第26話 相談
イザのいるエコノミーの席でも、騒動の音は聞こえてきた。
前方で、パンパンという乾いた音が響く。
一瞬遅れて、きゃあっ!!!という甲高い女性の声も聞こえた。
音は、エコノミーとビジネスの境目にある壁の向こうから聞こえてくる。
イザは座席の腰を浮かせて、前方の様子を伺った。
多くの乗客たちが異変に気付いたのは、その少しあと。
ビジネスクラスに座っていたであろう乗客たちが、狭い通路を押し合うようにしながらエコノミーの席の方へと流れ込んできてからだった。
CAの姿も見える。
一番前にいた小太りの男が叫ぶ。
「銃だ!!! 銃を持ってるやつがいる!!! 誰か撃たれたんだ!!!」
しかし、ここも安全な場所ではなかった。
エコノミーの客席の前方に座っていた若いアラブ系の男が、おもむろに座席の上に立ち上がる。
掲げた手には、拳銃が握られていた。
そして、威嚇のために壁に拳銃を向けて1発撃つ。新たな銃声が、エコノミー席に響いた。
「うわっ、なんだ!?」
「こっちにも銃を持ったやつがいるぞ!!」
悲鳴が上がって、そのアラブ系の男の周りにいた乗客が必死な様子で逃げ出す。
ビジネスクラスから逃げてきた乗客たちの流れとぶつかって、客席内は完全なパニック状態だ。
イザは後方の座席で、その様子を見ていた。
(飛行機内だってのに、気軽に撃つのな。機体に穴があくってことは気にしてないのか? それとも……フランジブル弾使ってんのか? だとしたら、随分、用意周到だな……)
フランジブル弾は、別名『安全弾頭』ともいう弾丸の一種で、硬いものに当たると砕け散る性質を持っている。鉛などの粉末を固めてつくった弾頭をもつ弾丸の総称だ。
もともとこういう飛行機内などで、流れ弾が壁に当たっても飛行機に穴をあけたりしないようにという目的で作られた弾丸なので、適切といえば適切なのだが。
その一方、『安全弾頭』なんていう名前とは裏腹に、人体に当たって貫通せず体内で破裂すると、固められた金属粉が飛び散って体内をズタズタに切り裂くため殺傷能力は通常の弾頭よりも高い。
乗客たちは銃を持ったアラブ系の男を避けて、エコノミー席後方に固まった。
「座れ! おとなしくしてろ!」
というアラブ系の男の指示に従って、席のあるものは着席し、席がないものは座席と座席の間の空間に座り込む。
アラブ系のテロリストの男は銃をあげたまま、一つの座席に近寄る。イザがドラッグで昏倒させたビジネスマン風の男の席だ。
アラブ系の男は、その男の体をつかんで強く揺さぶった。
しかし、男が目覚める気配はない。
アラブ系の男は、舌打ちをする。ビジネスマン風の男が持っていたはずの銃を探すものの見当たらない。
それはそうだ。その銃はいま、イザの手元にある。
(残念だったな……)
アラブ系の男がいまいましげに、その席を離れるのをイザは苦笑を浮かべて眺める。
それから少し経って。
ビジネスクラスの方からもう一人銃を持ったテロリストが出てきて、アラブ系の男と何やら叫ぶようにして話し合っている。
そして、アラブ系の男は、手近なところにいる人間の腕をつかんで無理やり立たせると前方の席へ連れて行って座らせた……そしてこれを、何人か繰り返す。
どうやら、想定外に乗客が後方に偏ってしまったため、飛行機の操縦にも支障が出てきたのだろう。操縦席で警告音でも鳴っていたのかもしれない。
前方に連れていかれたのは、抵抗せず素直に従いそうな女性や老人が多かった。しかし、そのうち若い女性の一人が、テロリストに腕を捕まれたことで気が動転して暴れだした。
テロリストの男は、その女性の足元に向けて容赦なく銃弾を浴びせる。
銃声と、女性が崩れ落ちて床に伏せたのを見て、あちこちから悲鳴があがる。それを最後に、抵抗しようという者はいなくなった。
女性や老人が前に連れていかれたことで、飛行機後方に比較的若い男性が多く残ることになった。イザも、後方に残ったままだ。イザの背中には、シャツに隠した銃が挿してある。
いま現在、イザが見たテロリストは二人。
アラブ系の方は、エコノミー席側とビジネス席側の境目にある壁付近に立って、乗客たちを銃でけん制している。
もう一人は、さらに前方の方に歩いて行ってしまったので、イザのいる位置からはどこにいるのか見えない。
