第5話 クーロン・トレード・リミテッド
寒波が過ぎ、春のうららかな日差しが戻ってきた。
心なしか、行きかう人々の服装も春めいてきたように感じる。
今年はいつもなら桜の咲き始める時期に、寒気団が日本列島に居座っていたためだろう。例年より桜の咲き始めが遅い。
早い年なら3月末に咲き始めることもあるが、今年は4月第一週目も終わりかけている今頃になってようやく、蕾がほころび始めた。
そんなだんだんと春めいてきた表通りを眺めながら、カフェの窓際の席でコーヒーを啜っていた圭吾。
その圭吾に、ふいに声をかけるものがいる。声に気づいて振り向く、というか振り仰ぐと馴染みのある長身男が不愛想な青緑の眼差しで圭吾を見下ろしていた。
イザだ。
イザは圭吾の向かいの席にどかっと腰を下ろした。圭吾はテーブルの上に置いていたタブレット端末を隅にやると、柔らかい笑みを彼に投げかける。
「久しぶりやな。イザ。元気にしとったか? 仕事はどうや?」
「……まぁ、ぼちぼち」
圭吾は、イザがどんな仕事をしているかを全て知っている。今でこそ、表の世界でいっぱしの経営者然としている圭吾だが、10代半ばから20代後半まではイザと同じ世界で生きていた。
イザとは、お互いが独立するまで一緒に暮らしていたこともある。
だから、圭吾にとって彼は、弟とも言えるような存在なのだ。
「ぼちぼち、か。そりゃ結構なことやな」
「で? 今日は何の用事で呼び出したんだ? なんか、仕事か?」
すぐに金の話に結び付けたがるイザに、圭吾は苦笑で返す。
「ちゃうて。
そう言って圭吾は足元に置いたキャメル色のビジネス鞄から、桃色の下地に薄い桜の透かしの入ったのし袋をテーブルに置くと、ついとイザの前に差し出した。
のし袋には『入学祝』と書かれている。
「……え? あ、ああ……ありがとう」
入学祝を手に取り、戸惑う様子のイザ。おそらく、イザは入学祝を送り合うという日本の一般風習を知らないに違いない。それで、なんだこれ?という感じで驚いているのだろう。
そんなイザの様子を見て、圭吾は微笑ましく笑う。
「あのさ、これってもしかして。知り合いの子がどっかに入学したら、あげるもんなんだ?」
「まぁ、そうやな。それに
赤ん坊の
「あ、じゃあさ。俺もお前に、その入学祝?ってやつをやらないと、いけないんだよな? お前んちの息子たちも、この4月で高校生になったんだろう?」
「……ああ、そういやそうやな。でも、あいつら中高一貫校やから。高校生になった言うても、内部進学しただけやしな。別に、なんも要らんて」
「……そういうものなのか?」
よくわからないと言うように首をかしげるイザに、圭吾はカウンターを指さし何か飲み物でも頼んでくれば?と促す。
テーブルに置いたタブレット端末が邪魔に思えたので、圭吾は一旦起動させて何か仕事のメールが来ていないか確認したあと、すぐに電源を落としビジネス鞄に仕舞おうとする。
その何気ない一連の仕草を、こちらも何気なく目で追っていたイザだったが。
いま一瞬、圭吾のタブレット画面に見覚えのある何かを見たような気がした。
「……なぁ、それ何だ?」
「へ?」
「……いや、だから。タブレットで何見てたんだよ」
「別に、たいしたモノ見てへんかったけど……」
鞄に仕舞いかけていたタブレットをもう一度テーブルの上に置いて、電源を入れる。
すぐに、先ほどまで圭吾が見ていた画面が表示された。
それは、香港の法人登記のデータサイト。
香港では、法人登記はCompany Registryという所が管理している。
そのデータサイトを見れば、基本情報なら無料で閲覧できるし、有料会員になれば年次報告書や登記申請書などのドキュメントも見ることができるようになっている。
表示されていたのは、『クーロン・トレード・リミテッド』という会社の法人登記情報が記載された有料会員用ページだった。
圭吾の会社の横領事件で、横領した金が最終的に振り込まれていた口座の持ち主の法人である。
イザは圭吾からタブレットを受け取ると、まじまじとその法人登記情報を読みふけった。
「……どうした。それ、香港の法人やけど。お前、知っとんのか?」
イザの食いつきように、驚いた顔の圭吾。
ひとしきり基本情報を読みふけったあと、イザは顔を上げる。
「いや。知らない。聞いたことない会社だ……けど」
タブレットの画面をスクロールして、申請時の添付書類の画面を表示させる。そして、目当ての個所を拡大すると、タブレットを圭吾に向けてその個所を指さした。
そこには、書類の左上部に印刷された青いロゴマークが表示されてる。
円を描く龍が描かれ、その中に『九』という文字が書かれたロゴマーク。
「これ。こないだ、ちょっと訳アリそうな仕事したときに、
店内のにぎやかな騒めきも、穏やかなBGMも、遠くに行ってしまった気がした。
「
「ああ。でも、あいつらのフロント企業って感じの口ぶりでもなかったな。依頼主って感じだった」
「……どんな仕事やったんや?」
「これの、移送の手伝い」
イザは周りに見えないように手元で小さく、指を銃の形にして撃つ仕草をした。
ふむと圭吾は顎に手をやって考えに耽る。
「俺んとこの事件と、そっちの取引……繋がっとるんやろうか」
「さぁ? それは分かんねぇけど。どっちもこの会社が関係してんのかもな。……なぁ、お前も気づいてるよな? これ……」
イザはタブレットを画面展開させると、『クローン・トレード・リミテッド』の基礎情報を表示し、その一か所を指さした。そこには、この法人の代表取締役の名前と住所が記載されている。
そこに記載された名は。
YUUKA KONDOU
住所地は千葉県だ。間違いなく、日本人だと思われた。
登記書類の添付文書には、彼女のものと思われるパスポートのコピーもPDF化されて付けられている。パスポートのサインには『近藤優香』とあった。現在、32歳。
写真は、どこにでも居そうなOL風の女性だった。
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