第8話 香港の裏の顔
どこか青白い光を放つ、その店内。
ガラス扉は開け放たれ、簡素なテーブルといかにもプラスチック製と思われる赤い4つの椅子が両壁際に5セットずつ置かれていた。
道に漏れでる光が青いと思ったのは、内装の壁の色が青っぽいからかと店内に足を踏み入れたイザは気づく。
店内には数人の客がいた。
奥に置かれたテレビを眺めるもの。おしゃべりに興じるもの。麺類を一心にかっ込むもの。
イザは適当に入り口付近のテーブルにつく。
しばらく待つと、腰にエプロンを巻いた初老の男がやって来た。
何かをイザに喋りかけてくるが、広東語はイザには分からない。
代わりにイザは、
実は、友香と別れた後、イザはまず
そこで昼に電話したときに
初老の男はメモを手に取ると、裏と表を何度もひっくり返して確認した後、イザに広東語で何やら声をかけて店の奥へと歩いていった。男の手振りから判断すると、ついてこいということらしい。
男は厨房の横にある細い階段をのぼっていくので、イザもついていく。
二階につくと、男はくいっと指で奥を指さし、再び下へと降りて行った。
この奥へ行けということなのだろうと判断して、イザは奥へと足を進める。
下の店舗と同じくらいの幅があるスペース。その左手には店の荷物と思われるものが大量に置かれていた。使われていない冷蔵庫や、使い古された鍋の類。自転車もある。
辺りには仄かに日本ではあまり馴染みのない匂いが漂っている。置かれた香辛料の匂いだろうか。
スペースの右手は荷物などなく。通り抜けられるようになっており、その奥に扉が一つ見えた。
照明は蛍光灯が一つしか生きていないようで、薄暗い。
その薄闇の中を歩いていく。扉の前までくると、一つ大きく息をした後、イザはドアを叩いた。
少しの間があって、中から男性のものと思われる掠れた野太い声がかかる。
イザはゆっくりノブを回して、扉を開けた。
その部屋の中は、扉の外の薄暗さが嘘のように、煌々と明かりが灯っていた。薄闇に慣れつつあった瞳には、少し負担になるくらいの明るさだ。
イザは何度か瞬きをした。
15畳ほどの広さの部屋。
その真ん中に円形の中華テーブルが置いてある。
そして、その中華テーブルの手前、こちらに背を向けるようにして一人の男が座っていた。
男は、赤い中華テーブルに置かれた酒瓶を手酌で自分のグラスへと注いで、あおる。
イザは扉を入った場所に立ったまま、しばらく黙って待っていた。許可があるまで、動くことはできない。というか動けなかった。
背中だけで、威圧される。
思いのほか小柄な男だったが、黒いシャツの襟口には青い入れ墨が見えた。
イザの位置からは、男の顔は見えない。
男は何度か口元にグラスを傾けたのち。
まるで独り言でも呟くように、掠れた声で口を開く。
「なぜ、あの会社を探る」
流ちょうな英語だった。
「知人の会社で横領事件があって。その金が、そこに流れた可能性があります」
イザの話が聞こえているのか、どうなのか。不安になるような沈黙があったあと。
再び男が話しはじめる。
「我々と、やつらとはお互い商売相手としてやっている。その口座は、寄付集めのための口座だ」
イザは黙って聞いていた。男は、合間に酒で喉を潤しながら話を続ける。
「少し前まで、やつらの目当ては一般人だった。しかし、最近は脛に傷ある人間にターゲットを変えてきているようだ。その方が使い勝手がいいらしい。お前は、日本人か?」
しばし迷ったあげく、イザは「はい」と答える。
「なら、取り込まれる心配は少ないだろうよ。うちのやつらも、あいつらに惹かれるモンもほとんどいない。文化の土壌がまるで違うからの。じゃが、本土の西北じゃ、そうはいかない。あっちは、Huijiaoも多いからな。当局からの弾圧。広まる下地はある。だからこそ、わしらもつかず離れず適度な距離を見極めたい」
少しずつ話が見えなくなってくる。男の話は、代名詞ばかりで明確な主語がない。Huijiaoって、なんだ?
