第17話 かつて大虐殺があった時代
言葉に詰まった後、ウマルは声を出して笑いだした。少し、声に張りが戻ってきたような気がした。
「そんなわけ、ないじゃないですか。イスラム教徒は世界で10億人以上いるんですよ? そんな教義だったら、世界中とっくに大戦争状態です。……そんな、わけ、ないんです。イスラム教は、元々、他の宗教に寛容なんですよ。防衛以外の侵略も認めていません。自分から戦いを起こしてはいけないんです。それは、クルアーン(コーラン)にもちゃんと載っています」
「クルアーン、って?」
「イスラム教の聖典です。預言者ムハンマドが唯一神アッラーから授けられた言葉が載っているもので、僕たちムスリム(イスラム教徒)にとってはとても大切なものなんですよ。そして、何より……とても……美しいんです」
イザは、きょとんと首を傾げた。
「美しい?」
「ええ……」
ウマルは小さく笑って、でも目はキラキラと輝きはじめる。夜の帳が落ちはじめたばかりの星空のように。
「僕には、文学的な良し悪しなんてわかりません。でも、クルアーンを詠んでいると、その言葉の美しさは身に染みて分かります。まるで、詩のようで。詠んでると美しい歌を歌っているようで。僕は、クルアーン以上に美しい言葉を、ほかに知らない。それは、まさに奇跡としか言いようのない。神にしか作り出すことのできない美しさなんです。イザさんも、詠んでみるといいですよ。いっきに詠むと、50時間以上かかりますけどね」
そう言ってウマルは笑った。少し気分が持ち直したようで、イザは内心ほっとする。
「……50時間か……そんなに長時間詠み続けたら、声が枯れるんじゃねぇの?」
「そうですね。だから、一日に一巻ずつ詠むんです。そうすると30日で一通り読み終わるようにできています」
「へぇ……便利にできてんだな」
「……ジハードだって。たしかに、外から攻めてきたら自分たちを守るために戦えってクルアーンにも書かれています。……過激派の人たちは、それを強調してジハード(聖戦)って言葉を使っているけれど……本当は、もっと広い意味の言葉なんです」
過激派、という言葉を口にしたとき、再びウマルの瞳に影が差したような気がした。エルカシュのことを思い出していたのかもしれない。
「僕たちの間でジハードっていう言葉を使うのは、自分を律したいときなんです。神の教えに従って、自分の心の中にある怠惰や堕落と戦う強い心をもつこと。その強い心で自分をより良くしていくこと。それも、ジハードです。そうやって努力する者を神は報いてくださる。僕は、そういうジハードを実践したい」
そう夜空に向かって言うウマルの声は、大きな声ではなかったが凛とした強い意志が感じられた。
そうやって心から信じるモノがあるっていうのは、なんとなく羨ましくもあるなとイザは思う。
「……でも。僕だってやっぱり……あれだけ破壊されたアレッポやシリアの街や、沢山の殺された人たちを見ていると……エルカシュの気持ちも分かるんです。……他の関係ない人たちをテロで殺すのは絶対に良くないと思うけど……じゃあ、殺された僕たちの仲間や同胞や、壊された街は。なんで、あんな風にされなきゃいけなかったんでしょう……」
「…………」
イザには、何も答えられなかった。
「……そういえば。歴史の授業で習いました。イザさんは日本人ですよね。日本も、アメリカや世界中の国々から攻撃を受けて、沢山の人が死んで街は瓦礫の山になった、って。でも、それでも立ち上がって復興して、今みたいな豊かな国を作ったんだ、って。敵だったアメリカとも、上手くやっているんだ、って」
(……え? そうなんだ?)
