2 カミサマ

 今日もまた、行く宛ても特になく、東京の街をふらついている。彷徨うようにして――事実、私は彷徨っていた。

 息苦しい田舎町を飛び出して、ずっと憧れていた東京にやってきたはずなのに、存外心が躍らなかった自分に驚いた。憧れも、日常に接続されてしまえばその輝きは薄れてしまうのかもしれない。いやむしろ、そんな話以前に私の心は冷めきっているのかもしれなかった。

 明日はもう8月。冷静な心とは対照的に、毎日ウンザリするような暑さが続く。立っているだけで汗が噴き出す。蝉の声は喧しい。なんでも世界の気候はどんどん狂っていっているらしくって、上の世代の人たちは「夏ってこんなだったっけ」「冬ってこんなだったっけ」とよく口にしている。

 東京はひたすらに人が多い。鬱陶しくもあるけれど、でも人混みに混じっている間は、自分が何者でもないことを誤魔化してもらえる気がして、実は結構心地がいい。透明な存在。誰も私のことなんか見ていない。私もまた、すれ違う誰もを見ていない。人が多いだけあるのかたまに変な人もいるけれど、視線を外せばどんな顔をしていたかもすぐに忘れてしまう。

 最近は便利な時代になったらしい。私みたいな現役高校生世代とってはもう当たり前のことだけれど、知らない土地を歩く時は地図アプリさえあれば大抵なんとかなる。兄は高校生当時まだ「ガラケー」なるものを使っていて、地図アプリはそこまで頼れるものでも精度の高いものでもなかったのだという。酷だ。私には考えられない。それすらなかった時代の人は、どんな風に生活していたのだろう。祖母が兄の高校入学のタイミングで本屋で地図を買ってきたことがあった。学校までの道のりを調べて書き込んでおきなさいということだったけれど、デジタル世代の兄はまるで意図が分からないみたいだった。祖母は兄が意図が分からないみたいな顔をする意図が分からないみたいな顔をしていた。「だってばあちゃん、今は地図とかネットですぐ見れるし、最短ルートだって出してくれるんだよ」兄はそう言って、居間にあるデスクトップパソコンの画面を指差した。祖母はそれからしばらくして亡くなって、私の家族は父、母、兄、そして私の四人暮らしになった。結局その地図は一度も広げられることのないまま、今も家のどこかにある。と思う。



 手元の便利な携帯端末を眺めながら、猥雑な繁華街に足を踏み入れる。人目を引くためだけにあるような毒気のある看板は真昼の太陽に照らされて、ぎらぎらと目に痛い。

 日曜日。夏休み。とにかく休みの日である今日7月31日。街にはひたすら人が溢れていて、どこか息が詰まりそうにもなる。私の町に、こんなに人が集まる場所なんてあっただろうか。商店街のお祭りが頑張ってなんとかこれっぽい景色を作れるような気もするけれど。


 自分の町。相変わらず比較をしてしまう。

 もはやそれは、憑き纏っている、と言ってもいいのかも知れない。

 どうしようもない劣等感。別に私自身の話じゃないのに。


 お腹が空いた私は、どこか手頃なファミレスでも入ろうかと思い立つ。

 ――東京にくれば毎日美味しいものが食べられるものかと思っていたけれど、グルメサイトで目ぼしいお店を探すのにも三日で飽きてしまった。何よりも、いちいち値段が高い。アルバイトなんて無論していないのだから、お金は考えて使わなくちゃならない。だから結局、安くて確実にそこそこの味が保証されたチェーン店ばかりに入ってしまう。

 すぐに見つかるだろうと歩き進めると、自分の町にも当たり前にあるような有名フランチャイズのファミレスの看板が目についた。どこか安心するその緑色。安心している自分にウンザリする。お店は二階にあるらしく、看板下の階段には「階段上がって2F」と矢印のマークが記されている。

 立ち止まって、何とはなしに2階を見上げた。下半分がスモークになった窓ガラスの奥で、楽しそうに談笑をしながら食事している客がいる。今の時間は混んでいるだろうか。混んでいるだろうな。何を食べよう。そんなことをぼんやり考えながら、階段へ向かおうとした時。


 ものすごい音がして、ファミレスの窓ガラスが吹き飛んだ。爆発したみたいだった。

 きらきらと、眼前に分厚いガラスの破片が飛び散る。通りを歩いていた人が驚いて身を屈め、両腕で頭を抱えて散っていく。


 訳が分からなかった。

 爆発、爆弾? テロリズム?

