第5話 神速のスマッシュ
二月の夕暮れは早い。僕と番匠が学校に戻ってくる頃には、太陽は既に傾いていた。校舎には西日がさし、空には茜色から紺藍色へ移り変わるクラデーションが広がっている。そしてそれらは刻々と深まっていく。
僕は昇降口で番匠と一旦別れ、先に卓球部の活動場所である第三トレーニングルームに足を向けた。一応扉をノックしてみるが、中からの反応はない。恐らく跳ねるピンポン玉の音で聞こえないのだろう。僕は再度ノックしたのち、返事を待たずにゆっくり開ける。
確か僕がここを離れたとき、部員たちは多球練習の準備をしていた。今はその練習が佳境に差し掛かっているのか、雨あられのように無数のピンポン玉が飛び交っている真っ最中であった。たまに打ち損じたボールが、拳銃から排出された空薬莢のように明後日の方向へ飛んでいく。
洗面器のような器にこれでもかと詰め込まれたピンポン玉から一人がトスし、それをもう一人がラケットを振るい打ち込んでいく。そしてボールは台の反対側に設置された防球ネットに吸い込まれていく。
繰り返し、繰り返し。動作を反復して技を身体に馴染ませていく。
その中には、当然門脇さんもいる。練習に途中参加した彼女は、運動のためTシャツとハーフパンツに着替え、サラサラの髪を後頭部で一括りにしている。いくら片想いしているからとはいえ、流石に理由もなく部活に押しかけて彼女を見つめることはできない。そのため、門脇さんのトレーニングウェア姿は新鮮であり、僕はいつの間にか見蕩れていてぼーっと立ち尽くしていた。
容器の中のボールがなくなり、トスが途切れた。それに伴いマシンガンの如くボールを打ちまくっていた門脇さんの動きが止まり、代わりに下級生が忙しなく球拾いを始めた。門脇さんはペットボトルで水分を補給し、タオルで滴る汗を拭う。その一息の最中、彼女は室内全体を一瞥し、部長らしく部員たちの様子を見守る。
その視線移動の際、僕と目があった。咄嗟のことで僕は気恥ずかしくなり、思わず顔を伏せて視線を逸らしてしまった。しかし門脇さんは僕が会釈したと思ったらしく、微笑みながら会釈し返してくれた。
僕は部長である門脇さんに、これから番匠がお邪魔することを伝えたかった。なので、僕は練習の邪魔にならないよう壁際を歩いて門脇さんに近づき、声をかけようとした。しかしそのとき、不意に勢いよく扉が開かれた。
部員たちが入室してきた人物を見て、その動きを止めた。
汗を拭う部長の門脇さんも、ボールを打ち込んでいたエースの成瀬さんも、トスを出していた人も、球拾いをしていた人も、皆硬直した。
入室してきたのは他でもない、番匠だった。〝全中四天王〟の一人、番匠風香。
部を辞めたはずの彼女が何故この場所に来たのか、事情を知らない部員たちには皆目見当がつかなかったはずだ。しかし何しにこの場所を訪れたのかは明白であった。
何せ番匠は自前のスエットを着ており、小脇にはA4用紙ほどの大きさの四角いケースを抱えていたのだ。明らかに運動をしに、卓球をしに来ていた。
「渡部くん。これは……」
門脇さんは露骨に戸惑っており、僕に詳しい事情を尋ねてきた。
「あー……なんか、話をしたら取り敢えず一回練習に参加するってことになった」
ただ全てを話してしまうと余計混乱させてしまいそうだったので、僕は端的に述べた。しかしそれでは脈絡を把握することはできず、門脇さんは小首を傾げて僕を見つめた。
「門脇さん久しぶりー。ウチちょっと打ちに来た。いいかな?」
そんな門脇さんの様子を気にすることなく、番匠はズカズカと中に入ってくる。番匠としては、卓球部の長である門脇さんに断りを入れようとしているだけのようだ。
「はい。別に構いませんけど……」
部に〝全中四天王〟の四人が戻ってきてほしいと願っている門脇さんとしては、そう返事するしかなかった。
「今って、多球練習している感じかな?」
「そうですけど、もうそろそろ切り上げて、実戦を想定して試合形式で練習するつもりなの」
門脇さんは番匠に問われ、室内の時計を見上げながらそう答えた。
「じゃあさ――」
それを聞いた番匠は、徐に満面の笑みを浮かべ、
「――ウチ一番強い人と打ちたいな」
しれっと宣戦布告してきた。それはつまり、〝全中四天王〟である番匠と卓球部のエースである成瀬さんの対戦を意味していた。
「アタシはいいよ」
そして部長である門脇さんが何か言い返す前に、当人である成瀬さんが賛同した。門脇さんは一度ため息をつき、「仕方がないわね」と諦観してそれを認めた。