「それは……つまり、よそ者がここで勝手に嗅ぎまわるな、ってことですか?」
男の肩が小刻みに揺れ、押し殺したような声が漏れる。笑っているらしい。
「鼠一匹ちょろちょろしたところで、影響などない。じゃが、横領された金も、戻ってこんよ。追い続ければ、いずれ金以外のものも失うことになりかねん」
「……Huijioって何ですか?」
「
そう言ったっきり、男は再び口を開くことはなかった。
しばらく待ってはみたものの、男との会話は終わったのだとイザは察して、男に礼を言い深く頭を下げると部屋を出て行った。
ホテルに戻って、翌日。
予定では『クーロン・トレード・リミテッド』の本店所在地に行ってみることになってはいたが。
朝になって、イザが一人で行くと言い出して友香と少し揉めることになる。
イザとしては、昨日一人で探ってみた結果、思ってた以上に『クーロン・トレード・リミテッド』がヤバい会社だということが分かってきたので、そんな危険な調査に一般人の友香を連れて行きたくなかったのだ。
イスラム系で、こんなところでまで寄付や勧誘を募っていて、裏社会ともつながりのある組織っていうと……思い当たるのは幾つかある。そして、そのどれもが所謂過激派ってやつだ。
でも、友香はイザのことを普通の自営業の男くらいに思っている。
ただダメだというしかないイザの言葉に説得力はなく、結局友香に押し切られる形で一緒に調査に行くことになってしまった。
『クーロン・トレード・リミテッド』の法人所在地は、ネイザンロードの東側に絶つ巨大なビルディング。
1階はショッピングセンターになっており、2階より上には店舗やら安宿やら両替屋やらがひしめいている。さらに上の階には会社のオフィスや個人住居など雑多に入ったビル。17階まであるらしい。今はなき九龍城塞の面影を残しているとも言われるようだ。
香港人以外の人種も、とても多い。インド人も多いし、バックパッカーのような格好の人たちも多く見かけた。
狭い通路の両側にごちゃごちゃと店が入り、多くの人たちが行きかう建物内。
イザの感想は『中野ブロードウェイの巨大版じゃん?』だった。あんなにオタクな店ばかりあるわけではないのだが、何となく中の雰囲気というか、ごちゃごちゃさ加減が似ている気がした。
『クーロン・トレード・リミテッド』の所在地は、ここ
そこは下の階のような雑多な雰囲気のフロアではなく、通路の狭さは相変わらずでも、貸しオフィスの多いフロアのようで行きかう人の姿はあまり見かけない。
途中何度も道が分からなくなり、店舗の店主やエレベーターの入り口にいるセキュリティーの人に聞いてみたりしながら、ここまでたどり着いた。
「ここで、……間違いないのよね」
イザのスマホに表示された法人登記簿情報と、先ほどセキュリティーの人に走り書きしてもらった地図、それに目の前のオフィスのドアを見比べる友香。
そのオフィスのドアには、なんの表示もない。
ただ無機質な白いドアがあるだけで、看板プレートらしきものはかかっていなかった。その代わり、オフィスの入り口のすぐ脇に縦長の大きなインターホンのようなものが立っている。
インターホンの一番上には通話口。その下に、広東語と英語で『御用の方は、ボタンを押してください』とある。
さらにその下には、英語で書かれた法人名がズラッと縦書きにされていて、その横にはそれぞれ小さなボタンがついている。
そのインターホンに書かれた法人の中に『Hong kong trade limited』もあった。
まずはその横に押されたボタンを押してみる。
しかし、何度押しても返答はない。
ドアのノブを回して開けようとしてみても、鍵がかかっていてビクともしない。
ノックをしてみても、中から応答はない。ドアに耳をつけてみても、中からは物音ひとつ聞こえてこなかった。無人らしい。
「このインターホン、なんなのかしらね? こんなにたくさんの会社がここに入っているのに、今はだれもいないなんてことあるの?」
「……いや、おそらく。今、たまたま無人なんじゃなくて。常にここは無人なんだと思う」
訳が分からないというように不思議そうに見上げる友香に、イザはインターホンらしきものを指さす。
