第3章 シリア
第10話 シリア東部
2011年から始まったシリア内の紛争を、『シリア騒乱』と呼ぶ。
『シリア内戦』とは言わない。
なぜなら、アサド政権側にロシア、反政府勢力側にアメリカをはじめとする西側諸国がついて直接的間接的に支援し、そこにイラクから勢力を伸ばしてきたIS(イスラム国)が参戦する形になっており、もはや内戦なんて呼べる状態にはないからである。
そして、シリア北部にあるシリア最大の都市であり、商工業の中心だったアレッポ。ここの支配を確立したものが、この騒乱の勝者になるといわれていたほど、彼らにとって重要な都市だった。
そのため、反政府勢力が一時支配していたこの街へのロシア軍とアサド政府軍の空爆は熾烈を極める。
2016年12月5日、国連はアレッポにおける停戦を求める決議案を採択しようとしたが、常任理事国であるロシアと中国の拒否権発動により否決。
12月7日、G7のうち日本を除く6か国が即時停戦の共同声明を出す(日本は15日のプーチン大統領来日の際。安倍首相は、ロシアが支持するアサド政権の政府軍がアレッポに進攻したことに言及し、「人道状況のさらなる悪化を強く懸念している」と伝えて、ロシアに建設的な対応を強く求めた)。
12月13日には、アレッポの反政府勢力支配地域から市民と戦闘員を避難させる合意が発表されたが、14日には再び激しい戦闘が再開する。
フランスのパリ市長はアレッポで暮らす市民の耐え難い境遇に抗議するとして、エッフェル塔のライトアップを消した。
アレッポを救いたいという市民デモがアメリカやイギリスで起こる。
アレッポの病院は負傷者や死体であふれ、「大量虐殺現場。至る所に遺体がある。負傷者はあまりに多く、医師たちももう対応し切れなくなった。医薬品などの供給も底を突いた」と語る市民の映像が国際ニュースで流れた。
国連の
16日までには何とか数千人の民間人と戦闘員が避難したが、いまだにアレッポには5万人が残されており、その多くが民間人である。
シリア東部。
アレッポから東に160㎞離れた場所にある、ユーフラテス川中流域にある都市『ラッカ』。
そこが、
ここで、
アブ・バクル・アル・バグダディをカリフと呼び、トップに置く。カリフとは、イスラム教を始めた預言者ムハンマドの代理人を指す言葉である。
そのカリフの下に、イラク、シリアそれぞれを統括する首相が置かれ、シャリーアというイスラム法の厳格な適用のもと国家然としたものの運営がなされている。
その支配地域にはイラク、シリア併せて、800万人以上の市民が暮らしていると言われている。
首相の下に、戦争省、財務省、法務省、行政省、広報省、教育省、厚生省などいくつかの省をおいて行政にあたる。さらに、情報収集やスパイ活動、サイバー攻撃を行う情報機関アムニや、兵站業務と兵器調達を行う戦闘支援省もある。
省というが、実際は
余剰人員を徹底的に配して、少人数でコンパクトかつ機動力のある政権運営を行う。それが
そんな少数精鋭の省の中でも、一番大人数を擁するのが情報機関アムニ。約100人ほどの構成員がいると言われている。
大学で情報工学を学び英語も使えるエルカシュは、この情報機関アムニに所属していた。
正気か? 君は、弟を殺された怒りで、正常な判断力がなくなっている。
そんな数々の言葉を友人たちから投げかけられた。
しかし、エルカシュの決意は固かった。
なんとしても弟を殺した奴らに復讐をしてやりたい。
ロシアやアサド政権に一矢報いてやりたかった。
アレッポでロシアの空爆に追われ逃げ出した反政府勢力には、もはや大国に向かう力は無いように思えた。
いま、シリアで一番力のある過激派組織がいい。そうなると、おのずと答えは出た。
友人たちの反対を振り切って、アレッポを難民として脱出した後、エルカシュは一人
その地域を管轄しているアミールに会い、カリフであるバクダディに忠誠を誓うだけでいい。
その際、アミールの両手の中に自分の両手を置いて決まり文句を言う。
『私は、皇子、初代アル・カリファーに忠誠を誓い、何事においても皇子に忠誠を尽くし服従いたします』
それが終わればもう、
その後、新入りたちは戦闘訓練のために地方の訓練施設へ送られることが多い。
エルカシュも当然ほかの新入りたちと一緒にそっちに行くものだと思っていた。
しかしエルカシュの情報工学の知識を見初められてしまい、情報機関アムニに入れられてしまう。
本当はすぐにでもジハードを行う軍に入りたかったが、上から決められてしまえば従わないわけにはいかない。
戦争省が外の敵と戦うための機関だとすると、アムニは内部の敵と戦う機関である。
国中の各地、各部署様々な場所に秘密裏に人員を配置し、
また、敵の町や国外にも人員を配置し、そこで反
時にはアメリカのCIAに善良な情報提供者として接触し、
エルカシュがいたのは主にサイバー攻撃に関する業務を行う部署だった。
このエルカシュのいる部署と、広報省は
意外なことかもしれないが、
携帯電話は全て西側諸国に盗聴される恐れがあり、声紋パターンを調べれば個人特定も可能だ。
ネットや携帯の電波を捉えられて、そこを有志連合に爆撃されることもありうる。
そういうことを懸念しての、方針だった。
カリフを始め、
エルカシュの主な業務は、広報省が人集め手段として使っているツイッターアカウントやYouTubeなどをアメリカからのサイバー攻撃から守ることだった。
これらは
エルカシュの仕事場は、ラッカにある情報機関アムニの施設にある。施設といっても、建物は普通の民家だ。ここでは10人程度のアムニの人間が働いている。
