8 夕暮れ

「ふぁー! もう夕方だねー!」

 最後の光を灼きつける落陽をぼんやりと眺めながら、今日がまた終わるのだと、思う。

 カミサマはその推進力というか機動力というかとにかくエネルギーの尽きることないまま私を振り回して、日が暮れる頃になってようやく落ち着いた。

 ……というよりも、

「お腹すいた!」

 ……そういうことらしい。

 夕暮れの海浜公園。ベンチに座って流れゆく雲を目で追う。

「うん、私も」

 全身は脱力して、ベンチに貼りつきそうな感じ。気温もちょうどいい塩梅になってきて、なんならこのまま眠ってしまえそう。

「夕飯! なんか食べに行く!?」

「……ちょっと待ってよ」

 財布にはもう、の電車賃しか残ってはいない。

「今日はもう無理。お金ない」

「むー……」

 カミサマは頬を膨らませながら、上半身を左右にスイングさせる。

「カミサマは私のお金使ってる側だからね!」

 少し声を張ると、カミサマは身体を揺らす勢いのまま私の膝に倒れ込んでくる。

 ふわり、と、いい香りがした。バニラみたいな、甘い匂い。

「……」

 倒れ込んだまま動かなくなったカミサマの髪をなんとなく撫でる。

 柔らかくて、さらさらしていて、さわり心地がとてもいい。

「いい髪だね」

「うむ」

「……ねえ、この後どうするつもりなの?」

 日が暮れる。5時も過ぎた。子どもがいつまでも保護者なしで出歩いているような時間じゃない。

 カミサマはぴくりとも身動きしないまま、一言も言葉を発しない。

「カミサマ?」

「ヒヨリと一緒にいる」

「……」

 私は頭を上げて、ベンチの背もたれに首を預けて、ひとつ溜め息。

 右手はカミサマの髪を撫でたまま。

「……本気で言ってる?」

「うん」

「カミサマを探してる大人はいない?」

「いない」

「警察とかには、行かない?」

「行かない」

「……カミサマは神様なんだから、一人でなんでもできたりするんじゃないの?」

「この身体ではできないこともある」

「じゃあなんでその身体にしたのさ」

「かわいいから」

 カミサマは私の膝の上でうつ伏せの恰好になるように全身を下方向に捻って、私の腰に両手を回した。華奢な両の腕が、私を捕える。

 それは無言の懇願。どこか切実に感じられる要求。


「……分かったよ。とりあえず今日は、に行こう」



 荒川を越えた、限りなく千葉に近い東京の東側。

 そこに私の祖父母の家がある。

 私や兄や両親と一緒に暮らしていたのは父方の祖母。父方の祖父は私が生まれて間もない頃に亡くなって、祖母も兄が高校に入学してしばらくして亡くなった。

 だからこちらに住んでいるのは母の両親で、祖父母どちらも健在だ。

 駅を降りて十五分ほど歩いて、家に着く。一軒家。私はここから東京の高校に通えば何も問題はないのだと、中学生ながらに考えていた。

「……ただいま」

「あら、ヒヨちゃん、お帰りなさい」

 祖母が出迎えてくれる。祖母は私の隣にいるカミサマに気づき、小さな感嘆の声を上げる。

「まあ、お友達?」

「……うん、ねえおばあちゃん、今日この子泊めてもいいかな」

 祖母は目を丸くして、しばらく考え込む。

「……ご両親の許可は取ってあるの?」

「うん、それは、大丈夫」

 私は極めてなんでもない風に返事をする。

「こっちでできたお友達かい?」

「うん、そうだよ」

「随分と年が離れてるようにも見えるねぇ……今いくつの子?」

 カミサマの方を見る。彼女と目が合う。カミサマが何か言う前に、私は適当に彼女のプロフィールを考える。

「中学一年生だよ。近所に住んでる」

 ちょっと無理があるだろうか。でも祖母はそんなに疑問を抱く様子もなく、言葉を返す。

「あら……こんなお人形さんみたいな子近所にいたかねぇ。外国の子?」

「最近引っ越してきたんだって。うーん、ハーフ? とか?」

 カミサマに顔を向けたけれど、澄ました笑顔だけが返ってきた。

「名前はなんて言うんだい?」

「あー……えっと……」

「カミサマ!」

 カミサマが元気よく声を上げた。

「……えぇ?」

 ……言っちゃった。

「うーんと、えっと、自分でそう名乗ってるだけ」

「そうかいそうかい、カミサマちゃんね」

 祖母は訝しむこともなく、微笑む。

「……ミサとかでいいと思うけど」

 カミサマの中二文字を取ってミサ。

「いいや、カミサマって呼ばせてもらうよ。なんだか縁起もよさそうだからね」

「縁起がいい……?」

 祖母のこういう適当なところは、今回ばかりはありがたくも思える。

 ――そもそも祖母がこんな風な性格でなかったなら、家を飛び出して突然転がり込んだ私をそのまま受け入れたりしてはくれなかったかもしれない。

「夕飯は食べてきたのかい?」

「ううん、まだ。……お金、使っちゃって」

「あらそうかい、じゃ、また後であげるからね。先にお風呂に入る? ちょうどお湯を張ったところだよ」

「うん、そうする」

 私は靴を脱ぐ。カミサマを促して、私たちは家に上がった。

 玄関で祖母と別れ、とりあえず私が使わせてもらっている一階の角部屋に向かう。

「なーんだ、帰る家がちゃんとあったんだ」

 カミサマはきょろきょろと廊下を眺め回しながら、偉そうにもそんなことを言う。

「……私のことどんな風に思ってたの」

「着の身着のまま飛び出してきたのかと思ってた」

 時折飛び出す小学生の語彙じゃない言葉に引っかかりつつも、私は返事を返す。

「無計画で出てくるほど私馬鹿じゃないよ」

 とはいえ衝動で飛び出したのは事実だったりするけれど。

「……はい、ここが一応私が寝てる部屋。さすがに別の部屋用意しろとか図々しいことは、いくら神様だったとしても聞き入れないからね」

「うむ、よろしい」

 思わず溜め息。

「……布団は後で持ってくるから。お風呂、先に入ってもいいよ」

 カミサマは部屋の入り口で立ち止まって、呆けた顔でこちらを見る。

「……なに?」

 そして瞬間その表情はぱあっと明るく、にやりと無邪気に切り換わって。


「お風呂! 一緒に入る!」


「……はぁ?」

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