第22話 計画の行方

「……なんだ。エルカシュ。なぜ、お前がここにいる」


 男はアラビア語で、部屋に一人でいたエルカシュに不審げな声をかける。この部屋の主、司令官だった。ひげ面に堀の深い瞳の奥が、警戒の色を浮かべてエルカシュを見る。


「し、司令。申し訳ありません。えっと……司令にご相談したいことがあって、お帰りになるのを待って、ました……」


 なんとか言い訳をひねり出そうとしながら、しどろもどろに答えるエルカシュ。

 イザは、デスクの下に隠れていた。三方を引き出しと木板で覆われているデスクなので、司令官の方からはイザは見えない。そこに身をかがめて入り込んでいる。ちょっと窮屈。


「ほぉ。何の話だ?」


 司令官は、室内へと靴音を鳴らして入ってくる。そして、そのままデスクの前まで歩いていった。イザにも足音と声が近づいてくるのが、見えなくても分かる。

 イザの頭の上で、ごとりという音がした。司令官が手に持っていたカバンをデスクの上に置いたのだ。


 司令官にデスクの椅子側に回り込まれたら一巻の終わりなのだが。幸い、司令官はデスクから離れ、エルカシュの横を通って戸棚の方まで歩いて行く。

 そこで、ふとエルカシュは気づく。戸棚の鍵を、まだ閉めていなかった。そんな時間的余裕などなかったのだから。


(まずい……扉は、開けないでくれ!)


 エルカシュは、ごくりと唾を飲み込む。心の中で祈りながら、エルカシュは極力平然を装って司令官との会話をつないだ。どうにか、イザが逃げるチャンスを作らなければ。


「食料を買うために預かっていた予算の事でご相談したくて。その……思ったより、このあたりの物価は高くて、そろそろ足りなくなりそうで……」


 疑われないように嘘にならない範囲で適当なことを言う。

 窓の外からは昼下がりの柔らかい日差しが入り込み、外からは楽しげな鳥の鳴き声が聞こえていた。


(そうだ。もうすぐだ。あと少し……時間が稼げれば)


「そうか……それはガハールに言っておこう」


 司令官は戸棚の一番上の引き出しを開けると、クルアーン(コーラン)を取り出す。黒の皮表紙に金で細かな唐草模様が描かれた、とても美しいクルアーンだ。それを丁重に両手で持ち、再びデスクの方へと歩みを進める。デスクに座ってクルアーンを読もうというのだろう。

 あと数歩進めば、隠れているイザの姿が視界に入ってしまう。


 というところで、廊下の方から独特の抑揚で低く張り上げる男性の声が聞こえてきた。


 الله أكبر  (アッラーは偉大なり)アッラーフ・アクバル

 الله أكبر  (アッラーは偉大なり)アッラーフ・アクバル

 الله أكبر  (アッラーは偉大なり)アッラーフ・アクバル

 الله أكبر  (アッラーは偉大なり)アッラーフ・アクバル

 أشهد أن لا اله إلا الله  (アッラーの他に神は無しと私は証言する)アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー

 أشهد أن لا اله إلا الله  (アッラーの他に神は無しと私は証言する)アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラッラー

 أشهد أن محمدا رسول الله   (ムハンマドは神の使徒なりと私は証言する)アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー

 أشهد أن محمدا رسول الله  (ムハンマドは神の使徒なりと私は証言する)アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー

 حي على الصلاة  (いざや礼拝へきたれ)ハイヤー・アラッサラー

 حي على الصلاة  (いざや礼拝へきたれ)ハイヤー・アラッサラー

 حي على الفلاح  (いざや救済のためにきたれ)ハイヤー・アラルファラー

 حي على الفلاح  (いざや救済のためにきたれ)ハイヤー・アラルファラー

 الله أكبر  (アッラーは偉大なり)アッラーフ・アクバル

 الله أكبر  (アッラーは偉大なり)アッラーフ・アクバル

 لا إله إلا الله  (アッラーの他に神は無し)ラー・イラーハ・イッラッラー


 アザーンと呼ばれる、礼拝の時刻になったことを知らせる声だ。


「礼拝の時間だな」


 司令官の男はデスクのソバから離れると、入ってきたときと同じように靴音を鳴らして室内から出ていった。

 エルカシュは、ほっと息をつく。

 そして、デスクに近づくと腰をかがめて、イザを覗き込んだ。


「去ったよ。礼拝の時間だ。俺も行かなきゃ。今なら全員がリビングに行ってるから、逃げるには絶好のチャンスだ」


「ああ。……見つかるかと思った。と、逃げる前に」


 イザはデスクから這い出ると戸棚の方へ向う。そして、再びポケットから開錠道具を取り出すと、ほんの30秒ほどで戸棚に鍵をかけてしまった。

 これで元通り。

 窓からそっと下をのぞくが、先ほどまで見えていた人影が今はどこにもいない。


「こっから下に降りて大丈夫?」


「ああ。みんなが居るリビングは家の反対側だから」


「わかった」


 イザは窓を開けると、窓枠に片足をかけてエルカシュを振り返る。


「……色々、ありがとうな。俺たち明日の午前中までホテルにいるから」


 イザの言葉にエルカシュはコクリとうなずく。

 エルカシュは、イザが庭に飛び降りて敷地の外に出るまで見送ったあと、窓の鍵を閉めると何事もなかったように礼拝に向かった。





 イザが入手した指令書の画像は、ホテルに帰るとすぐに全てを圭吾にメールで送った。

 圭吾の会社は一年前から、シベリアのバイカル湖周辺でメタンハイドレート掘削事業を行っている。その事業をめぐってロシア当局とやり取りをしている関係で、圭吾にはロシア高官にも知り合いが多くいた。