 私の足は止まる。棒立ちになって、そして――


 ――そして、そのきらきらの破片を纏って、2階の窓から、金色の髪をした一人の女の子が、勢いよく飛び出してきたのだった。


 全てが止まって見えた。びっくりするくらいのスローモーションで、情景がコマ送りされる。私はガラスから頭を守ろうとすることもなく、ただ突っ立ってその光景を呆然と眺めていた。

 その不思議な光景は、私の目に強く灼きついた。自分の目が大きく見開かれたことが、自分でも分かった。

 その女の子は、不運にも彼女の真下にいた大柄なおじさんを押し潰すようにして、無事地面に着地した。おじさんの上に跨ったまま、周囲をきょろきょろと見回している。

 シンプルな白いワンピース。淡く輝く金色の髪は肩よりも長く、着地の余韻でふわりと揺れて。


 それはこの場に不釣り合いなほど、美しい女の子だった。


 目が合った。

 一瞬の沈黙。

「く、食い逃げです! 掴まえてください!」

 ぽっかりと吹き抜けになった窓から大きな声がした。私は一瞬だけ視線を上に向けて、すぐに目の前の彼女に戻す。周りの人々は、突然の出来事に困惑して立ち尽くしていたり、好奇の目で写真を撮ったり動画を撮ったりしていた。これもきっとまた、すぐにインターネットにアップロードされて、共有されてしまうのだろう。

 シェア。共有。くだらない。馬鹿馬鹿しい。そんなことで繋がった気になってるの?


 女の子は声のした頭上へゆっくりと顔を向けてから、こちらへ向き直る。そして、


 にぃっ、と、それはそれは屈託なく、笑った。


 瞬間、女の子は、足元に散らばるガラス片を踏まないように、こちら側へ向かって跳んできた。――それはまさに言葉通り、おじさんの上から、特に身体のばねを利用したようにも思えないのに、効果音にするなら「ばいんっ」といった感じで、突っ込むようにこちらに向かって跳ねてきた。

「――わっ」私は思わず声が漏れる。

 女の子は私の目の前に着地して、私の顔を覗き込む。透き通った綺麗なブラウンの瞳が、じっと私を見据えた。澄んだ金色の髪に、ブラウンの瞳。それでもどこか日本人らしい顔つき。もしかして、ハーフだったりするのだろうか。

「タイクツ?」

 少女は言った。幼い、可愛らしい声だった。

 小学校の中・高学年くらい、と形容できるあどけない顔つきのその女の子は、少しだけ首を傾げて私からの返事を待っていた。タイクツ、たいくつ、退屈?

 何故だろう、理由は分からないけれど、その女の子の言葉はすっと、私の胸に落ちた。

「うん、退屈」

 そして驚くほど素直に、私は答えていた。

「じゃ、一緒に逃げよ」

「――――え?」

 彼女は言い終わるとほぼ同時に、私の手を引いて駆け出した。――飛び出した、と言った方が正しいかもしれない。私の「え」は、ガラスの散らばったファミレスの前に置き去りにされて。バイクのアクセルを全開にしたみたいに、勢いよく彼女は走り出して、私の方が身長も高く体重もあるはずなのに、私は彼女に引っ張られるようにしてついていくことになった。私が彼女の言葉を飲み込めてもいないことなんてお構いなく。金髪の少女はどこか楽しそうに、人混みに突っ込むようにして、走っていく。突然飛び出した彼女に体当たりされて、スマートフォンを手から落とす青年の狼狽した顔。ニヤニヤ動画なんか撮りやがって。なんかよく分かんないけどざまーみろ。データ全部消えちゃえ。

「その人ッ! 食い逃げです! 掴まえて!」

 後ろから声がする。アルバイトの大学生といった感じの青年が、ファミレスの制服姿のまま、大声を上げながら追いかけてくる。私自身も含めて、なんだかコントみたいで滑稽だ。

「どけどけー!」

 女の子は楽しそうに声を上げながら、突き進む。その勢いに驚いた通行人たちは皆慌てて脇に避けるため、作られた道を減速することないままに私たちは進んでいく。

 事態を把握しきれないまま、手を引かれるままに走り続ける。

「この辺詳しい⁉」

「え? あ、詳しくないよ!」

「あ、ここ左曲がろ!」

「うぇ――――」

 直角90度のターン。遠心力で振り回される。なんならもう私、半分宙に浮いている。

 彼女の推進力は留まることを知らない。風を纏っている……というよりも風そのものみたい。なんだか私は逆に冷静だった。



 五分ほど走り続けたと思う。人通りの少ない路地裏で、ようやく私たちは足を止めて一息ついた。

「はぁ、はぁ、む、無理……死ぬ……」

「逃げ切ったー!」

 女の子は無邪気に飛び跳ねた。

「私より小さいのに元気だね……」

 今どの辺りだろうか。多分渋谷からずっと北に走ってきたと思うのだけれど。

「あー……っと」

 改めて冷静に目の前の少女……幼女? 女児? を見る。

 肩よりも長い髪は淡く輝く金色。小さな顔。大きな目。瞳の色は透き通ったブラウンで、少し貧相にも見える華奢な身体つき。それでいてあれだけの駆動力があるのだから、人は見た目に依らないのかもしれない。エネルギーに満ち溢れているお年頃?

