第6話 寝耳に水の代表取締役

『クーロン・トレード・リミテッド』の代表取締役として登記されている女性の自宅は、グーグルマップで検索すると、千葉の東船橋駅からほど近い場所にあるようだった。

 今日は日曜だから、会社勤めの人なら在宅している可能性も高い。何より圭吾たちが居る場所からさほど遠くもなかったので、電車を乗り継いで行ってみることにした。


 東船橋駅からバスで30分ほど行った場所にある住宅街。

 イザはタクシーで行こう?と提案したのだが、圭吾は「そんなん。お金がもったいないやん」と言って、バスか歩いていこうなどと言いだす。

 なんの訓練だよ、それ。歩いて行くのだけは嫌だったので、イザはしぶしぶバスで行くことに同意。


 そもそも圭吾の運動量は、常人を逸脱しているんだよとイザはいつも思う。

 港区にある圭吾の別宅から、イザが住む川崎まで走ってきたこともあった。身体を動かすことがしたくて仕方がない性分らしい。

 自分一人の時は好きにすればいいが、一緒に行動しているときは巻き込まないでほしい。本当に。


 バスを最寄り駅で降りると、携帯に表示される地図を頼りに家を探す。

 目当ての家自体は特段何の問題もなく、直ぐに見つかった。築20年は建っていると思われる二階建ての一軒家。門扉は閉じられているが、表札には『近藤』とあった。

 この家で間違いないようだ。


 イザが表札の下につけられていたインターホンを押す。

 ピンポーン、というありきたりな音の後、ほどなくして『はい』とくぐもった女性の声がインターホンから返ってきた。


「近藤友香さん、御在宅ですか?」


『……どちら様ですか』


 明らかに警戒していると思われる、低い声音。胡散うさん臭い相手だと思われていることが、ありありと伝わってくる。


「香港の『クーロン・トレード・リミテッド』の事で、近藤友香さんにお話を伺いたいことが御座いまして」


 と全部を言い終わらないうちに、インターホンからは『結構です』とにべもない返事が返ってきて、ぷつっと通話が途切れた。

 押し売りか何かと勘違いされたらしい。

 ダメだった……と、情けなさそうに圭吾の顔を振り返るイザ。


 圭吾は、嘆息を一つつくと。イザの脇腹を肘でつついて、くいっと指で近藤家のドアを指さす。

 イザは圭吾の意図を理解して、小さく頷くと。音を立てないようにそっと、門扉を開けた。ラッキーなことに、門扉は施錠されていない。


 そして、入ってすぐのところにある階段を足音を忍ばせてのぼる。

 5段ある階段をのぼると、二畳ほどのタイル張りなスペースがあり、その奥にドアがあった。

 ドア横の壁にぺったりと背中をくっつけて立つ。


 イザがスタンバイしたところで、今度は圭吾がインターホンを押した。

 一度目は、無反応。

 しばらく間を置いてから、もう一度インターホンを押す。


『……はい』


「郵便局です。書留をお届けにあがりました」


 努めて明るい声で圭吾は、はきはきと嘘を言う。インターホンのカメラからはギリギリ死角になる位置に立っているので、郵便局の外回り用制服を着てないことは気づかれないだろう。