この家は以前は、シーア派の一家が住んでいたと聞いたことがあった。が、ISがラッカを占領したときに逃げ出したか殺されたかしたのだろう。
ラッカにあるISの施設は、占領以前から使われていた裁判所や警察署、役所などやインフラは占領後もそのまま使われているが、中枢の省は爆撃から免れるために一般家屋を利用していた。場所も頻繁に変わる。
アムニの施設というだけあって、IS領土内にあっては珍しく、ここにあるパソコン類はネットに繋がっている。
今日もパソコンに向かって指示された作業をしていたエルカシュだったが、朝からずっと作業をしていたため、凝った肩をほぐそうと伸びをした。
立ち上がるとキッチンへ行き、ポットからマテ茶の茶葉を入れたカップに湯を注ぐ。そこに銅などでできたストローを挿して飲むのだ。
今日はもう空爆はなさそうかな。
なんて思いながら、窓際でマテ茶を飲んでいたら、建物の外で何やら数人の喧騒が聞こえてきた。窓ガラス越しに道路を覗くと、道で誰かが引っ張られて連れていかれるところが見える。
宗教警察が、シャリーア(イスラム法)に違反した不届きものを捕まえたのかもしれない。
酒、たばこは禁止。女性は、ニカーブという眼だけ出せる黒い服を着なければならない。
違反すると、飲酒喫煙は指を切り落とされ。肌を露出させた女性はその場で鞭打ち100回といった刑に処せられることになる。
「なにか、居たのかい?」
部屋の奥から声をかけられ、窓の外を見ていたエルカシュは振り向く。
「ああ。マテ茶かい、それ。僕も欲しいな」
胡散臭そうな笑みを浮かべる、細面で眼鏡の30半ばの男。
たしか、マコト・アマガサとかいう男だ。日本人だって言ってたっけな、とエルカシュは自己紹介されたときのことを思い出す。
「そうだよ。まだ、キッチンのポットにお湯が残ってるから、使うといい。もうすぐ電気も使えなくなる。飲むなら今のうちだ」
ラッカでは、今は水も電気も毎日数時間程度しか使えない。
ありがとう、と後ろ手に振りながら、アマガサはキッチンへ消えていった。
日本人は
アジア系はパキスタンやウイグルなどから来た人をたまに見るが、日本人はアマガサしかエルカシュは見たことがなかった。
アマガサは2か月ほど前にシリアに来たのだと聞いた。なんでも、多額の献金をしたとかで、それなりの厚遇で
エルカシュがしばらくキッチンの方をマテ茶を吸いながら眺めていると、アマガサがカップを手に出てきて、自分のパソコンの前へと座るのが見えた。
しばし、その一連の動作を眺めた後。
「……なぁ。アマガサ。仕事が終わったらちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど、いいかな?」
パソコン画面に注視していたアマガサが、ん?というように顔をあげた。そして、ああいいよ、と特に何の疑問もないように頷いて返した。
「じゃあ、あとでな」
エルカシュは、小さく笑うと窓際を離れて自席につく。少し、胸がちくりと痛んだ。
「なぁ、どこにいくんだい?」
日が暮れる前に仕事は終わる。なんせ電気が一日数時間しか使えないのだ。
自然と、日の出とともに行動をはじめ、日暮れとともに終える習慣がつくというものだ。
夕暮れの中、仕事を終えたエルカシュはラッカの住宅街を歩いていた。
「あと、もうちょっとだから」
エルカシュの言葉に、アマガサは大人しくついてくる。
今のところ、怪しまれている様子はない。エルカシュは、コートの上から腹の当たりを触る。そこに固いものが触れた。
数日前。
エルカシュは仕事の途中で上司に呼ばれた。言われるままに、職場の裏についていくと、上司はエルカシュに紙袋を渡してきた。受け取って中を見ると、そこには一丁の拳銃が入っていた。
訳が分からず驚くエルカシュに、上司は言う。
「お前、軍に入ってジハードをやりたいって、ずっと言っていたよな」
「は、はい……」
「お前が軍に行けるように、口を効いてやってもいい。その代わり、条件がある」
最近、アムニに入ってきたアマガサという男は、1000万ドル(約10億円)もの献金をして
しかし、どうやらもっと金を隠し持っているらしい。
それの隠し場所をアマガサから聞き出すこと。
それが条件だった。
それが上手くいけばお前の軍行きを上に進言してやろう。そう言うと、銃の紙袋を持ったまま立ち尽くすエルカシュを置いて、上司は去っていった。
(これが上手くいけば、俺は軍に行けるんだ。ジハードに参加できる)
これから自分がやろうとしていることを思うと、緊張で背中に汗が滲んでくるような気持ちになる。冬のラッカは気温がマイナスになることもあるというのに。
目指していた場所が目に入った。それは、周りの家と何ら変わらない普通の民家だった。ここも、アムニが所有している施設の一つだ。
上司から鍵を借りた。今は誰も使用していない。
民家のドアを開けて手で押さえ、エルカシュはアマガサを振り返る。
警戒されないように、努めてにこやかに。入れよ、とアマガサに促した。
アマガサは警戒する様子もなく、室内に入る。
中は壁際にテーブルと椅子が置かれているだけで、あとはがらんとしていた。窓からは沈みかけようとしている太陽の夕陽が差し込み、床を朱色に照らしている。まるで家の中全体が血の色に染まったように思えた。
部屋の中ほどに立ってこちらを見ているアマガサの顔も、赤く夕陽に照らされている。
「こんなところまで、呼び出して悪かったな。アマガサ。二人きりで話したかったんだ」
アマガサに向けたエルカシュの右手には、拳銃が握られていた。
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