 女の子は首を傾げ、観察する私を一目見て、すぐさま辺りをきょろきょろと見回し始める。

 そんな彼女を眺めながら、現状についてを脳内でまとめてみる。


 割れた分厚い窓ガラス。

 驚異的(?)な身体能力。

 小学校中・高学年くらいの女児。

 食い逃げ。

 それについてきてしまった、私。


 あれ? これって結構まずくない?


 今にも駆け出したくてたまらない、みたいに小さく跳ねている目の前の少女。

 どう声をかけたらいいだろう。

「……ねぇ」

「んー」

 女の子は、私に顔も向けないまま、周囲の建物を様々に眺めている。もの珍しげに、という形容は間違っていないようにも思える。

「えっと……えっとねぇ」

 何から訊こう。訊きたいこと、というよりも訊かなければいけないであろうことが多すぎる。とりあえず名前だろうか。

「えっと……あー……お名前は、なんていうの?」

 自然とそんな口調になる。もう「お名前は?」なんて年頃でもないのかもしれないけれど、無邪気というか無垢というか、彼女のそんな雰囲気に、必要以上に幼い印象を抱いてしまう。

「カミサマ」

「……はい?」

 女の子は言った。「あなたは何?」と訊かれて「人間」と答えるのと同じくらい、当たり前の口調で言った。

「カミサマはね、カミサマ」

「……え?」

「カミサマなの」

「神、様?」

「うん。カミサマ」

 ちょっとよく分からない。カミサマ。神様。Godという意味で合っているのだろうか。

 これって、つまり、あれか。小学生の男の子が「俺は神だ~!」と宣言するような、何の根拠も理由もない一種の遊び、あるいは「お前マジ神だわ」と言われた時の「だろ? 俺は神」みたいな、やっぱりそれは戯れのポーズ。

 女の子は「タイクツ?」と尋ねてきた。それが言葉通り「あなたは退屈ですか?」という意味だったのであれば、そう訊いてきた彼女自身が退屈で、同意や賛同を欲しくてああいう質問をしたのだと考えることもできる。

 だからつまり彼女は遊び相手を探していて、私はたまたまそれに選ばれた。

 ……ってことで、合ってる?

「カミサマのことはカミサマと呼びなさい」

「え?」

 その声のあどけなさに似合わない命令口調で、彼女は言う。

「わかった?」

「えーっと……あー、うん、分かった、けど」

 そうお望みならば。特に問題になるようなことじゃない。

「よろしい」

 両手を腰に当てて、満足そうに頷く〝カミサマ〟。

「……小学生?」

 それにしたって私はもう少しこの子のことを知らなければならない。果たしてあのガラスが割れたのはどうしてなのか、この目の前の女の子自身の仕業なのか。食い逃げとは本当なのか。その場合今の私も共犯になりかねない。ナントカ罪で。知らないけど。大人しく警察に連れていってあげるのがいいのだろうか。親だって心配しているだろう。訊きたいことはたくさんあった。

「小学生? とは?」

 カミサマはアホっぽく首を傾げた。

「え……いや、カミサマのご身分。どこ小? この辺に住んでるの?」

「カミサマはカミサマ」

「えー……あー……うーん」

 ちょっと、その、頭足りてない感じの子なのかな。

「おうちはどこ?」

 カミサマはその質問に、笑って青空を指差した。

 びしっと、力強く掲げられた右腕。天に向かってぴんと伸びる、小さな人差し指。

「……ほんとに?」

「うん。ほんとに」

「ほんとに神様?」

「ほんとにカミサマ」

 ……どうやらそういう設定らしい。野暮な口は挟まずに付き合ってあげることに決める。

 どういう経緯でファミレスから逃げ出したのかは知らないけれど、どうせこの子とも、すぐに別れることになる。整った顔や特徴的な喋り方や凄まじい運動神経のことはしばらく忘れないとは思うけれど、でも多分もう、二度と再会することもない。適当にあしらっておけば、それでいい。


「カミサマはね、1999年に終わらせ損ねた世界を終わらせるために、この地上に降り立ったの」


「……え?」

 人気のない路地に、生温い風が吹き抜ける。カミサマの髪が小さくなびいた。

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