「これ、インターホンじゃなくて、たぶん通話機だよ。繋がってるのは、この部屋の中じゃなくて、どっかに電話が飛ぶ仕掛けなんだと思う」
「どういうこと?」
「だから、ここに並んだ法人、全部一応登記上はここに住所があるけど。あくまでそれは登記上だけの話で、本当のオフィスは別のところにあるか、そもそも存在しないんだ。それで用事のある人間が、ここでこのボタンを押すと、そのどこかにあるオフィスか誰かの携帯とかに電話が飛ぶ仕掛けになってるんだと思う。つまり」
「つまり?」
「ここに書いてある会社は、みんなペーパーカンパニーやダミーカンパニーかもしれないってこと。日本でも似たような形態の会社をいくつか、見たことあるんだ」
まぁ、そんな予想はしてたけどね……とイザは思うけれど、友香には言わない。
ここにいてもこれ以上の情報は得られそうになかったので、次に二人はこの法人を登記した法律事務所をあたってみることにする。
その法律事務所は、香港島のセントラルにあるらしかった。
九龍島から香港島にフェリーで戻る。香港島も観光客が多いのは九龍地区と同じだが、ここセントラルはオフィス街という雰囲気が漂っている地区だった。
その法律事務所が入っているのは、ガラス張りのお洒落なオフィスビルで、1階のロビーは天井の高い吹き抜けになっており、よく磨かれた大理石のようなフロアタイルを洗練されたスーツに革靴の人たちが行きかっていた。
(天井、高っけ……)
受付のクールビューティな女性に教えてもらい、すんなり法律事務所の入っている階数が判明して、エレベーターで向かった。
その法律事務所は、ガラス張りの両開き扉を入るとすぐ真正面に受付カウンターがあり、受付の女性が一人座っていた。
彼女の背後には、この法律事務所の名前がでかでかと書かれている。
結果からいうと、この法律事務所での聞き取りは困難を極めた。というか、何の収穫もなかった。
まず、ご予約のない方はご案内できませんと門前払いされそうになったところを、友香がスマホに表示された『クーロン・トレード・リミテッド』の登記情報を見せて、自分はそこの代表取締役にされているが私の知らないところで勝手に誰かが自分の個人情報を使って登記したものだから、削除してほしいと食い下がった。
しばらく受付で揉めていると、中からロマンスグレーの髪を後ろに撫で付け、仕立てのいいスーツに身を包んだ男が出てきて、二人を個室に案内してくれた。
そこでも友香は同じ主張を何度も繰り返したが、申し訳ありませんが、それはできませんと突っぱねられるだけだった。
あちら側の主張は、法人登記の際に書かれた書類のサインと、友香のサインが違うので手続きできないというのだ。
たしかに法人登記の諸書類には代表者……つまりYUUKA KONDOUというサインが流麗な筆記体で書かれている。
それは友香本人のサインとは全く違うものだった。友香は筆記体は書けない。
友香はかなり長い時間粘って自分の主張を訴え続けたが、法律事務所側の態度は変わらなかった。
イザはただ、黙って友香と法律事務所のやりとりを隣に座って見ていただけだったが。
途中で、スーツの男が受付の女に何かを早口の広東語で耳打ちするように指示していたことが、少し気になった。女は男から指示を受けると、すぐに部屋を出て行った。
友香がようやく諦めて法律事務所を後にしたのは、彼らが事務所に入ってから4時間が経ったころの事だ。
法律事務所から出てから、友香はすこぶる機嫌が悪い。そして、疲れ果てているようだった。
「とりあえず、ホテル帰って休めよ」
そう言うイザに、友香はうつむき加減から、キッとイザを睨みあげる。
「いやよ! むしゃくしゃして、たまんない。こういう時は、いい思いしなきゃダメなの。うん。そうだ。イザ、香港スイーツ食べに行こう!!!」
「へ?」
イザが何か答える間もなく、友香はイザの腕をぐいぐいつかんで再びフェリー乗り場の方に向かうのだった。
香港の街にもそろそろ夕闇が迫りつつあり、ヴィクトリア湾の両側に建つ香港の街は、美しく色とりどりのイルミネーションを放ち始めていた。
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