第29話 結末

 フロントガラスごしに目の前に迫りくる大地。

 あと、少しで激突する。

 迫りくる死の恐怖にイザは思わず、体を固くして目をつぶった。


 ふいに。

 その操縦かんを握るイザの手に、温かいものが重なる。


(なんだ……?)


 イザは目を開けて覆いかぶさってきたものを見た。

 それは、血まみれになった白い袖。袖口には金色の刺繍が施されていた。

 その手が、イザの手の上から操縦かんを握っている。


「任せ…て…くれ」


 低く渋みのある声が、すぐ耳元でそう呟いた。

 イザはその言葉の意味をすぐに理解して、邪魔にならないように体をずらす。血まみれの白い制服の男はイザと代わって操縦席についた。

 イザは、男をみる。

 ところどころ血のしみに染まった白い制服を身にまとった男。

 チェルネンコ機長だった。


 機長は、時々痛みに顔を歪めながら操縦盤のスイッチをあれこれ操作し、操縦かんを引く。息も荒く、操縦席に座っているのすら辛そうだった。

 それでも。S7812便の機首は機長の指示に従って、素直に上を向いた。


 それまで感じていた嫌な下降感がやみ、身体に重力が戻ってくる。

 急激に上昇したことで今度は身体が押さえつけられるような重さを感じるが、安定して飛行しているためだろう不安感はなかった。

 迫りつつあったロシアの大地が遠くなり、地平線がどんどん下がっていく。


 機長は無線のボタンを押すと、すぐさま明朗な声で告げた。


「こちらS7812。ハイジャック犯から、当機を取り戻した。こちら、機長のチェルネンコ。我々は乗客の協力で、当機を取り戻した」


 機長から管制塔に、S7812便奪還の連絡が入る。

 管制塔に詰めていた空軍幹部からすぐさま、戦闘機のパイロットに攻撃中止が伝えられた。

 

 戦闘機のパイロットは、空対空ミサイルの発射ボタンから手を放す。そして、機体をS7812便の上部から離し、再び二機の戦闘機はS7812便に並走してモスクワ空港まで護衛する飛行体制をとった。


モスクワ時間、9時9分。

 タイムリミットまで残すところ1分というぎりぎりのタイミングだった。






 9時12分

 東京のカフェ。

 鳴りだした圭吾のスマホには、発信者『イザ』と表示されていた。

 圭吾は急いで、スマホをとり、通話ボタンを押す。ハンズフリーモードにした。


「イザか!?」


 圭吾の問いに。


『……ああ。俺だよ』


 雑音でくぐもってはいるが、聞きなれた声がスマホのスピーカーから流れてくる。


『なんとか、ぎりぎりだったけど。ハイジャック犯たちを取り押さえて、飛行機を取り戻した。今、機長に操縦してもらって、モスクワ空港に向かっている。けが人はいるけど、乗客には死んだ人はいないよ』


 友香が立ち上がって拳を突き上げ叫んだ。


「やったー!!!!」


 一緒にこの事態を見守っていたほかの客たちも、いっせいに歓声をあげる。

 場は、喜びの空気に包まれた。

 隣の客と手をとりあって、ぴょんぴょんはね喜び合う友香。


「良かったですね!」


 圭吾とも喜びを分かち合おうと彼を視線を向けた。

 しかし圭吾は、ただ、目頭を手で押さえてじっとしている。

 その頬に、一筋の涙がつたっていた。






 S7812便は、モスクワ空港に無事着陸する。

 空港には、消防車や救急車が何台も待ち構えており、着陸とともにすぐに走り寄る。

 チェルネンコ機長は、2発のフランジブル弾を受けた身体で機体を無事着陸させたものの、その直後に出血多量で意識を失う。すぐに救急車で緊急病院に運ばれていった。そこで十数時間に及ぶ手術を受け懸命な治療のおかげで一命をとりとめたという。


