第9話 ⑨

美花李里は自分が乗ってきたカヌーで、波の静かな海を島に戻っていった。

海に舞い降りた蝶の羽に、三人の小さな老人と意識を取り戻したレマ、その胸に意識を取り戻せないまま眠り続けているナジが乗り、漂っていた。月も星も消えてしまった真っ暗な夜に、真っ黒な魚のような船が蝶の羽に横付けされる。

四人目の小さな老人が船から蝶に下りてきて、その本体に起重機のロープを掛け、静かな海に融け込んでいくように笛を吹くと、慎重に蝶が持ち上げられていく。

 小さな老人の叫び声で何回か位置を修正しながら、やがて蝶は海から大きな魚のような船の甲板に身を横たえる。

ナジを寝室に運び込み、レマが横に寄り添う。船はゆっくりと向きを変え、平地に向かう。

ナジは夢の中を漂いながら、巨大な鮫とともに深海に落ちていく。鮫の頭からほとばしり出る真っ赤な血が海の深まりで光を失い、黒い墨となって回りが何も見えなくなる。ナジは苦しくなり藻掻いているとそこに大きな魚が現れ、自分を飲み込んでしまう。口から胃袋にかけてヌメットとした滑り台を滑り落ちるように胃に入り込む。

 そこは森だった。ぼくはまたここに来てしまった。目の前に丸太小屋がある。まるで昨日のことのように、この丸太小屋を覚えている。でも今日は最初から一人だ。黄金に輝く密林の中に幸福に佇む丸太小屋があるわけではない。ぼくは丸太小屋の中を知っている。

いつも冷たい風が吹き、灯りのない家の中は饐えた黴の臭いが漂っている。何本かの腐った柱が天井からぶら下がり、動物の死骸が墓場のように転がっている。

生け贄になることを拒んだぼくが、島で居られる場所だ。ぼくは扉を開け中に入る。

 山でマヤ婆と生活した日々は霧のようにぼやけ、黴くさい風に床の上に崩れ落ち埃になった。その上に座り込む。このまま時が流れ、ぼくもこの動物の死骸の一つになる。

風の音が窓を叩き、扉を揺する。扉を叩く。毒蛇がやってくるのだろう。生け贄にならないぼくのところに美花李里は来ない。今度は毒蛇たちの素直な餌食になる。

扉が開く。橙の蛇皮に赤い斑点が一面に広がりコブラのような薄い鎌を持ち上げた毒蛇が、扉から何匹も何匹も入ってきているのだろう。ぼくは君達を待っていたんだ。ぼくを迎えてくれる唯一の君達を。

ぼくの横に誰かが立ち、ぼくの横に裸の肩を寄せて座る。

「兄さん!」

もうその夢は終わっている。一枚の小さな黒ずんだ皮になり、可愛そうにぼくの身体の一部になった。

「兄さん。やっとここで会えたね」

レマはナジの膝に跨り、正面からナジを見つめる。ナジは激しく自分を責める。 この期に及んでまだ幻影を描き続けている自分があまりにも浅ましい。

レマは右手でナジの頬を思い切り叩く。

「兄さん。妹のレマがここに居るんだよ。もう少し歓んでくれたって・・・・・・!」

レマはワーッと大声で泣き、ナジの胸に自分の顔を押しつける。ナジは自分の胸でしゃくり上げながら大声で泣き続けている誰かを感じる。その涙が温かく心臓にまで届く。

レマの両腕がナジの首に抱きつくようにまわっていて、その右肩の皮の剥けたピンク色の痣がすぐ目の前にある。ぼくは確かにこの皮を食べた。

「レマ、ごめん。ぼくは自分が信じられないんだ」

レマはナジの額に自分の泣き濡れた額を付けながら言う。

「兄さん。ご自分を信じられないのなら、わたしを信じてください」

ぼくが妄想を抱いているのであれば、ぼくの存在の限界がそこにある。ぼくに残されたものは何もない。もしここに本当に妹が居るのであれば、三度の過ちを犯すことは出来ない。ナジはレマを抱きしめて、全身で妹を感じ取ろうとする。レマは泣きながら力一杯ナジを抱き返す。

