第一章 2016年7月31日
1 渋谷スクランブル
「世界なんて終わっちゃえばいいのに」
スクランブル交差点のど真ん中で、私は立ち止まる。
世界が終われば。
そうすればこの退屈も、憂鬱も、やるせなさも、憑き纏う焦りも苛立ちも、全部消える。
そんな風に、思う。
ぐるりと世界を見渡してみる。
人、人、人、雑踏。談笑、客寄せ、通話、雑音。ビル、光、青空。
行き交う人たちが、怪訝そうに私を睨む。
人波の中心に、私は立っている。
東京。
1999年の7月、世界は終わる予定だったらしい。
医者で占星術師で詩人で料理人だったおじさんが言う通りならば、その夏に恐怖の大王がやってきて、世界中めちゃめちゃにしてくれて、綺麗さっぱり滅んでいたはずで。
でも、世界は終わらなくて、何事もなく続いて、時同じくして、私は生まれた。
2016年7月31日。17歳になったばかりの私は、生きている。
例えばこの世界の行く末を決める、神様がいるとして。
神様はどうして世界を終わらせなかったのだろう。いっそその夏に終わっていれば、母親のお腹の中か、あるいは生まれたてでまだ意識もないような自分のままで、その終わりすら気づくことなく消滅して、今この瞬間こんな気持ちを抱くこともなかったはずなのに。
2012年にも、世界が終わるだなんて予言が少しだけ話題になった。中学校の教室でもそれなりに会話の種になったし、兄がどこか楽しそうに「もうすぐ世界は終わるんだ」って教えてくれたことも覚えている。波に攫われて、瓦礫に圧し潰されて、たくさんの人が死んだって、それでも世界は続いたのに。
ああ、世界を終わらせなかった神様へ。
どうして私は生まれてきたんだろう。
どうして私は、生きているんだろう。
目を開いたまま、想像する。現実の景色に重ね合わせるように、頭の中にもうひとつの風景を思い描く。
紅い色をした空。くすんだ銀色の月。乾いた風に砂が舞い上がる。
剥き出しのコンクリート、鉄骨。灰色の森は朽ちて、枯れ果てた。
灼きついた黒い影。叩き落とされた高架線。真っ二つになった高いビルディング。
目の前にある大きなビルは上半分が抉り取られ、液晶パネルや窓ガラスが砕けて粉々に散らばっている。
駅に直結したデパートの窓ガラスはごちゃごちゃした内装と共に吹き飛ばされて、それはまるで小さな子供が無邪気に障子に穴を開け尽くしたみたいで、漠然としたその空白は寒々しく映る。その風景は、大きく飾られていたあの「神話」みたいに色鮮やかじゃない。
息絶えた電飾に縁どられた看板は砂に埋もれて、辛うじて頭だけを覗かせる。
地面から人の手が生えている。足元に頭蓋骨が転がっている。
私以外の人間は、全員死んだ。生命は全て息絶えた。
世界の終わりの風景。
そんな世界の終わりに、私は一人佇んでいる。
白く濁った半透明の薄皮を纏って、私は世界を眺める。
その薄いヴェールは自分自身と外界の全てを隔てる絶対的な壁。
頭の先からつま先までを包むように、楕円形に周囲を覆うそれは、多分外側から見ればラグビーのボールみたいな形をしていて、そしてその中に私はいる。
そのヴェールに包まれていれば、放射能に汚染されることもなく、砂に気管支をやられることもない。
絶対的な壁。世界の終わりにいながら、俯瞰する第三者。
絶対に安全。絶対に破れない。それは全てを拒絶する。
世界の終わりを知ることができるのは、私だけが生きているから。
「
名前を呼ばれた気がして、振り返る。
意識が途切れたその瞬間、現実の風景が視界の全てになる。
炎天下の熱気を全身で知覚する。喧しいほどの環境音が戻ってくる。
振り向いても、知らない人、人、人。一瞬で忘れるような顔、顔、顔。
私が会いたい人は、此処にはいない。
でもその声は、確かに聴こえた。
声。懐かしい声。
お兄ちゃんの、声。
世界の終わりを想像する時、どこからか兄の声が聴こえてくる。それはいつも一瞬で、掻き消えそうなほどか細くて、それでいて確かに聴こえる声。どこか暖かくて、でも虚しくて寂しい、そんな声。その声は私の絶対的な薄皮を貫いて届く、唯一の例外。
荒廃した終わりの地平から私を現実に連れ戻すのはいつだってその声で、けれどその声は意識した瞬間にその痕跡さえ残さずに霧散してしまう。
それでも確かに聴こえたという事実。この頭の中に響いたという事実。あるいはそれはぬくもりとして、現実の地平に立ち戻った私に残される。
例えばこの雑踏のどこかに、兄がいるとして。
私には絶対に気づかれないように、見守ってくれているとして。
お兄ちゃんは、こんな私を笑うかな。どうしようもなく惨めで、憐れな、17歳の私のことを。
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