第21話 僥倖のブロック(1)


 体育棟の中に入ると、四人の女子は更衣室へと向かっていった。しかし運動部員ではない僕は着替える必要はないので、彼女たちが着替え終わるまで手持ち無沙汰となってしまった。だからといって、男子である僕が女子更衣室の前で待っているわけにはいかない。色々と誤解されて面倒なことになりかねないからな。


 そんなこんなで、僕は一足先に卓球部の活動場所である第三トレーニングルームに向かうべく、階段を上って二階へ行く。まあ彼女たちがここに来る前に、部長である門脇さんに話を通しておくべきだしな。


 そう思いつつ、最早通い慣れた体育棟の廊下を進み、第三トレーニングルームまで来るのだが、いつもなら聞こえてくるはずのピンポン玉の音が聞こえない。僕は不審に思いながらも扉をノックしてみるが、やはりというか、中から返事が来ることはなかった。


 僕は悪いとは思いつつも、恐る恐るノブに手をかけ、勝手に扉を開けてみる。そして中を覗き込んでみると、室内はもぬけの殻であった。卓球台は既に展開されているのだが、部員は誰もいなかった。


「皆、外に出てしまったのかな?」


 どうやら僕たちが話し込んでいる間に卓球部は集合を終え、ロードワークをするために外へ出ていき、僕はそのタイミングで来てしまったようだ。卓球部のロードワークがどの程度の時間を割いているのかはわからないので、いつ部員が帰ってくるのかわからなかった。


 しかし誰もいない活動場所に部員以外の人間がいれば、窃盗等あらぬ疑いをかけられかねない。そこで僕はそっと扉を閉め、第三トレーニングルーム前で待つことにした。


 少しばかり待っていると、四人が階段を上ってきた。全員トレーニングウェアに着替えており、それぞれが自身の相棒が収まったケースを抱えている。


「あら、中に入らないの?」


「中は誰もいない。僕はあくまで部外者だから、こうして外で待っていた」


 先頭にいた黒木さんがそう尋ね、僕は何気なく答えるが、黒木さんはいつも通り興味なさそうに「あらそう」と返事するだけだった。


「まあボクらはもう部員だから、入っても問題ないよ」


 僕は入ることを躊躇っていたが、今はもう正式な部員である不動さんに促されては、断る理由はない。僕は彼女たちが入っていくその後ろについていき入室。後ろ手に扉を閉めた。


 卓球部活動場所に四人の少女、中学卓球における伝説である〝全中四天王〟が揃った。


 そしてそれを認識した途端、まるでこの場の重力が増したかのように僕の身体が重たくなった。しかしそんな現象など起こるわけがない。僕はただ、彼女たちから放たれる威圧感に当てられて、身動きがとれなくなっただけである。


 彼女たちは特別なことはしていない。いつも通りの彼女たちだ。だがここは卓球場という戦場であり、動きやすい格好という鎧に愛用のラケットという武器を用意し、あまつさえ強大な敵を目の前にしている状況である。彼女たちの威圧は無自覚に増幅していた。


 これが畏怖である。これは絶対的強者と同じ空間にいる故の感覚であった。


 僕は思わず息をのんでしまう。彼女たちと相対する選手は、まずこの気迫に打ち勝たなければならないのだ。そしてこのプレッシャーを拭うのは容易なことではない。僕は、中学時代に彼女たち〝全中四天王〟と試合しなければならなかった選手に同情せざるを得なかった。


「さて、守りを主体にした者同士の戦いだから、試合長引くよ」


 ふと不動さんの呟きによって僕の意識は正常に戻った。気がつくと直江さんも黒木さんもケースからラケットを取り出しており、既に台についている。番匠も得点板を持ち出して卓球台の横に控えている。


 僕は邪魔にならないよう配慮しながら、番匠とは反対側、不動さんの傍らに待機する。そして直江さんと黒木さんの試合、いや決闘が始まった。


 不動さんの言う通り、これはお互いが守りに重きを置いた試合だ。黒木さんは守備型の選手であることは、卓球部の騒動の黒幕を明かされた際に、彼女の異名を耳にしたときに知った。


 対する直江さんは持久戦を好む選手だ。守備と持久では多少違うが、どちらも守りが固いことには変わりない。


 よって目の前の試合は、これといって決定打が放たれることなく、ボールはコートを行ったり来たりを繰り返すだけであった。


 後陣にて行うカットは、ドライブやスマッシュといった勢いのある打球には有効だが、黒木さんの勢いのない牽制の打球にはいまひとつであり、直江さんは普段よりも台に近づいた位置で短くカットを振るうだけだった。それに対して黒木さんは冷静に、そして堅実に打ち返していく。


 しかしそれでも試合は進んでいく。得点に繋がる一打が、要所要所で放たれているからだ。


 それは直江さんの能力でもある超精密打球。故意にネットの上部やコートの角を狙った打球は、寸分の狂いもなくそこに命中、それにより急激に勢いや方向が変わったボールに黒木さんは対応できず失点していた。