「兄さんは忘れてしまったのですね。わたしの腕の皮をナイフで剥き取ったことを。わたしは二歳でした。ここで兄さんに抱かれていたのです。そして毒蛇に噛まれました」

ナジは妹の毒蛇に噛まれたところの皮をナイフ剥ぐと血を吸い、その血を飲み込んだ。

 しかしそれは、記憶できない世界の出来事だった。

「兄さん。島の戒律を守り、生け贄になるために一緒に平地の民の世界に行ってください。わたしは今は平地の民ですが、わたしは、世界の民がそれぞれの地に別れる前からあなたの妹でした」


ナジは船の寝室で、仰向けになり身じろぎ一つしないで眠り続けている。時々レマがその口元に頬を寄せ呼吸を確認する。

 二日目の夜、息が荒くなってきた。

「ナジは戦っている」

 レマはナジの頬に自分の頬を強く押しつけ目を瞑り、祈りながらナジの中に入っていく。

「ナジを必ず連れ戻す。それがわたしの全て」


四日目の朝、船を操縦していた絵留伽留が、ジーンズ姿で、ノックもしないで部屋に入ってくる。

 レマは、寝室の丸い窓から平地の港を見ている。桟橋に横着けされているこの船から、沖の方に二隻の大型客船が停泊していて、いずれも外国の旗を掲げている。プレジャーボートが行き交い、港の華やかな風景から、間もなくこの地に巨大な地震が襲ってくることなど、とても考えられない。

「ナジはまだ起きないんだ」

 絵留伽留が、ベッドのナジの足の方に腰掛けながら言う。

「間もなく起きる。わたしが連れてきたの」

 絵留伽留がレマを見て微笑むと「流石兄妹、よくやったわ」と言った。

 ナジの目が薄い膜が消えていくように、開いてくる。

ナジはゆっくりと起き上がる。両手を目のすぐそばに開き、しばらくの間見つめる。ベッドサイドから下ろした足を背を丸めて見つめる。その横にレマが座り、ナジの顔を見る。ナジは背を起こし横にいるレマがそこに居て当然のように見る。

「美花李里さんは?」

「美花李里さんは多分島に帰ったわ」

「でもここに美花李里さんを感じる。きっとぼくが生け贄になることを決めたのでここに来ている。レマを連れて」

「美花李里さんの身体から出る臭いが美花李里さんが居ることになるのなら居る。でもそれは絵留伽留なの」

絵留伽留は、先程レマが港を見ていた窓から、外国船の向こうに海から突き出た山のような島を眺めている。

 ナジはゆっくりと、絵留伽留の方に顔を向ける。ジーンズがよく似合っている足の長い女性が窓に寄りかかり外を眺めている。美花李里さんとはまるっきり違う。美花李里さんは多分爺さんだけど、絵留伽留は若い女性だ。

 絵留伽留がゆっくりとナジの方に顔を向ける。

 大きな目に引き込まれそうになる美しい人だ。レマに似ているわけではないけれど、レマから受ける感じと同じだ。それにしても、美花李里さんと同じ香りがする。美花李里さんは何かを超越した臭いを持っていると思ったけれど、絵留伽留は妖女のようだ。

「ナジ。やっと起きたね。わたしは少し心配していたわ。でもレマがあなたを絶対に離すはずないから」

 絵留伽留が、そう言い残すと部屋から出て行く。

 ナジはレマが作って持ってきた、熱いスープをゆっくりと飲む。ナジは目の前に居るのがレマなのか絵留伽留なのか迷う。年も違い、顔も違うのにそっくりだ。妖女のように艶めかしい。

絵留伽留、それからレマとナジは早朝の港に降りる。そこに大型のリムジンがエンジンを掛けて停まっている。黒い鍔付帽子をかぶった運転手は結局、挨拶もせず、後ろを振り向くこともしないで、三人が乗り、ドアが閉まると、静かに車を動かしはじめた。

