第5章 ロシア
第16話 ロシアに向かう途中
イザからロシア行きの話を聞いたアンナが、ロシアへビザなしで渡れる方法を教えてくれた。
それはフィンランドのヘルシンキから船で、ロシアのサンクトペテルブルクに渡る方法である。
この方法で入国すれば、3日間(72時間)だけビザなしでロシアに滞在することができる。
アレッシオを通してアレッポの青年たちから、エルカシュの親友の携帯番号を教えてもらい、イザは彼と直接電話で待ち合わせなどの段取りをつけた。幸いなことに、彼は英語が使えるようだった。
彼の名前は、ウマル・イブラヒム。エルカシュとは幼馴染だという。
ドイツの空港で彼を拾って、ヘルシンキへと向かう予定だ。
ソチまでの行程の航空券や船、ホテルの予約はアレッシオがパソコンを使って手伝ってくれた。
その最中。
「そうだ! そういえば、ナディムを最後に撮った動画があるんだった」
アレッシオが声を上げ、アンナのタブレット端末を借りて中を探し始めたことがあった。
「動画?」
「ああ。そう、動画。アレッポの攻撃が一番酷かった頃、あそこにいた人たちはあの時誰もが死を覚悟していたんだよ。だから、最後に遺書だとか大事な人へのメッセージを残したりしていたんだ。僕たちのNPOでもやったんだよ、近くにいる希望者募って、最後のメッセージを動画に撮ったんだ。その中に、ナディムがいた気がするんだよ。ナディム……なんて言ってたかな……」
そう言いながら、アレッシオはガシガシと頭をかいた。
「アレッポにあるパソコンに置いてきたか、他のスタッフが持っているのかもしれない。すまない、見つけたらイザの携帯に送るよ」
エルカシュを説得する何かの助けになるかもしれないから、とアレッシオは探しておいてくれることを約束した。
翌日、イザはミラノを経って、ドイツへ向かう。
ウマルとは、スマホでやり取りしながらだったのでドイツの空港ではスンナリ落ち合うことができた。
「イザさん! はじめまして」
リュックサックを背に初対面でにこやかに笑むウマル。その表情一つで、ウマルの人懐っこさが見て取れた。シリア人らしく目鼻立ちのハッキリとした、黒髪黒目の青年だった。
軽くお互いに自己紹介を済ませると、すぐにフィンランドのヘルシンキへと飛ぶ飛行機に乗り換える。
エルカシュが友人に言っていたテロが実行される時期について。
テロは、ロシアに最大限の屈辱を与えるために、大きなイベントがあるときに合わせて行われるという話だった。
アンナが言うには、直近で一番可能性の高いイベントはロシアの戦勝記念日だという。この日、モスクワでは大規模な軍事パレードが行わる。
戦勝記念日は5月9日。
あと2週間程度しかない。
ヘルシンキにつくと、トラムでヘルシンキ西港へ向かう。
イタリアと比べて気温がぐっと低い。そもそもイタリアに行く服装しかもっていなかったイザは、アレッシオからセーターなど温かい衣服を借りていた。
しかし、目的地はロシアの中でも南側にあるソチ。保養地というだけあって、かなり暖かい場所らしい。
気温差が大きい地域を行き来するのは、体調崩しそうで嫌なのだが、そんなことも言っていられない。
ヘルシンキ西港には、大きなフェリーがとまっていた。この船が、ロシアのサンクトペテルブルクまで行くそうだ。
「うわぁ。大きな船ーーーー!!! 僕、こんな大きな船乗るの、初めてなんですよっ。シリア出るときに、小さいボートに乗ったことがあるくらいで」
ウマルは港でフェリーを見あげて、大はしゃぎをしていた。イザと会ってからウマルは始終テンションが高い。それはどこか緊張の糸がギリギリまで張り詰めてしまったためのハイテンションのようにも思える。
「……海に落っこちるなよ?」
フィンランド湾を渡る冷たい海風が髪を撫でていく。イザはコートのポケットから出した煙草を一本咥えると、手で風を避けながらライターで火を灯す。
吐き出した紫煙は、立ち上る間もなくすぐに海風に流されてしまった。
「お前も吸うか?」
煙草を差し出すイザに、ウマルは「いいえ」と首を横に振った。
「イスラム教では煙草はダメなんです」
「……そうなんだっけ……」
じゃあ、傍で吸うのもなんか気が引けるなと思っていたら。
「あ、貴方は気にしないで。ムスリム(イスラム教徒)ではないんでしょう?」
「ああ……」
じゃあ、何教なんだと聞かれたら、それも困るが。
無宗教……と言いたいところだが、圭吾に言わせると、それもオカシイらしい。圭吾はあれで、大学院の博士課程で民俗学やらなにやらを学んでいたことがあって……まぁ、言ってみればソレ系のオタクだ。
圭吾いわく、日本では宗教行事や宗教固有の考え方が、あまりに生活に溶け込みすぎて日常になりすぎているがゆえに、人々は自分が日々やっていることが宗教行為だと認識してないだけ……なんだそうだ。
(まぁ、俺だって正月に初詣いくことあるし。死んだ人を悼むときは合掌するしな)
「あ、人が乗り込み始めてる。僕らも、そろそろ行きましょうよ」
船着き場の乗船口に人々が並び始めていた。そちらに駆けていくウマルを、イザはゆっくりと追いかけていった。
船内は思いのほか広く、カジノや免税店、レストランなどがあった。船内の案内表示やアナウンスは、英語・フィンランド語・ロシア語の三か国語だから、フィンランド語やロシア語を知らなくてもさほど不自由はない。
