第2話 くちづけ
流を乗せた自転車は、やがて高層マンションの駐輪場前で止まった。
「おれ、駐輪場に自転車置いてくるから、ちょっと待ってて」
「あ、…ああ」
流はマンションを見上げる。
「(ここって確か、市内一の超高級マンションじゃなかったっけ…)」
以前、不良仲間の三原が話していたような気がする。基本的に、他人の話は右耳から入って左耳へ抜けていくため、詳しいことまでは覚えていないが。
「お待たせ」
優等生は戻って来るなり、何食わぬ顔で流の手を取り、
「おれに切られたとこ、痛いか?」
微笑みを浮かべながら、そう尋ねて来た。
「…なんで嬉しそうなんだよ」
「そう見える?」
「口元が笑ってるんだよ」
「そっか、…おれ笑ってるのか。じゃあ、急いで手当てしますか」
なにが「じゃあ」なのか。尋ね返す間もなく、流は手を引かれるがまま、エレベーターに乗り込んだ。
「…親御さんは?」
「ん?」
「…親。家にいたら、気まずいじゃん」
「ああ、親ね。母さんは数年前に亡くなったし、父さんは仕事が忙しくて帰って来ないよ。ほぼ一人暮らし」
「…こんな高級マンションに?」
「なんだよ。羨ましいのか?」
「…いや、別に」
エレベーターは45階で止まった。扉が開く。生活感を全く感じさせない、薄暗い廊下を歩き、優等生は「458」と書かれたドアの前で立ち止まった。どうやら、ここが彼の家らしい。
カードキーを通すと、ドアの向こうから鍵の開く音が聞こえた。
優等生がドアを開ける。
「廊下の先にあるドアを開けると、居間があるから、そこにいて」
「…おまえは?」
「おれは、救急箱取って来る」
言われた通りに進むと、ドアの向こうには、ソファーとローテーブル。そして、50インチ程のテレビが置かれただけの、殺風景な部屋が広がっていた。
「(持て余してる感が出てる)」
流は遠慮なく、ソファーにどっかりと座り込んだ。自転車の荷台に乗るのは、意外と疲れるのだ。
不意に、眠気が襲ってくる。
「(…いや、でも…ここで寝るのはないよな…)」
と考えながら、流の意識は遠のいていった。
目が覚めると、部屋の電気が点けられていた。
「(…俺、マジで寝ちゃったのか…)」
ソファーから体を起こす。
左頬に大きなガーゼが貼られていた。どうやら、流が寝ている間に、怪我の手当ては終わったようだ。
家主の姿を探して辺りを見回すと、居間の隣に設けられた台所に立っている背中を見つけた。
呼びかけようとして、名前を知らなかったことに気付く。
「(つか、初対面のヤツの家で寝こけるとか、有り得ねーぞ、俺)」
睡眠薬を盛られて、他の不良グループのアジトに監禁されたこともあるというのに、この心の緩みはなんだ。
流がテーブルに手をついた音で、優等生がこちらを振り向いた。
「ああ、起きたんだ」
「…なんで起こさねーんだよ」
「起こして欲しかったの?」
「いや、普通起こすだろ」
「そう?」
優等生がふふっと微笑む。
「だって、すっごく気持ち良さそうに寝てたんだもん」
「…気持ち良さそうって…」
「おまえさ」
優等生が真面目な顔になる。
「ちゃんと寝てないんじゃないの?」
「…そんなの、おまえには関係ないだろ」
「一応起こしたんだよ。でも、爆睡してたから、全然起きなかった」
「…」
「なんか、やっと安心して眠れたって感じで」
「帰る」
こいつに、自分の事情を話すつもりなどない。怪我の手当ては済んでいるのだ。ここに留まる理由はない。
ぺちゃんこのスクールバックを鷲掴み、ソファーから立ち上がる。
「おいおい、せっかくだから、晩飯食ってけよ」
自然な足取りで、優等生が流の前に立ち塞がった。
「そんなのいらねーよ」
「おれの料理、美味いよ?」
「…そもそも俺は、そっちの喫煙を誰かにチクるつもりなんか、全然ない」
「そうなの?」
「そうだよ。なのに、そっちが勝手に早とちりやがって」
舌打ちで言葉を切る。話し過ぎた。一発殴って黙らせれば済むことなのに。それで明日、彼が佐川にチクろうがどうでもいい。流にとって、そんなことは日常茶飯事なのだから。
「どけよ」
優等生を突き飛ばし、廊下へ出るドアを目指す。
「待てよ」
流の左手が掴まれた。
息を呑む。
「おれがおまえをここに連れて来たのは、口止めの為なんかじゃないんだけど」
「…え?」
「まあ、いいや。寝てる間に傷口開いたかもしれないから、もう一回手当てさせてよ。あと、晩飯も作ったんだ。せっかくだし、食べてって」
左手を掴まれたまま、ソファーに戻される。
「(…なんでだ)」
こいつの手には、逆らえない。
「なあ」
優等生が両手で流の手を包み込む。
「…なんだよ」
「この手をおれが放したら、おまえはまた逃げるの?」
「…どういう…意味だよ…」
「そんなこと、ないよな」
そう言うと、優等生は流の手の甲に、音を立てて口づけをした。
デキソコナイ 彩 遺 @nuke-gara
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