第2章 香港
第7話 香港観光気分
イザが自宅のダイニングテーブルについて、コンビニで買ってきた焼きそばを缶ビールで流し込んでいると、パジャマ姿の娘が起きてきてリビングに顔を出した。
「……おはよー。イザ」
「おはよう。……なんか飲むか? 湯なら、ポットにあるけど」
娘の
「……わかったー。コーンスープかなんか飲もうかな」
時計を見ると、朝の七時。
だいたいいつも、
父親一人、娘一人のシングルファーザー家庭。娘の母親は、イザも知らない。というか、調べたけれど、分からなかった。
娘は新生児の頃、イザが当時行きつけにしていたバーの前に捨てられていたのだ。イザがその頃使っていた偽名と、そいつの子だからそいつに渡してくれというメモと一緒に。
焼きそばを食べ終えて残った容器をゴミ袋に捨てにいきながら、ああ、そうだとイザは思い出す。
「
テーブルに突っ伏していた
「……ほんこん……???」
「うん」
仕事などでよく家を空けるイザだけど、海外に行くっていうのは初めて聞いたなぁと紗夢はぼんやり思う。
「……香港って、何があったっけ。うーん……と」
ぽよぽよと眉を寄せて、まだ寝ぼけた様子で考え込む
「土産が欲しいんだろう? 適当になんか買ってくるよ」
「……うん。なんか良いの思いついたら、ラインする」
「はいはい」
後でイザの携帯に来たラインには「亀ゼリー買ってきて」とあった。
「香港、来たー! 知ってたけど、蒸っし暑っ!」
香港空港の車寄せで、キャリーバッグを横に置いて「ばんざーい」と嬉しそうにしているイザをよそに、友香はあきれ顔。
「何、はしゃいでんの。まさか、その歳で初めての海外ってわけでもないでしょうに……というか、イザ。あなたって何歳なの?」
「……42? あ、ちがう。こないだ誕生日来たから、43。たぶん」
「おっと。思ったより、歳いってた。てっきり、30代後半くらいかと思ってたわ。というか、40代って『不惑』といわれる歳でしょうが」
フワクっていうのが何のことなのか分からなかったが、馬鹿にされてることは分かったので、イザはムスッとする。
「……いいだろ。そっとしといてくれよ。初めてなんだよ、海外来たの。仕事で海外と取引することはしょっちゅうだったけどさ」
キャリーバッグを引いてタクシー乗り場へと歩き出したイザに付いて、少し後を友香も自分のスーツケースを押しながらついていく。
「仕事って、圭吾さんと同じ会社で働いてるんだったっけ?」
なんで圭吾のことは『さん』づけなのに、俺のことは呼び捨てなんだろう? 圭吾とは二つしか歳違わないのに、なんてイザは思いつつ。
「いや。俺は圭吾の会社の人間じゃないよ」
「じゃあ、どこの会社に勤めてるの?」
うーん、どういえば良いんだろう。とイザは困るが、とりあえず自分の娘に言ってることと同じ言葉を口にした。
「個人輸入業……かな」
友香のスーツケースは重いらしく、少しずつイザと距離が離れていく。イザは足を止めて友香のところまで戻ると、自分のキャリーバッグを友香に渡して、友香のスーツケースを押してやる。
「あ、ありがとう。え……個人輸入業って、何を輸入してるの?」
まさか、銃とかドラッグとかを輸入してます、なんて言えない。
「……まぁ、いろいろ」
変に嘘をつくと、突っ込まれた質問されたときにボロが出そうだったので、そんな曖昧な答え方で誤魔化した。
つい最近まで寒波に襲われていた春の日本からくると、亜熱帯の香港の気温と湿度は一気に夏の世界に飛び込んだような気にさえさせられる。
香港は、ビクトリア湾を挟んで南北二つのエリアに分かれている。
南側が香港島エリアで、北側が
奇麗な高層ビルが立ち並んでいるのは香港島エリアで、ごちゃごちゃっとした街並みが楽しめるのが九龍エリア、とざっくり分けるとそんな感じになる。
二人が部屋をとったのは香港島にあるホテル。
彼らはタクシーで市街地まで出ると、先ずは予約していたホテルで降りた。