後方に集まることになってしまった乗客たちは、隣の席の者同士こそこそと話し出す。テロリストに気づかれないように。刺激しないように。細心の注意を払いながら。
「ハイジャックか?」
「誰か、撃たれたのか……?」
「金だよ。あいつらの目的は金に決まってる。身代金さえ払えば……」
家族や友人にあてて電話をしているらしき声も聞こえてくる。そこかしこから、嗚咽のようなものも聞こえてきた。
「ジュディ、愛しているよ。本当に」
「あいつらは銃を持っているんだ。誰か撃たれた。もう、ダメかもしれん……」
「暗証番号は6990だ。それで金庫があく。そこに私の遺言が入っているから……」
(どうしたものかな……このまま、何もしなくても状況は悪くなる一方だし。かといって、一人じゃできることは限られるし)
何気なく窓から外に目をやると、雲の合間に小さな機影が見えた。
目を凝らしてみると、それは民間航空機の類ではなく、もっと小さいもののように見えた。
(あれ……もしかして、ロシア空軍の戦闘機なのか)
戦闘機は、このハイジャックされた飛行機を守るために飛んでいるのではない。
モスクワの市民やクレムリンを守るために、この飛行機を撃ち落とす攻撃命令を待っているのだ。
それを見て、ようやくイザにもこの飛行機があと少しで撃ち落とされるんだという実感が湧いてくる。腕時計を見ると、時間は8時近く。あと、どれくらい猶予があるのだろうか。
(飛行機が撃ち落とされたら、やっぱ即死だろうなぁ)
唐突に、恐怖が湧いてくる。
飛行機が撃墜されて死ぬって、どんな感じなのだろう。
痛みなんて、感じる暇すらないのかもしれない。
何より、もうここで人生のすべてが終わってしまうかもしれないということに底知れぬ不安と怖さを感じた。
自分の人生の時間は、あと少ししか残されていないのかもしれない。
そうだとしたら。生きているうちにこの飛行機内から出ることもできず、誰とも会えない。どこにも行けない。何もできない。
娘と会うことも。
(帰る、って約束したんだけどな)
自分が死んだら、娘はどう思うんだろう。
悲しんでくれるんだろうか?
大学生になって、ずいぶん大人びてきた
今までずいぶん迷惑も心配もかけてきたから。もう、これ以上迷惑かけたくない。
いや、そうじゃなくて。
(帰りたい……)
日本に。いつもの生活に。娘やみんなのところに。
帰りたいという思いが、心の奥から強く込み上げてくる。
今までなんでもなかった日常が。
今はとてつもなく恋しい。愛おしい。
窓から見える戦闘機は、一定の距離をおいてずっとこの飛行機にくっついて飛んでいる。
その時、イザがズボンのポケットに入れていたスマホがバイブする。表示を見ると、相手は圭吾だった。
「はい……」
テロリストに聞こえないよう、イザは身をかがめて小声で応えた。
『イザ。こっちにもハイジャックがあったって連絡が入った。そっちはどうや?』
「銃を持った男が、女性を撃った。他にも撃たれた奴がいるみたいだ。いよいよハイジャックが始まったって感じなんだけど」
『よく聞けや、イザ。ロシア空軍による撃墜のタイムリミットは、モスクワ手前100キロ地点に達した時や。今のままの速度と進度で進めば、おそらくモスクワ時間9時半あたりでそのラインを超える。それまでに飛行機をハイジャック犯たちから取り戻せなかったら……アウトや』
「……わかった。何とか、頑張ってみる」
『幸運を祈る』
「さんきゅ」
圭吾との通話を切ったあと、手にあるスマホを眺めてイザはふと気づく。
そういえば、機内でも普通にスマホが使えている。通話はもちろん、ネットも。
スマホの画面左上の電波表示はWi-Fiになっていた。ということは、この機内のどこかにWi-Fiのルーターがあるということなのだろう。だとすると、ほかの乗客もネットを使えているはずだ。
イザは、ツイッターを開いて、#S7812と撃ち込んでみた。S7812はこの飛行機の便名だ。このハッシュタグで検索しても、イザが今打ち込んだツイートしか出てこない。これは使えそうだ。
