第20話 去りし日の記憶
ホテルから飛び出して、エルカシュはただひたすらに走っていた。
どこへどう走ったのかも、覚えていない。
俺は、何のために走っているんだ?
ああ、そうだ。買い出しに出たんだった……と、アジトから出てきた目的を思い出して。
買い出し、行かなきゃ……と足を市場へと向ける。
しかし、胸の中には先ほどのウマルたちとの会話が今もぐるぐると渦巻いていた。
苦しいぐらいによく分からない気持ちが沸き上がってきて、いまにも噴き出してしまいそうになる。
(どうすりゃいいんだよ……どうすりゃいいんだよっ!!!!)
ようやく、これでナディムの仇が討てると思ったんだ。
このテロが成功すれば、ナディムと同じところに行けると思った。
ずっとずっと心から望んできたことだった。それだけが、生きるヨスガだったと言ってもいい。
でも。
あと少しで願いが叶うという今になって。
あいつらが現れた。
いつしかエルカシュの足は、とぼとぼと市場の中を歩いていた。
胸のあたりに何か硬いものがあることに気づいて、胸ポケットを探る。中には拳ほどの大きさの瓦礫が入ってた。
そういえば、さっきイザとかいう名前の男に入れられたんだっけ、と思い出す。
イザは、アレッポの瓦礫だと言っていた。
ナディムが空爆を受けたとき。ナディムの上にのった瓦礫を必死で除けていた頃のことが、ふと脳裏に浮かぶ。その時の瓦礫の記憶と今、手のひらにある瓦礫が重なる。
手の中にある瓦礫を裏返すと、そこには大きな黄色い花が描かれていた。
そういえば。
似たような花が、家の庭にも咲いていたなとぼんやり思い出した。
まだ父も母も生きていたころ、みんなで一緒に住んでいたあの家に。
市場の人込みの中を遅い足取りで行くエルカシュの足に、何かが当たった。
衝撃でよろけそうになるエルカシュの横を、風のように何かが通り過ぎていく。
それはロシア人の小さな子どもだった。5歳くらいだろうか。
その子が通り過ぎていったあとを、もう一つの人影が追いかけていく。少年だった。7、8歳くらいの。
「こら! 走るなって言っただろう! すみません」
その少年はエルカシュに一言謝ると、最初の子の方へと駆け寄っていった。
きっと兄弟なのだろう。弟は、兄に怒られたことも意に返した様子もなく、きゃっきゃっと笑って一人の女性に抱きつく。
買い物の途中らしく店で野菜を選んでいたその女性は、抱きついてきたその子の頭を優しく撫で、追ってきた兄にも穏やかに声をかける。
きっと、母親なのだろう。親子三人でこの市場に買い物に来ていたようだ。
その親子の姿をぼんやりと眺めていたエルカシュの脳裏に、かつての懐かしい情景が思い浮かんだ。
アレッポには、世界最大規模のスークがあった。スークとは、アラブ圏の市場の事だ。
アレッポのスークはドーム状になった長い通路状のもので、そこに様々な店が軒を構え、地元の住民や観光客などたくさんの人で賑わっていた。
エルカシュは子どものころ、母親やナディムと一緒にスークに買い物に行くのが大好きだった。
キラキラ光るアクセサリー屋。様々な種類のナッツを山のように置いたナッツ屋。天井高くまで日用品が積みあがった雑貨屋。サイコロのような石鹸が積みあがる石鹸屋。生きた羊が群れのように何匹もうろうろしている肉屋。
沢山のいろんな店があり、まるで夢の世界のようだった。
ロシアの親子の姿が、自分たちの子どもの頃の姿と重なる。
優しい母と、誰からも頼られる父と。ナディムと。
あの頃は、ずっとそんな幸せな日々が続くのだと思っていた。
エルカシュの頬に涙が一筋流れた。そして、涙は次から次へと湧いて止まらなくなる。
エルカシュは自分の顔を手の平で覆った。指の間から涙がとめどなく落ちて、嗚咽が止まらない。
行きかう人たちが不審げにエルカシュを見て通り過ぎていったが、そんなこと気にしていられなかった。
エルカシュは市場のど真ん中で、一人声をあげて泣いた。
あの大好きだったスークも、今はもうない。空爆で、ほとんどが瓦礫の山になってしまっている。
ナディムもいない。母も、父もいない。
大好きだったものは、全てなくなってしまった。
あたたかいものは、すべて消えてしまった。
残ったものは、黒い想いだけ。そのはずだった。
動画で見せられたナディムの顔が、さっきからずっと脳裏に浮かんで離れない。
『僕の望む未来は……兄さんが幸せに生きていく未来』
振り払えない。
『誰かと結婚して、子ども沢山作って、そしてたくさんの子どもや孫に囲まれて』
ナディムの声が何度も何度も木霊する。
『そうやって……幸せに暮らしていく未来。誰も、理不尽に死ぬことのない。平穏に笑っていられるような』
そういえば。あんなに笑顔を絶やさなかったナディムの笑顔を、ずっと忘れてしまっていた気がする。ナディムが死んでから、ずっと。
俺が。本当に、望むことってなんだ?
(また……)
取り戻したい。
昔みたいな暮らしを。
(街を…。スークを…)
幸せを。
ナディムが言う。
『そんな未来を作ってほしい』
(未来……。作れるんだろうか。こんな俺でも……)
エルカシュは顔を上げた。涙はいつしか止まっていた。
翌日。
ウマルがホテルで早朝の祈りを終わらせて新聞を読んでいると、ドアをノックするものがある。
誰だろう?と思いつつも開けてみると、ドアの前にいたのはエルカシュだった。
エルカシュはどかどかと大股で室内に入ってくると、まだイザが寝ていたベッドを思い切り蹴った。
そして、無理やり起こされて不機嫌極まりない顔をしているイザに、お構いなしに言うのだった。
「来たぜ。協力してほしいんだろ?」
そして、ウマルに向けて。
「……ウマル。来てくれて、ありがとう」
少し照れくさそうに、エルカシュは笑った。
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