「印鑑をお願いします」


『……今、行きます』


「はーい」


 にっこりと笑む圭吾。そして、塀越しに指で家のドアを指さし、今そっちに行くぞとイザに合図を送った。

 再びイザが小さく頷く。


 家の中で、がたがたっと物音がしたかと思うと、ドアのロックが外され。ギギッと小さな軋みをあげながら、20センチほどドアが開かれた。

 それを見て、すかさずイザがドアに前腕を挟んで閉じられないようガードし、片足もドアの隙間に挟み込む。


 ノブを掴んだまま、中から出てきた女性は驚きのあまり固まった。

 数秒静止した後、はっと我に返って、恐怖に顔を引きつらせながらドアを閉めようと思い切りノブを引く彼女。

 けれど、イザが腕と足でドアが閉じられないようにガードしているため、何度引いても閉めることができない。


「な、なんですかっ、あなたはっ!」


「あんた。近藤友香さんだよな?」


 イザに睨まれて、女性は蛇に睨まれた蛙のような顔をしながら、思わずコクコクと頷いてしまう。

 イザも決して睨んでいるつもりはないのだが、こういう時はいつも以上に目つきが悪く見えるものらしい。


「……イザ。あんまり脅すなって」


 イザが押さえていたドアを、圭吾はさらに押し開いて、もはや顔面蒼白になりつつある女性に、にこりと微笑みかけた。

 敵意がないことを示したつもりだったが……もう遅いかもしれない。


「嘘をついて、申し訳ありません。私は、ヤサカホールディングスの御堂圭吾と申します。今日は近藤友香さんにお聞きしたいことがあってお伺いしました」


 圭吾がなめし皮の名刺入れから名刺を取り出し、上客にするように両手で持った名刺を丁寧なしぐさで友香に差し出した。

 その名刺を、友香は恐る恐るだが手に取る。


 聞き覚えのある会社名。それに名刺に印刷されたロゴにも見覚えがあった。

 そのことに、わずかに安堵を覚えて、少し顔の緊張がゆるむ友香の表情を確認し。


「こんな玄関口で話すような話ではないのですが」


 と前置きを打ってから、圭吾は話を続けた。


 ある業務上横領事件で横領された金が、香港の法人口座に移されたこと。その法人の代表取締役に友香の名前と住所が記載されていること。自分たちは、その登記記録を見て、話を聞きに来たことなどをかみ砕いて説明する。


 友香は、目を白黒させる……という慣用句がぴったりくるような顔つきをしながら、声も出せずに圭吾の説明を聞いていた。

 説明の最後に。圭吾はタブレットで、『クーロン・トレード・リミテッド』の登記情報と、添付書類の中にある友香のパスポートの画像を見せる。


「このパスポート、写真は貴方で間違いないと思うんですが。本物のパスポートですか?」


 そのパスポート画像を見て、友香は息をのんだ。あまりに息を大きく飲みすぎて、呼吸が止まったんじゃないかと思うほどの驚きよう。


「………え。……ええええええええ!?」


 思わず圭吾の手からタブレットを取り上げ、そのPDF画像を穴が開くほどじっくり見る。

 そして弾かれたように踵を返して、タブレットを持ったまま家の中に戻ろうとしたため、あ……と圭吾が声をあげた。その声に気づいて、友香は足を止め、あたふたとタブレットを圭吾の手に戻すのだった。


「と、とりあえず。中に入ってください。こんなところで立ち話されても、近所の目もあるので」


 そう告げて、イザと圭吾をリビングに通すと、バタバタと階段をのぼって二階に上がっていった。

 二人がリビングに置かれた二人掛けのソファに腰を下ろすとすぐに、再びバタバタと騒がしい音を立てて友香が二階から降りてきた。その手には、赤く小さな手帳のようなものが握られている。表紙に金字で『日本国旅券』の文字と菊の絵が描かれた手帳……10年有効のパスポートだ。


 二人の前で息を弾ませながら、友香はパスポートの1ページ目の見開きを開いて見せた。

 圭吾のタブレットに映し出された画像と、友香が持ってきた現物は、一寸違わず、名前、サイン、写真、プロフィール……すべてが同じだった。


「……まったく同じやな」


 何度見比べても、このパスポートからコピーを取ったものが『クーロン・トレード・リミテッド』の法人登記に添付された代表取締役の身分証明証として使われたのだとしか思えなかった。