 イザから資料を受け取った圭吾は、すぐにクレムリンにいる知り合いの高官数人と連絡をとって、その資料をメールで送る。


 圭吾から送られた情報はすぐにロシア語に翻訳され、関係省庁やテロの計画があった全ての都市の役所・警察に伝えられることになる。






 イザがアジトに潜入した翌日。

 あの後、司令官たちは特に異変に気付いた様子もなかったことを、エルカシュはホテルまで報告しに来てくれた。

 そのあとエルカシュとウマルが親しげに彼らの地元の言葉で話すのを、邪魔したくなくてイザは一人でふらっと散歩にでかける。

 しばらく街を歩いて戻ってくると、そろそろホテルを引き払い空港へと向かわなければいけない時間になっていた。


「エルカシュ。君は……これから、どうするの?」


 ウマルの問いにエルカシュは、しばらく床に視線を落として沈黙したあと、顔を上げてイザを見据える。


「あの画像データ、ロシア当局に渡したんだろ?」


「ああ。俺の知り合いの御堂圭吾みどうけいごってやつが、あちこち手をまわして情報を流しているはずだ。たぶん、そのうちソチでも警察とかの動きがあると思う」


「そっか……」


 エルカシュはズボンのポケットから取り出したアレッポの瓦礫を掌で転がす。そして、そこに描かれた黄色い花を見つめていたが。俺さ……と、ぽつりぽつりと話し出す。それは、自分の中にある言葉を、必死に掬い取ろうとしているようでもあった。


「俺……もし、チャンスがあるなら。……できるのかわからないけど、もしできるのなら。……ISアイエスから逃げ出したい、って今は思うんだ。……仲間売っておいて、自分だけ逃げるってのも。……卑怯な気もするけどさ」


 だからといって、もう他のISアイエスメンバーたちと共にテロに参加する気持ちは無くなっていた。というか、もうISアイエスの支配地域に戻って以前みたいに戦闘参加する気持ちすらもなくなっていた。

 今は、もっと……。


 瓦礫を見つめるエルカシュに、イザは自分のデイバッグから取り出したものをエルカシュに投げて渡した。

 イザに放られた平べったいものを、エルカシュは落とさずキャッチして。手にしたものを眺める。

 それは、一本の携帯電話だった。


「それ。お前にやるよ。たぶん、お前がロシアから出ちゃえば使えなくなるとは思うけど。俺とかウマルの連絡先も入ってるからさ。俺、ここを出てもヘルシンキにしばらくいるから、なんかあったら電話しろよ。連絡手段がないと不便だろ?」


 先ほど、散歩に出かけたときに街の携帯電話屋で購入してきたものだった。

 本体価格もさほど高価なものではなかったし、ロシアの携帯料金はいちいち店舗などでチャージする形式のものが多いようで、この携帯も多少の通話料をチャージしただけのものだ。

 だから、エルカシュがロシアを去る時には、捨ててもらって全然かまわない。


「……ああ。ありがとう」


 エルカシュは携帯電話をズボンの横ポケットに、瓦礫のオブジェを胸元のポケットに入れて、礼を言う。


「エルカシュ! もしシリアの国外に逃げるんだったら、僕んとこにおいでよ! 僕、エルカシュが来るの待ってるからさ!」


 ウマルがエルカシュの両手を握って、ぶんぶん上下に振りながら言う。

 エルカシュは困ったように、でも嫌そうでもなく笑って。


「……ああ。行けたら……そうするよ」


 そう、ウマルに約束した。






 空港まで三人で向かい、その入り口でエルカシュは見送りに来れるのはここまでだと言って二人に別れの言葉を告げた。


「気をつけて、ドイツまで戻れよ」


「エルカシュ! エルカシュ! ……どうか、生きてて。また、会えるよね?」


「ああ」


 ウマルがロシアで最後にみたエルカシュは、穏やかに笑っていた。






 フェリーでヘルシンキまで戻ったイザとウマル。

 ウマルは、ビザの関係もあるので、そのままドイツまで戻らなければならないのだという。

 イザはロシアの戦勝記念日が無事に終わるまでは、なんとなく日本に戻る気にもなれなくて。エルカシュにもしばらくヘルシンキにいると伝えてあったこともあり、数日はここに滞在するつもりでいた。