イザに割り当てられた部屋からは、窓からビクトリア湾やその向こうにある九龍半島が望める。夜になると夜景が奇麗そうだ。
行きかう船など眺めていると、いつまでも飽きない気がした。
友香とはホテルのロビーで待ち合わせしていたので、降りていくと。既にロビーに友香の姿があった。
「……おそいー。何してたのよ」
「……ごめん。ぼんやりしてた」
これは、嘘。
けれど、
彼に、とある会社の横領事件を追って香港に来ているんだが、『クーロン・トレード・リミテッド』が関与しているので、何か知っていることがあったら教えてほしいと聞いてみたものの、
もちろん、
そんなはずはないのだが、古くからの取引相手であるイザにも簡単には詳細を言えないような会社らしい。
それでもしつこく何かを聞き出そうとするイザに
友香とイザはホテルを出ると、フェリーで九龍へと向かう。
ほんの7、8分の船旅だったが、湾を挟んで両側に沢山の高層ビルが見える。ここも、夜景はさぞ見事なんだろうなと思われたが、残念ながら今はまだ昼間だ。
九龍半島側に降り立つと、わらわらと雑多な人の波がロータリーのタクシー乗り場やバス停に向かっていく。
イザも当然その流れのままに行こうとしたのだが、「待って!」と友香に腕をつかまれ引っ張られた。
「……なんだよ」
「ね! せっかく来たんだからさ、もっとハーバーの方に行ってみようよ!」
と手を引かれるまま(離せというのに離してもらえなかった)、時計台まで連れていかれた。
「えーとね。この時計台は、100年前からあって。昔は、こっからシベリア鉄道まで列車で行けたから、そのまま列車でロンドンまで行けたんだって!」
友香は肩から下げたショルダーバッグに挿してあったガイドブックを手に取ると、器用に片手でページをめくる。該当ページを見つけると、親切に読み上げてくれた。
つか、そのページ、付箋ついてるよな。
他のページも、どんだけ付箋つけてんだよってくらい、ついてるよな?
そっちだって、思いっきり観光気分じゃねぇかよ。
なんて思いながら、イザは少し強めに自分の腕をつかむ友香の手を払った。
「……逃げないから。離してくれよ」
嫌そうにしているイザのことなど、お構いなしに。友香は今度は、たったったと埠頭の端まで駆けていく。
逃げないと言った手前、仕方なくイザものろのろとついていった。
「イザ! はやくはやく! 写真撮ろうよ!」
イザが友香の処にたどりついた時には、友香はショルダーバッグから取り出した自撮り棒にスマホをセットし終えている。
そして、飛びつくようにしてガッとイザの手にしがみつくと、自分たちの姿とハーバーの向こう岸に見えている香港島のビル群を入れて、シャッターを切ろうとした。
驚いたイザは、思わず友香の体を両手で弾き飛ばしていた。咄嗟だったので力の加減ができず、え?とあっけにとられた顔のまま、友香は石畳に倒れこんだ。
「……いったー! なにすんのよ!」
「あ……す、すまない。つい……」
突然しがみつかれたのに驚いたのではない。写真を撮られそうになった事に驚いたのだ。
「ごめん。俺、写真ダメなんだ……ケガ、なかったか?」
写真が、というよりも、動画も画像も含めて。自分を特定されそうな自画データを残したくなかった。それが個人所有のスマホ内であっても。
それは、犯罪行為を仕事にしているせいで、常に警察などの目から逃がれ続ける生活をしてきたため身についた習慣のようなものだった。
友香は、ぶーっと頬を膨らませるような顔をして、立ち上がるとパタパタとズボンについた砂を払い落とす。
もっと怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、イザが心底すまなそうな顔をしているので、それ以上文句をいう気概も削がれてしまう。
「……別に、いいわよ。許してあげる。あ、じゃあ、セルフィーじゃなくてイザが写真撮ってよ。その方がいろんな写真が撮れそうだし」