「わ、私。そんな会社なんて、知りません! 香港には旅行くらいは行ったことあるけど……そんなの私だけじゃないでしょ!?」


 圭吾は口元に指をあてて、考え込む。

 しばらく考え込んでから。


「……誰かに、パスポートを貸したり。盗まれたことがある、なんてことは?」


 友香は、ゆるゆると首を横に振った。

 海外旅行には年に一度くらいは友人と行っているが、いつもパスポートは肌身離さず身に着けて持っているし、盗まれたこともないという。

 なんとなく三人とも押し黙ってしまい沈黙が漂うが、その沈黙を「あっ」という友香の呟きが破った。


「そういえば、いままで何度か、そのパスポートを身分証代わりに使ったことがあります。金融機関で口座をつくるときとか、ローンで買い物したときとか。私、運転免許を持ってないから。保険証じゃ、写真がついてないから身分証明書としては使えないって言われることが多くて。それで、パスポートを身分証代わりに……」


「たぶん、それだ。身分証として使ったときに、店員にこっそりコピーとか取られて個人情報屋に売られたんだよ」


「そして、『クーロン・トレード・リミテッド』を作った奴は、何らかの理由で、法人を作るときにダミーの代表取締役を立てたかった。そやから、代表取締役登録には、個人情報屋から買った個人情報を使ったんや。日本人のパスポートは海外でも信用高いからな」


 イザと圭吾の話を、友香は手をパタパタと二人の前で振って遮る。


「ちょ、ちょっと待ってよ! じゃあ、知らないうちに私の個人情報が香港に売られてたってこと!?」


「まぁ……そういうことに、なるかと」


 自分が売ったわけでもないのだが、友香の必死な様子に気圧されて申し訳なさそうに、圭吾は伏し目がちに答える。


「………は、あああああああああ」


 長いため息とともに、友香は床に崩れ落ちた。

 イザが友香の隣に膝をついて、背中に手を置く。いちいちリアクションのでかい女だななんていう感想を抱くが、突然、降ってわいたように事件に巻き込まれていることを知った人間の反応の仕方には、個性が色濃く出るものなのかもしれない。


「……横領事件……って、言ってましたっけ……」


 友香は床に崩れ俯いたまま、くぐもった声で呟くように圭吾に尋ねる。


「あ、ああ。はい、そうですが……」


 圭吾の言葉に友香はガバっと勢いよく上半身を起こして、泣きそうな目で圭吾の足に縋りついた。ひっ、とかいう声が圭吾から漏れる。


「もしかして。私がその会社の代表取締役になってるから、その横領されたお金を私が請求されるとか……!?」


「い、いや……貴方が本当に無関係だと分かれば、そこまでは。ただ、刑事事件にもなっている事柄ですし、今後、警察や弊社の調査チームからの事情聴取には協力していただくことになるかと思いますが……離して、ください」


 逃げたそうにしていた圭吾の足から手を放して、床にぺたんと座り込むと、そうですか……と、友香はがっくりと肩を落とた。友香が離れて、圭吾はほっと息をつく。


「その代表取締役に登録されてるってやつ……取り消すことってできるんですか?」


「こういった事案に詳しい国際弁護士に頼んでみるくらいしか手は思いつきませんが……残念ながら、それでも、非常に難しいかもしれませんね」


 イザの拳銃輸送の話や三合会トライアドと取引があること、そして多額の横領金が流れ着いていること……これらを勘案してみるに、まず間違いなく、裏社会の世界に詳しい人間が作った法人に間違いはない。