 ただ黒木さんにはそういった一打がないため、試合は一方的であった。ラリーが長い分一点が決まるまでは長いが、それでも直江さんの優勢は揺るがなかった。


 しかし僕としてはどこか腑に落ちなかった。というのも、素人の見立てではあるが、この試合はこのまま直江さんの圧勝になるのではと思えてしまう。でもそうなると、事前に試合することを躊躇っていた直江さんの態度に説明をつけることはできない。同様に、試合前の黒木さんの自信がどこから来るのかもわからない。


 だからこそ僕が今抱いているこの感覚は、恐らく正しいものなのだろう。この試合、何かが起きる。今はまだ嵐の前の静けさであるに過ぎないのだ。


 そしてそれは、一気にではなくじんわりと姿を現し始めた。


 試合は黒木さんが無得点のまま直江さんが五点目を獲得し、折り返し地点に差し掛かっていた。その局面において、黒木さんはネット上部やコートの角に触れたボールを拾い始めた。黒木さんが直江さんの精密打球に対応し始めたのだ。それにより直江さんの能力は得点源になり得なくなった。


 一点が決まらない。そのじれったさが試合を観戦している僕にも伝わってくる。固唾を飲んでボールの行方を見守るしかできなかった。


 直江さんは懸命に点を取りに来る。だが彼女の精密打球が結果に結びつくことはなかった。ネットに触れても台の角に触れても、黒木さんは難なく拾い続ける。直江さんが黒木さんの今の体勢から不利になるだろうコースに当たりをつけて的確に打球を放つが、黒木さんはそこにボールが来ること事前に察知していたかのように打ち返していく。


 全てのボールを捌き続けるその様子は、まるで未来が見えているかのようであった。


「始まったな」


 隣で呟きが聞こえてきたので、僕は試合を見ながらも耳は不動さんに集中した。


「これが、智美の卓球だ」


 不動さんがそう言った途端、ボールはネットに接触した。それはまたしても直江さんによる精密打球の狙撃であったが、今回は様子が違った。


 ボールが、ネットを乗り越えない。


 直江さんの放った打球はネット上部に当たったが、ボールはネットを乗り越えることなく、押し戻されるように直江さんのコートにこぼれ落ちた。それにより黒木さんに一点が入った。黒木さんの初得点である。


 だが僕はその光景に驚愕した。直江さんの絶対のコントロールはこれまで遺憾なく発揮されてきた。それはこの目で見てきたので確かである。しかしその精度に綻びが生じ始めたのだ。


 次いでサーブが放たれ、またしても拮抗したラリーが続く。ボールがバウンドする音が耳朶を打つなか、僕の視線は必死に打球を追いかけていた。試合の展開が気になってしょうがなかった。


 今回も直江さんの能力は発動するが、黒木さんはその都度的確に対応していく。そして何度目かになる精密打球が放たれ、今度はコートの角が狙われる。しかしその打球はコートに触れることなく、そのままアウトとなった。


 二点目を得て徐々に巻き返している黒木さんだが、その表情からは焦りや安堵などといった感情は見受けられない。一方直江さんは先程までの優勢がなくなり焦りが出てきたのか、表情が険しくなりつつあった。そしてその直江さんの表情は、次のサーブから発展したラリーが一打、また一打と続く度により険しいものになっていった。


 またしても直江さんのミスでラリーは打ち止めとなった。そして次も、その次も直江さんは打ち損じていき、それに比例して黒木さんの得点が増していく。直江さんはじわじわと追い詰められつつあった。


 そしてついに、試合の転換期を迎えた。直江さんのサーブに対して黒木さんはレシーブをして、その打球を直江さんは打ち返すが、ボールはネットに絡め取られて静止した。今回はラリーすらなかった。黒木さんは連続五点を得て、直江さんと同点になる。


 次のサーブが放たれ、ボールは数回往復した。しかしあるとき直江さんの放った打球は浮き上がり、黒木さんにとってチャンスボールとなった。黒木さんはそれを逃さず、大振りにラケットを振るいスマッシュを打ち出した。その打球は番匠には遠く及ばないものではあるが、高速であることには変わりない。直江さんはその打球に不意を突かれ、対応が遅れてしまい点を奪われた。


 ついに黒木さんは、逆転を果たしたのであった。


 そしてその後も、ラリーは滔々と流れる川のように、遮るものもなく繰り広げられる。だがそのラリーに終わりを告げる一打は唐突に放たれる。


 黒木さんはボールを打ち返すが、黒木さんは台の左側に寄って返球したため、右側ががら空きになってしまった。そして直江さんはその隙を見逃さず、やや打球に勢いを乗せてそのコースを狙撃する。しかし黒木さんはその打球に飛びつくかのようにラケットを振るい、カウンターでドライブを打ち抜き得点につなげた。


