9 お風呂を割るモーセ
大きな声で歌なんか歌ったりして、カミサマは湯船の中でごきげんな様子。
「私もう洗い終わるよ。次カミサマの番」
「ヒヨリ洗って!」
ざぱりとカミサマは立ち上がって、私に言う。
「……はぁ? 自分の身体くらい自分で……」
「いーでしょー! ねぇー」
浴槽の縁に手をかけて身を乗り出して、可愛らしく甘えてくるカミサマ。
……仕方ないなぁ。
風呂椅子に座らせて、私は膝立ちで、まずは頭を洗う。こんなにいい髪なんだから何かしら手間をかけているのではないか、と思うと、人に身体を洗ってくれだなんていう少女のことだから誰かにいつも手入れしてもらっているのかもしれない。私なんかが適当にやっていいのだろうか。
「ヒヨリーくすぐったい~」
きゃっきゃとはしゃぎながら私に身を委ねるカミサマ。こんな子がひとりで東京をふらついていただなんて、ちょっと信じられない。彼女の境遇を、想う。
「流すよ」「うん!」
「いいねー、お風呂」
「……そうだね」
結局、私はカミサマを後ろから抱きかかえるような形で、二人して浴槽に浸かっている。
だって、二人で入ろうだなんてカミサマが言うから。でもそんなに広くない浴槽に二人が入るにはこうするしかないから……。
カミサマは私に体重を預けてくつろいでいる。
こうしてみるとなんだか妹ができたみたいで、結構悪くないかもしれない。この子の素性さえ分かっていれば、もっと気兼ねなく戯れることもできるんだけど。
「カミサマ」
「んー」
私の両脚の間に収まっているカミサマの身体。華奢で、肉付きもあまりよくはない。でも身体に痣のようなものがあるわけではないし、虐待とかは大丈夫そう。肌は嘘みたいに白くて、本当に外国の人みたい。でも日本人的な特徴も顔にはあるから、やっぱりハーフとかなのかな。
「ハーフなの?」
「ハーフ?」
「両親のどっちかが外国人ってこと」
カミサマは私から身体を離して、しばしの沈黙。
「カミサマに人間の両親はいないって言ったでしょ」
「……」
例えばカミサマが地球の代表だったりするなら、やっぱり白人なのが妥当ってことなのかな? ……なんて。
カミサマは狭い浴槽の中、身体の向きを変えて私と向かい合う。
じっと私の目を覗き込んで、湯船の中から右手を出す。
「見てて」
カミサマは右手の人差し指を立てて、目を閉じる。
すると私とカミサマのちょうど間、私の胸のすぐ前のお湯が、渦を巻き始める。
そしてだんだんと、その渦は深くなっていく――と同時に、私とカミサマの間に線を引くように、真横に広がっていく。その亀裂はどんどん深く、広くなっていって、浴槽から、広げられる空間分だけの液体が流れ出していく。太ももの一部が空気に触れる。
ついにその空間は、湯船の底と側面にまで到達した。
なんと表現するのが正しいか――多分答えは、ひとつしかないと思う。
「モーセ?」
カミサマは、浴槽の中の液体をふたつに割ってみせた。
私の太ももの一部分と、カミサマの両膝だけが、綺麗に空気に触れている。
私は思わず自分の胸に寄せていた手を前に伸ばして、液体の断面から割れた空間に晒してみる。
空気に触れた右手を手前側に返して、湯船の断面に触れてみる。温かく、触れれば手が濡れて、それは間違いなく自分が浸かっている、湯船のお湯だった。
「……すごいね」
「カミサマだから」
自信ありげにそう言って、カミサマは右手を下ろす。そうすると堰を切ったように、液体が空間に向かって雪崩れ込む。湯船の嵩は少しだけ下がったけれど、元通りに戻る。
初めて入る浴槽に、何かしらのトリックを仕掛けられるとも思えない。
カミサマは何かしら超常的な力を持っている。そのことは信じてもいいと思う。
とはいえ、それで神の証明になるかと言われたら。どの方法もなんだか妙に可愛らしくて、いまいち説得力には欠けるのだけれど。
なんだか分からないけれど、カミサマのことを愛おしく思った。
「わぁ、ヒヨリ、なに」
カミサマの身体の向きを変えさせながら、抱き寄せる。さっきと同じ体勢に戻る。
「んー、別にー」
ぎゅうっと抱き締める。柔らかくて、暖かい、普通の女の子のからだ。
カミサマは両手を合わせて、親指の隙間から器用にお湯を飛ばす。小さな間欠泉。
なるようになればいいかな。なんて、柄にもなくそう思う。
正直なところ、東京の心細さにも耐えきれなさそうな頃合いだった。
何か新しい刺激がほしいと、思っていたところだった。どこにいたって憑いてくる退屈を吹き飛ばしてくれる何かを、求めていたところだった。
私って意外と弱いのかもな、なんて、情けなくもそう思う。
息巻いて、飛び出してきたのに、実は行き当たりばったりで、こっちにきたところで、特に何かするわけでもなくて。――高校に通うって目的があれば、きっと違ったよね?
「カミサマ」
「なに?」
「私、よく分かんないよ」
「なにがー?」
「生きるってこと」
カミサマは両手の間からぴゅっとお湯を飛ばす。
「うーん、それはねぇ」
カミサマは両手を湯船に沈めて、首まで深く浸かり込む。
静かな浴室。湯気が立ち昇っていく。
「カミサマにもよくわかんないや」
「……カミサマは何でも知ってるんじゃなかったの?」
「ケースバイケースだよねー」
気の抜けたように、カミサマは呟いて。
「……じゃあ『何でも』って言ったらダメじゃん」
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