 そんな真っ黒な法人と、一素人が真っ向からやりあうのは危険すぎる。


「私も現地に行ってこの法人について色々と確認してみたいことはあるのですが、なにぶん他の仕事の予定が詰まっていて現地に行けるのはいつになるか……」


 圭吾は言葉を濁す。

 現地に行って確かめてみたいことは沢山あった。

 本当にこの法人は存在しているのか。それとも、ペーパーカンパニーの類なのか。

 この法人の真の持ち主は誰なのか。

 横領された金額のうち、この法人の口座に流れた10億はいま一体どうなっているのか。


 圭吾の会社の調査チームの連中を行かせてもいいのだが、こんな黒い会社に自社の人間を接触させるのは非常に危険な気がしていた。

 できることなら、まずは自分自身で下調べしておきたい。


 そんなことを考えて押し黙ってしまった圭吾を横目に見ていたイザは、ついついと圭吾の腕を肘でつつく。

 何?というようにこちらに視線を向ける圭吾に。


「なんなら、俺が行ってこようか?」


 と、申し出た。そのイザの言葉に圭吾は耳を疑った。


「え……お前、国外に出れるんか?」


 イザは不法滞在者だ。したがって、パスポートを取ることはできない。

 無国籍者だから、どこの国のパスポートも取ることができないのだ。

 まして、入国審査で日本国籍を持っていないことがバレれば、二度と日本に入国することができない可能性もある。

 そんなことがあって、国外に出ることはできないのだとイザ自身が以前言っていたのを圭吾は覚えていた。


 イザは圭吾の耳に顔を近づけて、小声で囁く。


「パスポート作ったんだ。もちろんニセモノだけどさ」


 ニセモノと聞いて、圭吾は眉を寄せる。その顔は、「お前、その偽造パスポート、ほんまに大丈夫なんか?」と言っているだろうなとイザは思ったが、そのイザの推測は寸分たりとも間違っていない。


「大丈夫だって。心配、すんなよ」


 圭吾の肩に手と顔を乗せて、にこっと笑んで見せた。圭吾はまだ心配が尽きないという表情を浮かべてはいたが、深い嘆息を一つ吐き出すと、大きくうなずいてみる。

 イザは仕事柄、三合会トライアドを始めとする香港マフィアに知り合いも多いし、考えてみれば香港の裏社会で調査するのにうってつけな人材かもしれない。


「わかった。お前に任せるわ。依頼料は、成果に応じて後で払うんで、ええやろ?」


 商談成立、と言わんばかりににこっと笑みを返すイザ。


 その二人のやり取りを、友香は黙って聞いていたのだが。二人の会話が纏まったのを見て、待ってましたと口をはさんできた。


「ちょっと待って。私もそれ、一緒に行きたい。私の名前を勝手に使った会社に、一言抗議してやらないと気が済まないの」


「……え」


 なんか行く気になっちゃってるんだけど、どうすんだよ、この人……という顔でイザは圭吾に視線で助けを求めるものの、圭吾も、しまった、この人の前でこんな話するんじゃなかったという表情を浮かべている。


 正直言って、足手まといだと思った。

『クーロン・トレード・リミテッド』は、たぶん……というか十中八九まともな法人じゃない。その調査には危険が伴うだろう。


 しかし、さっき会ったばかりの一般人の友香に、武器輸送の話や香港マフィアの話なんてできない。イザが非合法な仕事をしていることがバレてしまうおそれがあるからだ。

 圭吾にしても、横領事件のことは警察に被害届を出しているとはいえ、世間にはまだ知らせていないので、莫大な金額の絡んだ横領事件だということは言うわけにはいかない。


「ね? いいでしょ? 私、香港には何度か行ったことがあるから、ちょっと詳しいんだ。貴方、行ったことないんでしょ? 私を連れてけば、絶対役に立つから。だから、ね? お願い」


 とイザに手を合わせすらしている友香。

 弱ったなぁ。どうやってこのお嬢さんを説得しようと困っていた圭吾だったが、その圭吾が言葉を発するよりも早く、イザが喋りだしていた。


「じゃあ、いいよ」


 やったーと友香は両手をあげて小躍りする。

 一方、「ほんまに!?」と圭吾は非難の声をあげる。それをイザは、からっと笑って一蹴した。


「……まぁ。なんとか、なんだろう」


 楽観的過ぎるイザの様子に、圭吾は大きなため息をついて頭を抱えたい気分になった。

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