学校といえば、少年刑務所時代に中学校の分校に通ったのと、通信制の高校に短期間籍を置いた経験しかないイザには、日本の近代史なんてさっぱり分からない事柄だった。
でも、異国のウマルが日本のことを知っているのに、自分が知らないなんて……恥ずかしくて、知らないとはちょっと言えなかった。
「……シリアも。日本みたいに、復興できるんでしょうか……」
「……できるよ。お前とか、エルカシュとか。お前ら若い世代が作っていくしかないじゃん」
「……そうですね」
そう言って笑ったウマルの表情は、どこか。少しだけ晴れやかだった。
そして、甲板で話すのも寒いので、そろそろ船室に戻ろうという話になる。船室に帰って。ポットの湯で紅茶を飲んで二人とも寝ることにした。
翌朝6時頃。
イザはウマルが礼拝している声で目が覚めた。
見ると、ベッドとベッドの間に布を敷いて、そこで器用に礼拝している。
ムスリムが、1日5回。メッカに向かって行う礼拝。
あとで聞いた話によると、何時にどこを向いて礼拝すればいいかは、いまはGPSと連携したスマホアプリで分かるのだそうだ。
なんとなく。礼拝している横で寝続けるのもなんか居心地悪いなと思って、イザは起きだして船内のラウンジへと行く。
船内には、既にかなりの人の行き来が見受けられた。イザはラウンジのソファに座ると、しばらくスマホを弄っていたが。アドレス帳から電話を掛ける。
『どうしたん?』
すぐに出たのは、圭吾だ。
おそらく、今、日本はお昼休みぐらいだろう。
「よぉ。圭吾。俺たちは今、ヘルシンキからサンクトペテルブルクに向かうフェリーに乗ってて、もうすぐ着くところなんだけどさ」
特に用事があったわけでもなかったが。なんとなく、暇だったから架けてみた……というか、些細なことだけど聞いてみたいことがあった。
「なぁ。圭吾。お前、日本の歴史には詳しいよな?」
『まぁ。そうやな』
圭吾の口調には、そんなことお前が言い出すなんて珍しいな、という語気が感じられる。
イザは、昨晩のウマルとの会話を思い出していた。
「日本って、昔、アメリカとかと戦争したんだよな?」
『ああ。今から70年以上前の話やけどな』
「そんで、日本じゃ沢山人が死んだんだっけ? 東京とか、広島とか」
『……そうや。第二次世界大戦だけでも、戦没者は200万人とも300万人とも言われとる。東京だけでも100回以上空襲を受けて。その中でも東京大空襲って言われてるものでは1日で10万人以上が死んだんや。広島、長崎ではそれぞれの都市人口の三分の一にあたる、14万人と7万人が死んだ。ほとんどが民間人や。東京も、広島も長崎も。文字通り焦土と化した』
数字だけで言われるとあまり実感としてつかめないが……でも、すさまじい被害だったのは分かる。
「……それってさ。大虐殺なんじゃねぇの?」
『……そうやな。れっきとした大虐殺や』
そんな時代が、日本にも確かにあった。
「なぁ。でもさ。なんで日本人は、そっから復興できたんだ? なんで、アメリカとかにテロとか起こさなかったんだろ。むしろアメリカとは仲いいじゃん」
『……さぁな。俺も、その頃の事を書いた本は何冊も読んだ。でも、当時の人たちが何を思っていたのか……想像はできても、俺らには実感はできるわけないんやと思う。……そやけど』
「……ん?」
『大空襲や原爆では、親や子や、友人や…すべてを失くしてしもうた人が沢山おった。一緒に逃げていた家族が目の前で戦闘機の機関銃にハチの巣にされたなんて体験談もいくつも残ってるしな。それで……恨みに思わないわけないやんな。怒りを抱かないわけないやん』
それは、今、世界中の紛争や戦争で大切な人を失くした人たちと何ら変わるものではなかったんだろうと、圭吾は思う。
『それでもな。当時の人たちは、そういう怒りとか悔しさとかを噛み殺して。しっかり未来向いて、それまで敵だった奴らに半分支配されながらもなんとかうまく共存して、復興させてきたんちゃうんかな。その当時の人たちが胸に燻る気持ちを心にしまって前を向いてくれたから、今の日本も、俺らの生活もあるんやと思う』
「そっか……」
『……だけどさ。もし、俺がその当時生きてて、息子とかお前とか大切な人たちをどこかの国に虫けらみたいに殺されてたら。街ごと破壊しつくされていたら。俺は、それを許せるとは到底思えへん。俺やったら、テロでもなんでもええから相手の国のやつを一人でも多く殺して復讐してやろうと、思っていたかもな』
イザ。お前やったら、どうしたと思う?
最後に圭吾にそんなことを聞かれて。
イザは、何も答えられなかった。ただ、考えてみるとだけ答えて通話を切る。
(ああ、そっか……)
エルカシュに、テロを止めろというのはそういうことなのか。
自分たちは散々傷つけられまくったのに。相手は平穏と暮らしている。その平穏と暮らしている奴らに自分たちの痛みを思い知らせたい。
それは、ごくごく自然な感情だと思えた。
それを止めろということ。
それがどれだけ辛い選択を迫ることなのか、イザはその時はじめて気づく。
それでも自分を律して生きようとしているウマルが、どれだけの痛みを抱えているのかも。
彼らと全く同じようにその気持ちを分かるわけではない。でも、それがどちらを選択しても途方もない苦しさを抱えるものだということは理解できた。
テロはいけない。無差別に人を殺してはいけない。そんな言葉だけでおさまるようなものじゃない。正義面して語れるようなことでもない。
それは、生き残った人たちに心も殺せと言っているようなものじゃないのか。
そんなことすら思ってしまう。
人の命は尊い。そんなことは、裏社会で生きてきたイザですら、当然のことだと思う。特に、善良な普通の人たちの命はそうだ。
でも。その尊い命が傷つけられて、失われてしまったら。そのことに怒り哀しみ恨む人たちに。他の人間たちは一体何ができるのだろう。
(……そんなの。答えが見つかるわけないよな……)
イザは深く息を吐いた。
フェリーの窓から陸地が見え始める。もうすぐ、サンクトペテルブルクの港に到着だ。
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