イザは、『#S7812 I'm Iza. I want to gather information. And,I want to talk about this hijack. Please,spread this tweet.』(#S7812 俺はイザ。情報を集めて、このハイジャックについて話したい。どうか、このツイートを広めて)と打ち込む。
イザは仕事で英語を使うことも多いので話すほうは何とかなるのだが、書くほうはあまり得意ではない。あまり単語のつづりを知らない。そのため、単語などネットで調べながら打ち込んだ。
そして、隣の席に座ってる男性の脇をつついて、
「なあ。情報収集がしたいんだけど。ツイッター使ってる奴がいたら、#S7812のハッシュタグで話ししようぜ。って、隣の奴に伝えて広めてってくれないか?」
とスマホの画面を見せながら言ってみた。
隣の男性は、イザのスマホをしばらく瞬きしながら見ていたが。イザがやろうとしていることの意図を理解して、自分もツイッターで#S7812をうち、イザのツイートを自分のスマホに表示させる。
イザの隣の男は小さく口笛を吹いて、通りの反対側の席に座る女性の意識をこちらに向けると、ツイッターの画面を見せた。女性はそれをじっと見た後、大きくうなずいてさらに隣に知らせる。
イザは前の座席と座席の間にもスマホを差し込んで、前に座る人間にも見せ小声で伝える。後ろの席にも同様に。
そうして、イザの意図していることは乗客の間に広まっていった。
イザのスマホの画面に、同じ#S7812というハッシュタグをつけたツイートが次々に集まってくる。
イザ『現状を確認したい。ビジネスクラスの方にいた人、教えてくれ。前方で、何があった?』
バート『俺はアメリカ人のバートだ。客室乗務員の女性が、コックピットのとこのカーテンを引いたんだよ。そしたら、ビジネスに座ってた奴の一人が立ち上がって、そのカーテンに銃で撃った。そいつがカーテンを開けたら、誰かがコックピットの前に倒れてたんだ』
フョードル『僕もみた、それ。あれ、機長か副機長だよ。パイロットの服着てた。あ、僕はフョードル。ロシア人だよ。』
リンダ(CA)『私はビジネスを担当している客室乗務員のリンダです。倒れていたのは、おそらくチェルネンコ機長です』
キャロル『私はキャロル。そのあと、何人かがコックピットの中に入っていったのを見たわ』
イザ『ちょっと待って。テロリストは全部で何人いるんだ?』
フョードル『二人? いや、三人か?』
劉『いや、テロリストは4人だよ。あ、私のことリュウって呼んでほしい。コックピットに入ってった人が二人と。ビジネスにいまいる人が一人。そこに物騒なもの持って私たちを睨みつけてるのが一人。計4人だ』
(4人か……大体状況が分かってきたな)
会話に参加していない乗客でも、このツイッターを見ているものは多いのだろう。客席のざわめきがめっきり静かになった。
キャロル『これはハイジャックなの? あいつらの目的は何なのかしら』
バート『身代金目当てじゃないのか?』
フョードル『違うって。みんな、アメリカの9.11を忘れたのか?』
劉『じゃあ、あいつらはこの飛行機ごと、どこかにぶつかるつもりだっていうのかい?』
バート『そんな!!! 俺たち、確実に死んじまうじゃねぇかよ!!!!』
その会話を皮切りに、再びパニックの気配が乗客を襲う。
イザは、自分が知っていることをどこまでほかの乗客たちに話すべきか、迷っていた。
撃墜のことを言えば、さらなるパニックを呼んで収拾がつかなくなる可能性もある。そうなったら、状況は悪くなるだけだ。
イザは、一つ大きく深呼吸すると。注意深く、文字を打ち込む。
イザ『その可能性があるから。みんなに協力してほしいんだ。俺は、この飛行機をハイジャック犯たちから取り返したい』
盛んに飛び交っていたツイッターの会話が、途切れる。
しばしの沈黙の後、再び会話が動いた。
バート『え……反撃する手段なんてあるのか?』
キャロル『それは、あまりに性急すぎない? あいつらは、単にどこかに逃亡したいとか、身代金とかそういう理由でハイジャックしているのかもしれないし。大人しくしていた方がいいんじゃないかしら』
劉『そうだな。私も、下手に動かない方がいいと思う』
イザは歯噛みした。このまま、従順にする方向で話がついてしまうと、厄介だ。