 見事なまでの試合運び。黒木さんのラケットは華麗に舞い、破竹の勢いで点を重ねる。それは彼女の優雅さと相まって人を惹きつける卓球になっていた。


「なあ、気のせいだと思うんだけど――」


 だがそんな素晴らしい美技も、一つだけ気になったことがあった。


「――会長、さっき直江さんが打ち返す前に、動いてなかったか?」


 僕はボールの行方を目で追っていたので、直江さんのコートにボールがバウンドした際は直江さんの方を向いており、黒木さんは精々視界の隅に入ったか入らなかった程度である。そのため確証を持つことはできないが、あのとき直江さんがラケットを振るったときには、既に黒木さんは返球の動作に入っていたような気がする。それはまるで直江さんの打球を先読みしたかのようだった。


 あえて隙を作り、そこに飛び込んできたところを返り討ちにしたかのようだ。


「それになんだか、会長に都合のいいボールが定期的に来ているような気もする」


 そして僕の気がかりは、そこに帰結する。


 確かに直江さんの打球は精密だ。だからこそ都合よくミスすることはないはず。しかし黒木さんの前では、そのミスが増えているかのようにも思える。


 だがその原因が、直江さんではなく黒木さんにあるとしたら?


「そうだね。確かに智美とって都合のいいボールが、都合のいいタイミングで来る。でもそれは偶然なんかじゃなく、意図してやっていることなんだ」


「意図して、やっていること……」


 僕は不動さんの言葉をおうむ返しに呟いてしまう。


「そう。智美の悪癖を知っているだろ?」


「ああ。嫌というほどに」


 黒木智美の悪癖。それは自身の鋭い洞察力を活かして人間観察をし、その人の振る舞いから性格や趣味趣向を読み取り、そこからその人の行動パターンを推測している。そしてその推測のもと、一石を投じることで誘導するのである。そのため多くの人が黒木さんの手のひらの上で踊らされてしまい、数多のグループが壊れてきた。黒木智美は、悪魔みたいな人である。


「え? まさか……ッ!」


 不動さんがそう言ったことにより、僕は黒木さんの能力の正体を察することができた。しかしその事実を容易に信じることができず、驚きの声は最後まで出て行くことはなかった。


「智美の悪癖は、卓球にも用いられる。試合の序盤は相手選手の観察に徹し、情報を集める。そこから行動パターンを全部計算し、完全な予測を立てる。そしてその予測をもとに相手を誘導してチャンスボールを生み出す。。それがあの子の強さなんだ」


 打球予測からの打球誘導。それが黒木智美という卓球選手の特異性であり異常性であるところだった。番匠風香がセンス、直江凛子がテクニック、不動真理菜がメンタルとするならば、黒木智美はさながらといったところだろうか。


 直江さんが打ち損じているのではなく、直江さんがこのタイミングで精密打球を放つと事前にわかっているから、それを崩すような打球を黒木さんが放っているだけなのだ。いや、もしかしたら、精密打球のタイミングすら黒木さんが仕組んだのかもしれない。


「でもその正体に気づけるのは、智美の人となりを知っている人だけ。普通の人は、偶然にも、幸運にも都合のいいボールに恵まれるという見方しかできない。だからこそ智美は〝僥倖〟と呼ばれるようになった」


 意図して生み出された好機は、他者にとってはまさに思いがけない幸運にしか見えないのだろう。僕は黒木さんの卓球を見る前に彼女という人物を知っていたからこそ、試合の違和感に気づくことができたのだ。


 その黒木さんの能力に為す術もなく翻弄され続ける直江さんは、一方的に点を奪われてしまい、その点差はどんどん開いていく。そして黒木さんは十点目を獲得し、マッチポイントとなり、次いで放たれるサーブで最後の点を取った。黒木さんは今までの傾向から直江さんのレシーブの特徴を読み取り、直江さんがレシーブを失敗するようなサーブを打ち出したのだ。直江さんは黒木さんの能力によって完敗した。


「続き、やるかしら?」


 一ゲームを終えたところで、黒木さんは対面の直江さんにそう尋ねたが、


「いえ、もういいわ。私の負けよ」


 直江さんはすんなりと負けを認めた。


「なんか、潔いな」


「ええ。だって、智美さんの能力は、試合が進めば進むほど完成度が上がっていくもの」


「どういうこと?」


 直江さんの言葉をすんなり理解できなかった僕は、隣の不動さんに助けを求めた。


「智美の観察は、能力が発動してからも続けられるってこと。継続的に観測し、その都度修正していくから、試合が長引けば長引くほど相手に勝ち目はなくなっていく」


 つまり、能力は更新されるということ。ただでさえ強力な能力であるのに、それは際限なく精度が向上する。


 相手の動きを完全に読み、自分に都合がいいように操作する。


 それはある意味で、未来を見通す力でもあった。


 そんなもの、最強ではないか。相手した選手としては、どう太刀打ちすればいいのだろうか?




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