多球練習によって散らばったピンポン玉と卓球台に設置された防球ネットは早急に片付けられ、床に軽くモップがかけられた。
その間番匠は着ていた上下のスエットを脱ぎ、Tシャツとハーフパンツ姿になる。そして持ち込んでいたケースから自身の相棒であるラケットを取り出した。ペンホルダーのラケットだ。さすがの僕でも、卓球には二種類のラケットがあることくらい知っている。
番匠が準備を終えると同時に、片付けも終わった。本来ならいろんな人に対戦を申し込み、時間いっぱいまで試合形式の練習をするとのこと。そのためいつもなら全ての台が埋まってしまうらしいのだが、今日に限ってはそうならなかったようだ。
使用する台は一台だけ。皆が皆、番匠と成瀬さんの対戦が気になってしまい観客と化してしまった。そして僕も門脇さんもそのうちの一人であった。
番匠と成瀬さんがそれぞれ台につく。そして他の部員が得点板を持ち出し二人の間、ネット間近のところに立つ。そしてその反対側には主審としてもう一人の部員が立った。こうして四人の女子が卓球台のそれぞれの辺の前で待機する。僕と門脇さんを含む観客は、試合を妨げないよう台から十分離れたところで彼女らを見つめた。
門脇さんによると、卓球の試合は一ゲーム十一点先取で勝ちになり、それを三ゲーム制することで最終的な試合の結果となるようだ。つまり接戦になれば、最大五ゲームまで引き伸ばされるとのこと。ルールも細かい制約等々あるのだが、そこはザックリと「相手のコートにボールを打ち返せなかったら失点する」と説明してくれた。すごく単純でわかりやすい。
「長々とやるのも面倒くさいから、一本勝負にしない?」
そう提案したのは番匠だった。
「一本やれば、それなりに相手の実力もわかるでしょ」
「まあアタシとしては、別に構わないけど」
そして成瀬さんはその話にのった。番匠は一本やれば相手の実力がわかると言ったが、それは果たして番匠が成瀬さんの実力を測るのに一ゲームで十分という意味なのか、それとも番匠が成瀬さんに自分の実力を誇示するのに一ゲームで十分という意味なのか、僕にはそれがわからなかった。番匠のその提案はようとして真意が知れないが、もしかしたら単純に時間短縮のためだけなのかもしれない。まあせっかちな番匠ならありえなくない理由である。
そんなこんなで、番匠対成瀬さんの試合は、先に十一点目を得た方が勝ちとなった。
じゃんけんの結果、成瀬さんからサーブをすることになった。卓球のサーブ権は、点を取った取られた関係なく二回サーブをすれば交代となるようだ。
番匠はレシーブのため台の前で構え、成瀬さんのサーブに備える。一方成瀬さんはボールを真上にトスし、落下してきたボールを右手に持ったシェークハンドのラケットで打ち込む。試合が始まった。
成瀬さんのサーブは、成瀬さんのコートで一回バウンドし、そしてネットを超えて番匠のコートでもう一回バウンドする。番匠はその打球に対して大きくラケットを振って打ち返す。その瞬間、軽快な音と共にボールが消えた。
「え?」
起きた出来事は至極単純である。番匠はレシーブでいきなりスマッシュを打ち込んだのだ。しかしスマッシュによって一気に加速したボールは、僕の動体視力では視認することができなかった。
「今の、入ったの?」
「ええ。きっと」
僕は隣にいる門脇さんに確認をとるが、動体視力を鍛えているはずの門脇さんでも少々自信なさげであった。卓球は高速のスポーツであると認識を改めたが、まさかボールが消えるほど速くなるとは思わなかった。
「入ったよ」
しかし僕たちの会話は成瀬さんにも聞こえたらしく、選手としての立場から事実を教えてくれた。
「見えたよ。番匠の打球。でも、見えただけ。身体が反応できなかった」
成瀬さんはそう言うが、え? 今の本当に見えたの? どんな動体視力をしてんだよこの人は!
でも、それも納得できないわけではなかった。人は動体視力を鍛えられるし、なにより運動時であれば、高速で動く物体に適応することができる。
しかしそれは、番匠の前では関係なかった。番匠のスマッシュは、身体的に強化された成瀬さんの速度をはるかに凌駕していた。成瀬さんの目で捉えた情報を身体に反映させる刹那の時間のうちに、番匠の打球はコートにバウンドして通り過ぎていったのである。
一同唖然とした。レシーブでいきなりスマッシュを打ち込むことも驚きに値するものだが、そのスマッシュが尋常ではない速度を叩き出したことの方が驚愕である。なんだ、こいつは? 本当にあの番匠なのか?