 乗客たちはいったん滑走路の横におろされた後、けが人は救急車ですぐさま運ばれ、けがのなかったものはバスでターミナルまで送られることになった。


「あ、あれ? イザは?」


 乗客が滑走路におり、救急車や消防車、それに救助に来た人々で混雑する滑走路の上で。バートは辺りをきょろきょろと探した。

 飛行機を降りるときまでは、確かに隣にいたイザが、見当たらない。


「あれ? 本当だ。どこいったんだろうな、あいつ」


 フョードルも首を傾げる。このあと、モスクワ市内のバーにでも行って、共に祝宴をあげようと思っていたのに。


 その頃。イザはどさくさに紛れて、こっそり人と救急車両で混雑するS7812便の傍を抜け出していた。


 きっと、あのままあそこにいると、ターミナルについた時点でマスコミとかに取材攻勢を受けるだろう。そのままロシア当局の事情聴取に連れていかれるかもしれない。どちらにしろ、極力避けたかった。

 偽装パスポートでロシアに入っている以上、あまり表に出たくない。


 遠目に、S7812便を振り返ってみながら、イザは小さく笑うと。

 ターミナルの方へと人目につかないように走っていった。





 3日後。

 イザは、成田空港に降り立った。

 モスクワ空港のターミナルに誰にも見つからずに入り込んだイザは、空きのあるサンクトペテルブルク行きの便で一番早くに発つものの航空チケットを取り、サンクトペテルブルクからフェリーでヘルシンキに戻った後、そこからさらに国際線で成田まで戻ってきたのだ。

 本当はモスクワから成田への直行便に乗りたかったが、ビザの関係でそういうルートをとらないといけないのだから、仕方がない。


 モスクワを発つとき、娘へのお土産探しと、喫煙ルームで思いっきり煙草を吸っておくことは忘れない。一仕事終えて吸う煙草は、格別に旨かった。






 成田へ着き、空港の到着ロビーを出たところで。


「イザ!!!」


 名前を呼ばれて、振り返る。見ると、駆け寄ってくる人影があった。

 紗夢じゃむだ。

 紗夢じゃむはイザに駆け寄ると、勢いもそのままでイザに抱き着いた。

 後ろに倒れそうになりながらも踏みとどまって。イザは、優しく微笑むと。

 娘を抱きしめた。


「ただいま」


 紗夢じゃむは抱き着いたままイザを見上げ、泣きそうな顔で笑い返す。


「おかえり。イザ」


 紗夢じゃむの後ろからは圭吾と友香の姿も歩み寄ってくる。


 彼らにも、イザは「ただいま」と言い、照れくさそうに微笑わらった。






 テロ事件の数か月後。

 イザのスマホに、エルカシュからの写真付きメールが届いた。

 エルカシュは、ウマルの手引きもあり、今は無事ドイツに逃げて難民として生活しているのだという。

 写真では、にこやかにほほ笑むウマルの横で、どこか神妙そうに、でもソチで会ったときよりも幾分角が取れた印象のあるエルカシュが小さく微笑んでいた。。


 メールには、しばらく自分はシステムエンジニアとしてドイツで働いて、シリアの騒乱が収まったらウマルと一緒にシリアに戻るつもりだと書かれていた。


 そして、アレッポの。とくに、大好きだったスーク(市場)の再建に力を尽くしたい、と。


 夢を語ったあとに。

 でも、ISアイエスの構成員として多くの人を殺した自分が、こんな風に生きていていいのだろうかと綴られていた。


 きっと、エルカシュはこれからの人生ずっと、そのことを抱え、苦しみ生きていくのだろう。


 でも、それでも。

 彼らに。

 痛みを知っている彼らだからこそ。

 あの騒乱では誰もが痛みを抱えてしまったからこそ。

 よりよい未来を。

 ナディムが望んだような、平和で愛にあふれた未来を。

 作っていってほしいと、イザは心から願うのだった。




 おわり


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