 ウマルをヘルシンキ空港まで見送ったあと、市内のホテルに向かっている最中。イザのスマホに一通のメールが届く。そのメールを読んで、イザはしばし考え込んだ。


「間に合うかな……」


 一人、そんなことを呟いていた。






 5月8日。ロシア戦勝記念日の前日。

 エルカシュたちが潜んでいたアジトを、武装した兵士たちが襲撃した。同時に、ソチにあった他のアジトも攻撃を受ける。

 エルカシュと数人のISアイエスメンバーは、外出中のため襲撃に遭遇しなかったが、アジトに残っていたメンバーは全員が捕らえられるか、反撃した者はその場で射殺されていた。


 この作戦を主導したのはロシア対国家テロ委員会で、作戦行動には多数の兵士たちが投入された。


 同日。

 全ロシアの6つの都市で同様の作戦が実行され、30人以上のISアイエスメンバーや支援者が捕縛された。

 一部で小さな銃撃戦などもあったが、正確な情報を元にして周到な作戦がたてられたこともあり、被害はごく小さなものに留まった。

 同時に、数十丁の銃火器類、プラスチック爆弾なども押収される。

 この前代未聞の大規模テロ計画は、マスコミも大々的に報道を行った。

 公にはされなかったが、この作戦行動の裏に、イザたちがISアイエスのアジトから盗んだ指令書の画像データが大いに役立ったのは言うまでもない。





 5月9日、朝10時。

 前日に実行されたロシア対国家テロ委員会の作戦行動で、捕縛されなかったエルカシュと数人のISアイエスメンバーたちは、ソチから数キロ離れた隣町の安ホテルに潜んでいた。その中には、あの司令官も含まれている。


 エルカシュは何度も逃げようと機会を伺っていたが、少人数で周りを警戒しながら行動していることもあってなかなか良い機会が訪れない。

 シリアに戻る前に、なんとしても逃げ出したかった。

 いつまでも彼らと一緒に行動していたら、ロシア当局に見つかる可能性も大きくなる。


「……俺、ちょっと外、見回ってきます」


 そう言ってエルカシュは立ち上がると、ホテルの部屋の外に出る。エルカシュは内心、緊張はしていたが、彼の行動を不信がってとがめるものは特にいなかった。

 エルカシュは足早にホテルの受付横を通り抜け、ホテルの外に出る。

 緊張を吐き出すようにほっと息をつき、このままできるだけ早くここから立ち去ろうと、庭を横切って走りだそうとした。

 そのとき。背後から、野太い声でエルカシュの名を呼ぶ声がある。


「おい。どこへ行くつもりだ?」


 声で分かった。エルカシュは、ゆっくりと振り返る。呼び止めた声は、司令官のものだ。


「司令……だから、俺。ちょっと見回ってこようと……」


 司令官の男は、エルカシュを睨みつけたまま大股でこちらに歩み寄ってくる。エルカシュは思わず、後ろ向きに数歩後ずさった。


「どこへ行く。まさか、逃げ出そうっていうんじゃないだろうな!?」


「……そ、そんなこと、あるわけないじゃないですか!」


 思わずエルカシュの声が裏返った。

 男は獲物を追い詰める肉食獣のような目で、睨みつけてくる。


「近頃、怪しいと思っていたんだ。俺が知らないとでも思ったのか? お前、チェチェン人の奴らに逃げようと誘ってたらしいな」


 エルカシュは、一瞬心臓が止まる心地がした。

 イザの手助けをした後。エルカシュは一人で逃げることも考えていたが、他のISアイエスのメンバーたち、とくに仲の良かったチェチェン人の友人たちを放ってはおけなかったのだ。

 だから、こっそり、一緒に逃げないかと持ち掛けたことがあった。


 司令官の男は、腰の後ろに挿していた拳銃を抜くと、エルカシュに銃口を向けた。


「俺たちの計画が頓挫したのは、裏切り者の密告者がいたせいだってのは間違いない。裏切者はお前か? エルカシュよ」


 男の指が引き金トリガーにかけられる。エルカシュは向けられた銃口から目が離せないまま、首を小さく横に振った。それが精いっぱいだった。冷汗が背筋を流れる。


 男は、口端をにやりと嫌らしく上げた。


「まぁ、いい。一番重要な計画は、直前に変更になってる。それが功を奏して、そっちの計画は無事だったようだ。さっきのニュース番組でも、あの街で誰かが捕まったっていう情報はなかったからな。完全なノーマークさ」


「……え?」


「それさえ成功すれば、あとはオマケみたいなもんだ。残念だったな。今頃、もう実行に移っているはずだ」


「実行って……」


 男は空を指さす。


「もう、飛び立ったってことだ。トムスクからモスクワへ向かう飛行機がな」


「……え? じゃあ! そこに……」


 ハイジャック目的でISアイエスのメンバーたちが乗り込んでるのか?

 エルカシュは、そう口に出そうとしたが、できなかった。


 それよりも早く、男の持つ拳銃が火を噴く。衝撃と熱がエルカシュの胸を貫いた。


(……!)


 撃たれたと気づいた瞬間、経験したことのない衝撃とともにエルカシュの意識は遠のいていた。

 そして背中から勢いよく地面に倒れこみ、あとはピクリとも動かなくなる。


 司令官の男はそれを見て取ると、ふん、と鼻を鳴らしてホテルへと戻っていった。

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