だが当の番匠はどこ吹く風といった様子であり、表情に変化はない。見た目だけはいつものせっかちな番匠とそう変わらなかった。
番匠がボールを吹っ飛ばしたせいで、そのボールは行方不明となった。そのため成瀬さんは一年生から新しいボールを受け取り、二回目のサーブをするためトスをする。
放たれたサーブは先程と同様に成功するが、そのサーブに対する番匠のレシーブは、またしてもスマッシュであった。弾丸のように打ち出される番匠のスマッシュはコートに入り、そのまま成瀬さんの後方へと消えていった。……と思う。
成瀬さんが二回サーブをしたことにより、サーブ権は番匠に移る。番匠も成瀬さんと同じく真上にボールをトスしたのち、落下してきたボールをラケットで打ち込む。番匠のコートでワンバウンドし、ネットの上を通過したのち成瀬さんのコートでもう一回バウンドする。サーブに関しては実に良心的なものだ。僕にも視認できる程度の速度である。
成瀬さんはそのサーブを冷静に処理し、打ち返したボールはネットを超えて番匠のコートに戻っていく。
しかしボールが番匠のコートでバウンドする前に、番匠は既に動いていた。ラケットを持った右手を後ろに下げ、スマッシュを打つ動作に入っていた。そしてボールがバウンドして番匠のもとに向かうそのさなか、番匠はラケットをボールに叩きつけた。大振りのスマッシュはまたしても不可視の速度に達して打ち出される。僕には捉えられなかったが、どうやらまたコートに入ったらしい。よくあの速度で打ち出して失敗しないな。お世辞抜きですごい。
点を得た番匠は、二回目のサーブを打ち出す。そしてレシーブされたボールに対してまたスマッシュを打ち込んだ。
サーブ権が移り変わり、成瀬さんのサーブとなるが、そのサーブは番匠のスマッシュという名のレシーブによって打ち返され、成瀬さんは失点した。
得点板を見やれば、成瀬さんは無得点のまま、番匠と五点差がついていた。そしてこうも一方的な試合を見せられると、番匠風香という卓球選手の特異性、いや異常性というものが見えてきた。
番匠は初球で、必中で必殺のスマッシュを打ち込むということ。
「なあ、さすがの僕でもおかしいと思い始めたんだが、番匠はどういう選手なんだ?」
試合が展開されている中、僕は傍らにいる門脇さんに話しかけ、番匠の異常性について尋ねた。
「番匠さんは非常にせっかちな人だということは知っているよね?」
「まあ、普段から付き合いのあるやつだからな。いやというほど体験してきた」
今日も電話の件といい財布の件といい、僕は散々番匠に振り回された。今更番匠のせっかちにとやかく言うことはない。番匠風香はそういう人物だ。
「そのせっかちがどうかしたのか?」
「番匠さんは、自身のせっかちという性格を上手く卓球に反映させているの」
僕は門脇さんの言葉を聞いて疑問符を浮かべた。どういうこっちゃ? しかし僕のその反応は予想通りであったらしく、門脇さんは補足するかのように話を続けた。
「せっかちな番匠さんは『いかにして早く試合を終わらせられるか』という発想になってしまうの。そして番匠さんはそれを実行している。それがレシーブで決定打を打ち込むという戦法に結びついているの。少ないラリーで点を得る前陣速攻型としては、理想的なスタイルだね」
その前陣速攻型がなんなのかは、素人である僕にはわからなかった。しかしスタイルの方向性だけはなんとなく把握した。
いかにして早く試合を終わらせられるか。それが番匠の卓球だという。
「でもそんなこと、そう簡単にできることじゃあないだろ? よくはわからないが、スマッシュって難しいのだろ」
そんなに簡単にスマッシュが決まるのなら、皆バカスカ打ちまくるはずである。
「それができるほどの才能があるのかもしれないわね」
門脇さんは番匠と成瀬さんの試合を見つめながらそう言った。僕たちが話している間も試合は進んでおり、更に点差が開いていた。
「番匠さんは初球で必ずスマッシュを打つ。こちらがボールの方向や回転を試行錯誤して打たれないように工夫しても、番匠さんは確実にスマッシュを決めてしまう。あそこまで作業的に決定打を打ってしまうとなると、最早経験という感覚だけで卓球をしているようなもの。そしてその域に達するまで相当な努力をしたと思うの。でもその感覚による判断力が、番匠さんの強みであるのよ」
