第9話 要求
僕が寝る頃に降りやんだ雪は、翌朝その暁光を受けて一面白銀色に輝いていた。僕はそれを踏みしめながら登校し、いつも通りの学校生活を送る。時折校舎の窓から外を覗き込んでみると、雪は冬の陽光で幾分溶けたようではあるが、全てが溶けきるにはまだまだ時間がかかりそうだった。地面も雪かきをした分しかあらわになっていない。
そして一日の授業が終了し放課後に。僕は門脇さんの教室に出向き彼女と合流、二人で図書室へ向かった。変に早かったり遅かったりすると、最悪の神経質である直江さんの逆鱗に触れかねないので、僕は最大限に空気を読んで歩調を加減した。
冷気に包まれた廊下を歩き図書室に到着。念を入れて扉をノックしてから入室した。中に入るとすぐ貸し出しの受付カウンターがあり、そこには目的の人物である直江さんが姿勢よく座っていた。これまでの気遣いが功を奏したのか、直江さんの機嫌は悪くはなかった。
「お久しぶりです。直江さん」
「そうね。お久しぶり門脇さん」
直江さんは読んでいた本を閉じ、挨拶をした門脇さんに向き直って返事した。台詞としてはなんてことのない普通の挨拶であったが、門脇さんは朴訥とした話し方であるのに対して、直江さんは冷徹に答えたように思えた。二人の関係を知っている分なんだか一触即発な空気感がそこにはあった。
でもこれはまだマシな方である。もしアポなしで、しかも読書中の直江さんに話しかけたとなると、目も当てられない惨状になること間違いなしであった。
直江さんの性格と過去の行動から推測するに、直江さんは僕たちが来るまでの暇つぶしとして本を読むことにしたが、その読んでいる箇所は既に読み終えたところであり、いつでも切り上げられるようにしていたのだろう。内容を知らない箇所だったのなら、直江さんはブチギレる上に区切りがいいところまで読み終えないと動こうともしないのだ。だが内容を知っているのであれば、中断されても文句はないようだ。何せ先が気にならないから。
それが、自分の予定を最優先とする直江凛子の特徴であった。
生真面目であるが故に融通がきかず、そしてそれが原因で性格が歪んでしまった女の子なのである。
「渡部くんから話したいことがあると聞いたわ。……そうね、ここは図書室――」
「ああ、わかった。場所を移そう。図書室でのおしゃべりは厳禁だしな」
僕は直江さんの話を先回りして提案した。僕としては少しでも直江さんの気に障る要素を減らしたいのだ。
「……別に場所を移す必要はないわ」
しかし直江さんは違うことを考えていたらしく、眉をひそめて不満そうな目つきで僕を見つめた。
「え? どういうこと?」
「確かに図書室での会話はよくないけど、その理由は静かに読書したい人に迷惑がかかるからでしょ。でも今は、私たち以外誰もいない。迷惑を被る人は誰もいないじゃない。ならば誰かが来るまでここで話をしていても問題はないはずよ」
そう言われて僕は図書室の中を一瞥した。確かに僕たち以外誰もおらず、物音一つしていなかった。
「他の部員は?」
「今日はいないわ。受付の担当日は決まっているけれど、その日さえ来てくれれば、別に毎日来なくても問題ないわ。元部員だから、あなたも知っているはずよね?」
何故か責めるような口調なのだが、基本的に直江さんはこういう口調の人なので、そこは気にしないようにする。
「まあな。大した活動している部活でもないしな。さしずめ今日の担当は直江さんで、他の連中は来ていないってか。上手く人払いしたな」
「担当日のことはその通りだけど、人払いのことは偶然よ。担当日じゃなくても来る人はいるわけだし、普通の生徒も来るからね。他に人がいれば場所を移すつもりだったわ」
確かに。いくら図書部の活動場所とはいえ、部員以外の生徒も来る。とくにテスト前の時期に静かな場所を求めて来る人が。
「でも意外だな。直江さんのことだから、てっきり人がいなくても図書室での会話を嫌うと思っていたけど」
「そう? そう思われていたことこそ、私にとっては意外でした」
「そうなのか?」
「ええ。渡部くんは私の性格を知っているから、私の物事の考え方にも理解があると思っていたのだけれども、どうやら違ったようね」
そりゃそうだろ。別に相手の性格を知っているからといって、相手の思考パターンを把握していることにはならない。仮にできるとしたら、それはうちの生徒会長である腹黒い黒木さんくらいなものだ。残念ながら僕にはそこまでの洞察力はないよ。
そう思いつつ、僕は無言で首を傾げて続きを促した。そういうことをいちいち口に出していたらややこしいことになってしまう。とくに直江さん相手なら。
「私は規則などをきちんと守る人間だけど、その規則の理由さえクリアしてしまえば、無理してそれを守る必要はないと思っているの。従う意味のない規則なんて、従うだけ無駄よ」
「なんか、信号無視する人の言い訳みたいだな。車が通っていなかったら赤信号でも渡っていい、みたいな」
「理屈は一緒だけど、信号無視は道路交通法で罰則されるから、私は信号無視なんかしないわよ。法律は破ったその行為自体が悪だから、流石に法律には従うわ。でも図書室の会話はそうではない。あくまで一般常識としていけないのであって、もしそれに従わなくても罰せられることはない。だから別に従う必要はない。まあ、校則で定められ、破ったら停学処分になるというなら、私は図書室での会話はしないけどね」
僕は開いた口が塞がらなかった。直江さんの生真面目はどこへ行ったのやら。しかし続く言葉で、僕はその考えを否定した。
「罰則されない規則なんて規則じゃない。でも規則で定めている以上、そこには何かしらの理由がある。ならばその理由を理解すれば、何しても問題ない」
