葉はいらない。きっと、それでいい。

 カミサマは私の肩に寄りかかってくる。ふわりと、バニラみたいな香りが鼻腔をくすぐる。

「ヒヨリ、すき」

「……私も、カミサマのこと、好きだよ」

 そうしてしばらくの間、私たちは黙ったまま、真夜中の静かな世界を眺めていた。



「ヒヨリ」

 ゆっくりと身体を起こしたカミサマが、眼下を流れゆく漆黒を眺めながら、どこか重々しい口調で、私を呼ぶ。

「なに?」


「トキヒラって、だれ?」


「……え……」


 風が、吹き抜けた。橋を渡る風がひょう、と、細い音を立てた。

 カミサマの髪がなびく。月明かりを受けて、鈍く輝く。


「トキヒラが、ヒヨリの〝おにいちゃん〟?」

「…………」

 言葉を返さない私が作る沈黙に、カミサマは言葉を重ねる。

「おばーちゃんの部屋に写真があったの。小さいヒヨリと、その隣にヒヨリよりも大きい男の子がいて、カミサマはおばーちゃんに訊いたの」

 何故知ったのかなんて、別にそんなこと、説明してくれなくても大丈夫なのに。

「ああ、それはトキくんだね、って、おばーちゃんは言った。トキくんってだれ? って訊き返したら、あれ、ヒヨちゃんから聞いてないの? って」

「……」

「ヒヨリ?」

 カミサマは私の目をじっと見て、いつもみたいに、私の名前を呼んだ。


「……うん、そうだよ。その『トキくん』は私の、……お兄ちゃん」

「トキヒラは今、どこにいるの?」

 カミサマは続けてそう尋ねる。――きっともう既に、全部知っているはずなのに。


「……もう、いないよ」


 もういない。

 お兄ちゃんは、、もういない。


(第三章に続く)

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