「それは、直感で動くことにより、試合そのものを最適化しているかのようだとでも?」
門脇さんは僕の理解に頷いてくれた。番匠は言わば、迫るボールを見ただけで、何をどう動けば決定打として打ち返せるか、直感で把握していると思われる。それ故あそこまで素早く、そして精度の高いスマッシュが打てるのだ。
「〝神速〟、それが番匠さんの異名。〝全中四天王〟の中で最もセンスに長けた人物なの」
どんな状況でも必中で必殺の決定打を放てるずば抜けたセンス。その誰よりも破壊力に特化したスマッシュを打ち込むことにより、さっさと試合を終わらせてしまうせっかちな選手。〝全中四天王〟の一人、〝神速〟の番匠風香。番匠の卓球はその名に恥じない素晴らしいものであった。
卓上では、またしても番匠のスマッシュによる軽快な音が鳴り響く。得点板を見ると十点差となっており、最早試合は決したようなものだった。
そしてマッチポイントとなった番匠は、受け取ったボールを宙に投げてサーブを放ち、レシーブされて返ってきたボールに対して、これまで通りスマッシュを打ち込んだ。それによって十一点目を獲得し、番匠の勝利となった。
成瀬さんはいつの間にか負けていた。番匠相手に、手も足も出なかった。その事実は成瀬さんを慕う部員たちを動揺させるに十分なほどの衝撃であった。しかし当の本人と、試合を観戦していた門脇さんにとっては当然の結果であったらしく、二人共どこか諦観した表情をしていた。悔しさなど微塵も感じられない。それほどまでに、二人は番匠の実力を認めていた。
試合終了後、番匠は「ありがとうございました」と礼を言ったのち、台を離れた。番匠はラケットをケースにしまい、汗を拭うこともせずスエットを着た。汗ぐらい拭けよと僕は思ったが、番匠をよく見てみると汗など全くかいていなかった。番匠にとって、その程度の運動であったのだ。
「番匠、どうだった?」
僕は番匠に近づき、そう尋ねた。尋ねずにはいられなかった。この試合が何かの切っ掛けになればと思ったが、あまりにもあっさり終わってしまったため、果たして番匠にとって切っ掛けになり得る試合だったのか不安になったからだ。
「あ、渡部じゃん。ウチ、決めたよ」
しかしそれは杞憂であったらしく、何をどうしたいのかを見失っていた番匠は、今の試合で何かを得たようだ。
「卓球部の誰かがウチに勝てたら、部活に戻ってあげる。いつでも挑戦は受けるよ」
だがその何かは、前向きなものではなかった。でもそれは、自分と互角以上の人が卓球部に現れれば、いつでも部に戻ってもいいということでもあった。
「ああ。強いやつを用意してやる」
それはつまり、他の〝全中四天王〟を先に部に引き戻せばいいだけのことである。全中での名声は番匠一人だけのものではなく四人のものであり、四人の実力は拮抗しているのだ。番匠一人だけが突出して有名だったわけではない。よって、番匠を倒せる要素が他の三人にはあるのだ。
他の皆が戻ってくれば、自分も部に戻る。僕は番匠の言外の意味を悟った。
身支度を済ませた番匠は「じゃ」と言い残して第三トレーニングルームから去っていった。番匠は風のように来て、風のように去っていった。なんとも落ち着きのないやつである。
「渡部くん。その、番匠さんを連れてきてくれてありがとう」
「いや、結局失敗した」
番匠が去ったあと門脇さんは僕にお礼をするが、僕としてはお礼してもらえるほど成果を上げていない。
「これは失敗のうちに入らないよ。むしろ成功したようなもの。あと三人、なんとか引き戻しましょう」
「そう、かな。じゃあ、次も頑張ろうな」
「はい」
僕の言葉に、門脇さんは屈託のない笑みを浮かべて返事してくれた。僕はその笑みに、何故か救われたような気がした。僕は片想いの相手である門脇さんと親密になれるよう行動していたのだが、もしかしたら無意識のうちに、門脇さんに失望されたくないと思うようになっていたのかもしれなかった。必要以上に必死になっていたのかもしれない。だからこそ門脇さんの言葉に、僕は安堵したのだ。
僕はその笑みをもっと見たかった。そしてそれは可能であった。
実質残り三人。僕は残りの〝全中四天王〟を引き戻すため、決意を新たにする。
〈第一部『神速のスマッシュ』、了〉
〈第二部『狙撃のカット』に続く〉
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