港を見渡せる公園に添って椰子の木が植えられ、初春の陽光を受け輝いている。 車は公園を右に見ながらゆっくりと都心に向かう高速道路のインターを目指す。

 車はスピードを上げ、一気に高層ビルの建ち並ぶ都会の高級ショッピング街に向け進んでいく。

 ナジはレマと絵留伽留に向かいあわせに座り窓に顔を着けるようにして後ろに流れていく大都会の景色に見入っている。レマと絵留伽留はずっと話続けている。

 時々レマが拒絶するように激しく首を振ったり、言葉を交わすことなく見つめ合って二人で覚悟を決めるように沈黙を作り上げたりしている。

 ナジは何も考えず、平地を心の中に映し込んでいく。 やがて、車はショッピング街の格式のある店の前で停まる。黒服の男が車に走り寄ってきて車のドアを開ける。

 絵留伽留がナジに言う。

「わたしたちは、新作の打ち合わせがあるので、ここで降ります。あなたの任務はあなたにしか出来ません。車はあなたが自由にお使いください」

レマは口を堅く結んで降りようとしない。絵留伽留がレマの腕を取って、一緒に車から降りる。レマはナジを泣きそうな顔で見つめている。車の扉が閉まり、車はゆっくりと走り始める。ショッピング街を巡回しながら運転手が始めて話しかけてくる。

「どこへ行くか命じてください。平地の中であればどこでも行きましょう」

ナジは島の戒律にしたがって、大地震を起きることを伝えなければならないが、この大きな都市を相手に立ち向かう術を持たない。

 昨日の夢でレマと約束したことは本当のことなのだろうか。黒い雲が心を過ぎる。夢から覚めて出会えたレマとはどのような繋がりがあるのか。夢と今とが時の流れのなかで繋がっているとぼくは思い違いしていたのではないか。そのレマはぼくの隣から消えている。

 ぼくは知らない世界で一人だ。なにも確信がない。なにもない。ぼくはいったい何なのだろう。

 運転手が遠くの世界から繰り返す。

「どこでも行きますから。命じてください」

その声はナジを気づかせる。

「島の民が働きに来ているところに連れて行って」

車は、大通りの車が激しく行き交うところで大きくユータウンする。何台もの車が急ブレーキを掛け、鳴らしてはいけないクラクションを思い切り鳴らす。

 ナジの乗った車は、他の車を縫うように、猛スピードで走り始めた。都心を抜け、豪邸が建ち並ぶ住宅街を突き抜け、ひび割れた舗装道路の脇で、風で天幕のなびく露天が並ぶスラム街ではゆっくりと走り、やがて土埃の舞う道路に入り、木造家宅の商店が並ぶ町並みを制限時速をきっちり守って進む。

 看板に赤いネオンのチュウブ管が張り付いている酒場をナジは見入る。

 やがて左側に海が広がり、その先に島が見える。車は速度を上げ海に沿って暫く走ると、樹木の失われた瓦礫の山道に入っていく。

 車はやはり一定の速度を守り、車の揺れはひどくなる。だが運転手の肩と古めかしい鍔付き帽子は揺れることがことがない。まるでそこだけ地に根を張っているようだ。

 ナジは気分が悪くなる。前方左側に黄色の板に黒の字が書かれた大きな看板が見えてくる。

「これより先関係者以外立ち入り禁止。勝手に入山した者は命の保証なし」

車は速度を落とすことなく、看板を掠め通っていく。

 右前方に丸太小屋が見えてくる。車はその前で停まる。停まると同時にナジは外に飛び出し。岩陰で吐く。苦い胃液がだらだらと口から流れ落ちる。心臓が針を刺したように痛い。手の甲で口を拭うと、急に抗しがたい眠気が襲ってくる。右手で心臓を押さえながら膝から崩れるように、瓦礫の上に横たわる。