自撮り棒から外したスマホを渡され、イザは苦笑交じりに承諾する。
「それくらいなら」
「可愛く撮ってよね!」
「……いや、俺に奇跡の一枚とか期待しないで欲しいんだけど」
「何が奇跡の一枚よ。素材が良いんだから、どれも可愛く撮れてて当たり前なの! SNSにあげるんだから」
そういえば、イザが空港で友香と会った時から、空港でも飛行機の中でもしきりにパシャパシャ写真を撮っては、フェイスブックか何かに上げているようだった。
「もうこの歳になってくるとね。結婚したとか、婚約したとか、子どもができたとか、友達みんなSNSでリアル幸せアピールしてくるわけよ。独身で、実家暮らしで彼氏もいない身としては、海外旅行なんて最大のアピールネタなの。わかった?」
はいはい、わかったよ。と微苦笑しながら、イザはスマホのカメラを友香に向けて、彼女に指示されるままに何枚も写真を撮った。
イザから返してもらったスマホの画面で画像を確認して、友香は「よし」と大きくうなずくと。
「次、行こう!」
元気に右手を振り上げて、バス停の方へ悠然と歩いて行くのだった。
(……香港に来た目的、忘れてないよな……?)
と思いつつも、半日くらいなら別に観光してもいいかとイザは友香の後についていく。
その後、
ネイザンロードの、ビルの両側から張り出した看板はネオンに彩られ幾重にも重なって見える。
車道を行きかう車の中には時折、オープンルーフの二階建てバスが通り過ぎ、香港独特の煌びやかな看板群を間近に楽しむ観光客の姿が見えた。
歩道を歩きながら、友香がイザのシャツの裾を引っ張る。
「ねぇ、あれに乗ろうよ!」
そう見上げる友香の瞳にも、ピンクやグリーンの蛍光色が映り込んで、煌めいているように見えた。
イザは、小さく笑うと。
「ごめん。俺、ちょっと一人で行きたいところがあるから。あとは適当に自分で回って、勝手にホテルに戻っといて」
「え!?」
突然そんなことを言われて、きょとんと友香がイザを見上げる。
そんな迷子の子供みたいな顔しないでくれよ、とイザは再び苦笑する。
「ネイザンロードを南にまっすぐ行けば、昼間フェリーを乗ってきた船着き場に行きつくんだし。迷いようもないだろ?」
「そ、そうだけど。一人で置いていかないでよ」
不安そうにする友香の頭を、ぽんと軽くたたいて。
「今日は歩き回って疲れてんだろ? 先に帰って寝とけって」
「確かに疲れてるけどっ。……どこに行くつもりなの?」
友香の問いに、イザは「ないしょ」とだけ答えて、友香がイザの服を掴む間もなくイザは雑踏の中に紛れて消えてしまった。
あとに一人残された友香は、しばらくむーっとして立ちすくんでいたが。
「なんか、美味しいスイーツでも買って帰ろう」
すぐに気持ちを切り替えると、ガイドブックを捲りながら船着き場の方向へと歩き出した。
友香と別れたイザは、スマホの地図を頼りにネイザンロードよりもさらに数本奥の通りへと足を進める。
そのあたりは観光客がくるような場所ではないようで、外国人らしき姿はめっきり見えなくなる。というか人け自体がかなり少ない。
ちらほらと、明らかに地元の者と思われるラフな格好の人間ばかりとすれ違う。
道は狭く、通りは暗い。
急に、幾重にも夜が濃くなったような気がした。
道の両側に建つ建物も、表のネイザンロードのように高層のきれいなビルではなく、中低層の雑多で統一感のない、外壁のはげかけたビルばかりになる。
一階は店舗になっている建物が多いが、シャッターが閉まっているところも多い。
その中に一件、煌々と明かりをともす店があった。
中華料理屋のようだ。
暗闇の中、明かりに誘われる夜虫を炙ろうと待ち構える捕虫用蛍光灯みたいな不気味さを感じながらも、イザは店へと近づいていく。
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