これから一晩かけて国境を抜けロシアのサンクトペテルブルク港へ向かうことになる。
部屋は、下から二つ目のグレードのものをアレッシオに予約してもらっていた。窓のない二人部屋で、狭い個室の両側に細いベッドが置かれている。たしか一番下のグレードは4人部屋だったので、このグレードにしてもらって良かったなんて、ちょっと思ったりもした。
乗船してしばらくすると、船はゆっくりと動き出す。
夜になって風が収まったのか波は静かで、船はさほど揺れることもなく順調に航海を始めた。
レストランで適当に食事を済ますとイザはすぐに部屋に戻ってしまったが、ウマルはきょろきょろと一人で船内を探索して歩いていたようだ。しかし、疲れもあったのだろう。夜の9時ころには戻ってきて、ベッドに横になり、「この時間でもまだ、外明るいんですよ! やっと夕方なんですよ!」とか興奮気味に喋っていたかと思うと、すぐに寝息を立て始めるのが聞こえてきた。
自分のベッドに寝っ転がってスマホを弄っていたイザは、ベッドから降りるとウマルの体に毛布を掛けてやり、個室の電気を消すと自分もベッドに横になる。
時折、響く低く唸るような船のモーター音を聞いているうち、いつしか眠りに落ちていた。
夜中に、なんだかガリガリという音を聞いてイザは目を覚ます。
のっそりと上半身を起こした。
普段あまり夢を見ないイザだったが、さっきまで何だか嫌な夢を見ていた気がした。しかし目が覚めた瞬間、何の夢だったかさっぱり忘れてしまう。ただ嫌な気分だけが残像のように胸に残っていた。
そんなイザの耳に、夢の中で聞いたのと同じ、ガリガリという音が再び聞こえてきてきた。どこかから聞こえる? 外か?
(この音で目が覚めたのか……)
のろのろと目を擦りながら、もう一度寝ようと毛布を肩までたくし上げようとした。目を閉じる寸前、何気なく向かいのベッドに目をやると。そこに寝ているはずのウマルの姿がどこにもない。
(……あれ? あいつ、どこ行ったんだ……?)
トイレでも行ったのかな、とも思ったが。
しばらく待ってみても帰ってくる気配がない。
昼間、ハイテンション気味だったことも少し気にかかる。ああいう気分の時は、夜が更けて周りが静かになると、逆に反動でどっと落ち込んでしまうこともありがちだ。
イザは壁のフックにかけた自分のコートを手に取ると、袖に手を通す。ウマルを探しに行くことにした。
しばらく船内を探すが、ウマルの姿はどこにも見えない。ズボンの後ろポケットに入れているスマホを出してみると、夜中の1時ごろだった。
船内のディスコやカジノも、さすがにこの時間になると閉店しているらしく。船内はほとんど人影もなく、ひっそりしている。
船内に見当たらないので、イザは甲板に出てみた。
コートを着ていても、外気は予想以上に冷たくてイザは思わず腕を抱く。もしかして外は氷点下なんじゃないだろうか。耳がジンジンと刺すように痛くなった。
船外は真夜中だというのに、薄明るい。水平線に目をやると、水面と空の境目がうっすらとピンク色にほの明るくなっている。夜明けには、まだ早すぎるというのに。
北極圏に近いこの辺りはあとひと月もすると白夜の時期を迎えるのだと、港でもらったパンフレットに書いてあったことを思い出した。
ガリガリというあの音が間近に聞こえ、イザは甲板の柵から海のほうをのぞき込む。
暗くてわかりにくいが、ところどころ塊のようなものが水面に浮かんでいる。氷だろう。これに船が擦れた音だったのかと、イザは思い至った。
寒くて早く室内に戻りたい。が、ここも一応探してみるかと甲板を歩いていると、甲板の端で海を眺めている人影らしきものがあることに気づいた。
近づいて行ってみると、やはりウマルだ。
「よぉ。こんなとこいると、凍るぞ?」
ウマルの隣に行き、柵にもたれる。煙草を吸おうかとポケットに手を伸ばしたが、イスラム教徒であるウマルの横で吸うことに何となく躊躇いがあって、吸うのはやめた。
「……ああ。イザさんか……」
イザを見て、ウマルが小さな笑みをつくる。寝る前の雰囲気とは一転、声も弱弱しく元気がない。
やっぱ気分落ちてたんだな、なんて思いながらイザはなんとなく隣にいる。
しばらく二人で海を眺めていた。時折、船体が流氷に擦れるガリガリという音と船のモーター音が聞こえてくるだけ。
その沈黙を破ったのは、ウマルの方だった。
「……本当に、僕、エルカシュを見つけられるんでしょうか」
「……」
「……エルカシュ、僕の話を聞いてくれるかな。それとも、
「……さあな」
「……こういうときは、大丈夫だとか、なんとかなるよとか、元気になるような声かけするもんじゃないですか?」
ウマルは冗談めかして小さく笑う。しかし、その眼は不安に沈んでいた。
「んなもん、俺に言われたって知るわけないだろ。根拠のない気休めいわれて、それでお前は満足か? だったら、幾らでも言ってやるけどさ」
「……いいえ」
船の柵に腕を乗せ、その上に頭を置いて海を眺めるウマル。でも、その目はどこか遠くを見ているようだった。
なんとなく黙ったままなのも気まずくて。イザはふと思いついたことを口にする。
「……なあ。イスラム教徒の奴らって、何かあると、みんなジハードとか聖戦とかテロとか、したくなるもんなの?」
イザの率直すぎる問いに、ウマルは一瞬言葉に詰まった。
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