ぼくは真っ暗な夜空を見つめている。ぼくの右隣にレマが居て、左隣には運転手が居る。運転手は黒の制服を着て鍔付き帽子を深くかぶっている。運転手がこんなに近くに、長い間居るのにぼくはまだその顔を見たことがない。ぼくを間に挟んでレマが運転手に話し掛ける。多分話し掛けている。レマの息がぼくの顔を横切って運転手のところまで行く。運転手は直立不動でただ立っている。レマはさらに話し掛け、笑い、怒り、泣き、話し続けている。ぼくにはレマの声が聞こえない。でもレマの表情は星の光のように見える。運転手は暗闇の中で彫刻のように立ち続けている。

 月も星もない真っ黒な夜空に、針の先のような青い点が鋭く光りはじめる。轟音を予感させる小さな音が耳鳴りのように聞こえる。

 ナジは揺り起こされる。痩せた背の高い男がタバコの灰をナジの頭から掛けながら、靴の踵で横たわっているナジの肩を踏みつけ揺らしていた。

「ここはおまえのベッドじゃないだ」

ナジは両手を頭に置き、一度目を強く瞑ると起き上がる。

 男の命じるまま男の後に続いて丸太小屋に向かう。そこに停まっていたはずの黒のリムジンは運転手もろとも消えてしまっている。

 男は革の大きな肘掛け椅子に座ると、机の前にナジを立たせ目を細める。

「おまえは誰だ」

「島の民でナジ」

 男は口元をゆるめ、声を出さずに笑う。

「誰に呼ばれてきた」

「誰にも」

 男の口元から笑いが消える。

「島の人間は、ここに働きに来る。そして金を蓄えて帰る」

「ぼくの兄は多分ここで働かされた。金はもらえずにここで死んだ」

男はナジの顔を見つめる。

「おまえに似た奴が居たような気がする。働かないくそだった。昼間から町に出掛け酒を飲み、博打に溺れ、女を買った。挙げ句の果てに悪い病気を抱え込み、俺にしこたま謝金を残して死んだ」

「兄はまじめな人間だった。あなたに騙されて死んだ」

ナジは唇を噛みしめ絞り出すように言った。

 丸い顔の男が扉を開け入って来るなり、ニヤツキながら「おめえの兄さんはひでえ野郎だった。俺がいくらまっとうになれと説教しても聞く耳をもたねえ」と、言った。

 男は丸い顔の男を横目で見て、鼻で笑うと「兄貴の謝金をおまえが返しに来たというわけか」と、言う。

 丸い顔の男に「作業着を着させて穴に連れて行け」と、命じた。

ナジは震える拳に目線を落とす。遠くから夢の中の轟音が小さく聞こえてくる。その中にレマの声が入り込んでいる。


ーナジ、わたしも死んだ兄さんも耐えている。だからナジの仕事をしてー


 天気は急変して、黒い雨雲が空を覆い、稲妻とともに天地を揺るがすように雷鳴が鳴り響く。雨が屋根と窓を激しく叩く。暗くなった部屋に丸い顔の男が電灯を点ける

ナジは、男の目を射抜くように見つめる。

「ぼくの話を聞け。平地に間もなく大地震が起きる。おまえたちのやっていることを悔い改めないと平地の民は滅びる。平地の民はおまえのやっていることを知りながらも知らない振りをし、贅沢を貪っている。今、悔い改めないと、この国は滅びる」


ナジは、男の表情を見つめる。

 男はきっとタバコを自分の顔に投げつけ、ニタニタ笑いはじめ、丸い顔の男に自分を穴に連れて行くように命じるだろう。

 しかし島の戒律がぼくを生け贄とした、ぼくの生は兄と同じようにここで終了すると思う。


しかし、男と丸い顔の男は目を大きく見開き、顔は青ざめている。男は叫ぶように言う。

「わかった。俺が悪かった。おまえの兄を、ここで死ぬまで過酷に働かせた。おまえの兄だけではない。ここで働かせた島の民はみんな死ぬまで働かせた。俺がやってきたことを悔い改めるから許してくれ」