そう、直江さんはただの生真面目ではない。歪んだ生真面目なのだ。そこに正当な理由があるならば、その行為をよしとする思考回路なのである。全ては自分の中にある独善的な正義感で判断しているのだ。
「なんだか、直江さんらしいですね」
直江さんの知らない一面を目にして呆気にとられていた僕だが、傍らにいる門脇さんは違ったようだ。
「直江さんの卓球も、そういうものだった」
「そうね。ルールに抵触しないのであれば、それは立派な戦法であり戦術よ。それで相手がどう思っても、私には関係ない。ルール違反ではない勝ち方ならば、純粋に勝ちだもの。試合に勝てばそれでいいのよ」
「そうですね。だからこそ、直江さんの卓球は皆に嫌われている」
なんだか剣呑な雰囲気になってきた。そろそろ止めた方がいいのかな? そういう事態にならないようにするのが僕の役割なわけだし。
しかし、門脇さんが数拍の間を置いて「言いすぎました。すみません」と謝り、直江さんも「事実だから、気にしてないわ」と言ったため、僕の懸念は杞憂に終わった。
「そうね、丁度卓球の話にもなったし、そろそろ本題に移りましょうか」
直江さんにわざわざ時間をつくってもらったのにはわけがある。というより、わけがなかったらこんな面倒くさい人と話をしようとも思わない。僕としてもあまり関わりたくない人物であるので、さっさと目的を果たそう。
「そういえば、直江さんって〝全中四天王〟だったんだな」
まずは導入として、そのことを聞く。もう直江さんが〝全中四天王〟の一人であることは歴然としているのだが、この文学少女然とした人がスポーツをしている姿が想像できないため、僕としては得心が行かなかった。
「そうね。知らない人からしたら驚かれるでしょうね。でも、私は幼少の頃から卓球をしていたので、技術と運動能力については自信があるわ。……それに、見た目の地味さと運動能力に関連性はないわ」
直江さんはそう答えるが、後半部分は眼鏡の奥の目を細め、射抜くかのような鋭い視線で僕を睨みつけた。別に外見のことは口に出していないのに、まるで心でも読んだかのように直江さんにばれてしまった。もしかしたらこういう質問は何度もされたのかもしれない。
「確かに……。いやまあそれもそうなんだが、念のための確認だよ。ほら門脇さん、本題を」
僕はそれとなくごまかし、直江さんが反応する前に門脇さんを促した。門脇さんは急に話をふられて一瞬身体がビクッと硬直したが、一度深い呼吸をしてから真っ直ぐ直江さんを見つめる。
「直江さん。卓球部に戻ってくれませんか?」
そして端的に用件を告げた。
「そうね。それに関して、私からは一つだけ条件を出させてもらうわ」
それに対して直江さんは、人差し指を立てて返事したが、その人差し指は即座に逆向きになり、下を、つまり床を指差した。
「卓球部部長として、土下座しなさい」
僕は直江さんが言っていることを理解するのに数拍の間を要した。
「え? なに?」
直江さんの言葉はちゃんと聞き取れたのだが、その言葉が意味することを理解したくないため、僕は思わず聞き返してしまった。
「土下座しなさい、と言ったの」
しかし直江さんの要求は変わらなかった。直江さんの指は、変わらず床を指している。
「土下座って……」
僕はたまらず狼狽してしまうが、
「わかりました。それで戻ってきてくれるのであれば、わたしはそうします」
隣にいる門脇さんは素直にその要求をのみ、その場に腰を下ろし、正座する。そして両手を床につけ、頭を下げようとした。直江さんも、カウンター越しでも見えるよう、椅子から立ち上がった。
「待てよ」
だが僕は、門脇さんの肩をつかみ、それを阻止した。
「どういうことか、説明してもらおうか」
僕としては、何故直江さんは土下座を強要し、門脇さんはそれに従ったのか理解できなかった。そこに客観的に理由を求めるなら、直江さんが被害者であり、門脇さんが加害者であるかのようだ。そして謝罪するのが当たり前であることが、両者の共通する見解であった。
だが、もし本当に門脇さんに非があるとしても、僕は好きな女の子が土下座する姿は見たくなかった。それを許容できるほど、僕は冷徹ではない。
「あなたには関係のない話よ」
僕の正面から、その声が聞こえた。直江さんが発した声だ。その声と視線は、僕をおののかせようとしているかのように凄みがあった。だが僕は、それに怯まなかった。
「それは違うな。僕は門脇さんに頼まれて仲介役を引き受けた。両者荒立てず穏便にことが済むよう間に立つのが僕の役目だ。だが今はどうだ? 土下座を要求している時点で既に穏便ではなくなった。もうこうなってしまったら、第三者として僕は二人を止めざるを得ない。違うか?」
「…………」
僕の言葉に、二人は黙ってしまった。その場の勢いでまくし立ててしまったが、あながち間違ったことを言ったわけではない。そして僕の言葉が正論であったからこそ、二人は沈黙しなければならなかった。
その状態で、数秒の時が流れた。
「……そうね。渡部くんには説明する必要があるね。わたしが巻き込んだのだし」
そしてその沈黙を破ったのは、正座をしている門脇さんだった。門脇さんは肩に僕の手を乗せたままスッと立ち上がり、直江さんを直視した。
「過去のことを、渡部くんに話してもいいかな?」
「そうね。仕方がないわね」
門脇さんの問いに、直江さんは承諾した。こうして二人の口から過去の出来事、〝全中四天王〟の集団退部事件の真相が明かされる。
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