時間がない。
窓の外の戦闘機をちらりと横目で見ながら、文字を打つ手を動かす。
イザ『いや、そうはならない。あいつらの目的は、この飛行機をクレムリンに落とすためだ。そうなったら全員助からない』
バート『あんた、なんでそんなこと知ってんだよ? あんたも、テロリストの一員で、俺たちを大人しくさせるために、そんなこと言ってんじゃねぇのか?』
イザ『そうじゃない。俺の友人の知り合いにロシアのお偉いさんがいて。さっき電話で教えてくれたんだ。窓の外、見てみ? 左の窓』
窓際に座っていた乗客たちの視線が一斉に、窓の外に向けられる。
イザ『見えるだろ? 小さな飛行機。あれ、ロシア空軍の戦闘機だよ』
フョードル『じゃあ、僕たちを助けに来たのか!? やっほー!!!』
キャロル『私たちを助けに来てくれたのね!?』
イザ『残念ながら、そうじゃない。あの戦闘機は、この俺たちが乗ってる飛行機を撃墜しにきたんだ。ロシア政府は、モスクワにこれが落ちる前に、この飛行機をひと気のないところで撃ち落としたいと思ってる』
ツイッターの会話が止まる。
イザは、どこまで書くか迷っていたが。この期に及んで情報を隠していても仕方がない。パニックを煽る危険もあったが。乗客たちには、時間があまり無いことを知ってほしかった。
イザ『俺たちには、もうあまり時間がないんだ。あの戦闘機がこの飛行機を撃墜するのは、この飛行機がモスクワに100キロの地点まで近づいたとき』
バート『あと、どれくらいでその100キロ地点に到達するんだ?』
イザ『このままの速度と進路で進めば、モスクワ時間の9時半ごろだそうだ』
フョードル『9時半!? 今、8時7分だぞ!? あと、1時間半もねぇじゃねぇかよ!』
イザ『そうだ。このまま何もしないでいると、あと1時間半も経たず俺たちは全員死ぬことになる』
バート『Oh,my GOD!!! なんてこった……』
イザ『だから。死にたくなかったら、それまでにテロリストからこの飛行機を奪い返す必要がある。俺たちが生き延びれる道は、それしかないんだ』
少し間を置いてから、イザは言葉を続ける。
イザ『やるよな?』
再び沈黙。みんな、考えているのだろう。
ここで危険を冒すべきなのかどうか。
しかし、危険を冒さなければ、待っているのは墜落死のみだ。
劉『その情報、確かなのか?』
イザ『ああ。俺の友人が、ロシアの高官に直接確認した情報だ』
キャロル『でも、どうやってあの銃を持ったテロリストに立ち向かうっていうの? 私たちは誰も武器なんかもってないのに』
イザ『俺が一丁、拳銃を持ってる』
フョードル『なんで!?』
イザ『さっき、テロリストの一人から奪った。そいつは、前のほうで昏倒してるよ』
バート『あんた、何者だよ。警察関係者か?』
何者かと聞かれて、イザは返答に困る。
正直に、通りすがりの闇ブローカー……なんて答えられるはずがない。
イザ『自営業者だよ。個人輸入業やってる。話すのに面倒だから、適当にあそこにいるテロリストを、テロリストAってことにしとくな。ビジネスにいるのがテロリストB。コックピットにいるやつらがテロリストCとD。OK?』
フョードル『ああ、かまわないよ。その方がわかりやすい』
イザ『じゃあ。まずテロリストAは、俺が撃って仕留める。でも、俺、今『56のA』の座席に座ってるんだけど、こっからじゃ少し離れてるから一発で仕留める自信がない。なんか、あいつの気を反らせて、その間にちょっとでもあいつに近づきたいんだけど』
しんと、再びツイッターの会話が止まる。
どうすっかなぁ……と、イザが考えていると。一つのツイッターが上がってきた。
オム『僕はオム。インド人だよ。ちょっといい考えがあるんだけどさ。だれか、未開封の炭酸ジュースのボトルとか持ってたりしない? でかければ、でかいほどいいんだけどさ』
そうやって乗客で考えを出し合い、作戦が決まった。
そして。いよいよ、反撃に打って出る。
この飛行機を、テロリストたちの手から奪い返すために。
腕時計は、モスクワ時間8時30分。
タイムリミットまで、あと1時間だった。
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