ナジは、男の急な変貌に戸惑っている。

 声がナジの左側からする。

 電灯の光に長い影を伸ばして運転手が立っていた。

「おまえの所有している放送局から、平地の民が悔い改めるよう、三日間語り続けろ」

運転手は直立不動で、やはり顔は帽子の影で暗く見えない。床に伸びた長い影だけがマントのように揺らめいている。雷が間近に立て続けに落ち、木を縦に裂く音が震動と供に降ってくる。雨が豪雨となり、丸太小屋を揺する。

運転手が風のように扉に近づき、外に出て行く。暫くすると車のクラクションが鳴る。丸い顔の男が慌てて扉を開け、ナジを見る。

 ナジは外に出て車に乗り込む。天気は急に回復し、外はすっかり夜になっていた。

車は瓦礫の山を静かに下りていく。

 右に海がひらけ、星が空一杯に散りばめられている。その星々の真ん中に夢で見た小さな青い点が夢で見たときよりも少しだけ大きくなって、青い光を放っている。

相変わらず微動もしない運転手の背中をナジは見つめる。意を決してその背中に語りかける。

「兄さん。兄さんでしょう。兄さんは生きていたんだ。ぼくには顔を見せてくれないけれど、あの叫んだ男には、顔を見せていた」

ナジはそれ以上涙が出てきて話すことが出来ない。あの優しい兄さんがすぐ前に居る。後ろから抱きつきたいと思う。

 でもそんなことをしたら、きっと永遠に自分の前から消えてしまう。兄さんは生きているのか死んでいるのかは分からない。

 でも今自分の前に居る。それだけでいい。

車は、古い商店街に入り、酒場の赤いネオンの下で停まる。

 酒場の中からバーテンが出てきて、車の扉を開ける。

「兄さん、ぼくはここで降りなければならないんだね。でもまた兄さんに会えるよね。きっと会えるよね」

車の扉がバタンと閉まり、ナジを道に残したまま車は走り去っていった。

バーテンはナジを客のいない酒場に入れると、脇の階段を三階まで上がり、木の扉の鍵を開け、部屋の灯りを点け、ナジを中に入れる。

 それから鍵をナジに渡し階段を下りていった。

ナジは部屋を見渡してから、椅子に座る。テーブルの白い紙に目が留まる。


『ナジ、わたしは一人であなたを迎えに行きます』


ナジはそのままテーブルにうつぶして眠る。

陽の光が射し込み、ナジの顔を照らしはじめる。ナジは目覚め、窓の向こうの島を見つめる。森から青い光が出ている。青い光の中に美花李里が見えるような気がする。

 机の上にサンドイッチとポットがおいてあり、ポットの中に温かいコーヒーが入っている。昨夜は気が付かなかった。

部屋を出た。

 一階におり、カウンターの中に居る男に言う。

「自転車を借りたいのですが。それから地図があればそれも」

男は「少々お待ちください」と言うと、扉から外に出て行こうとする。ナジはその背中に声を掛ける。

「ところで昨夜、誰かぼくの居る部屋に入ってきた人がいますか」

「夜中にレマ様がお戻りになりました。それから暫くお部屋に居られて、夜明け前に慌てて出て行かれました」

男はそれだけを言うと、クルリと踵を返して外に出て行った。ナジは気絶をしていたわけではなく、寝ていたはずだと思う。寝ていたのなら、どんなに眠りが深くても、気配で飛び起きる訓練は出来ている。

 レマが来たのなら、それだったら尚更のことぼくは起きたはずだ。

ナジは二六インチ自転車のサドルを一番高くすると、前籠に入っている地図を見る。距離からすると都心まで一時間で行ける。

 古い商店街の店は、まだどの店も窓の内側の厚いカーテンが閉まったままだ。スラム街もようやく眠りから覚めて、人々が家から顔を出している。子供達が叫びながら走り回っている。自転車はその子供達を避けながらさらに都心に向かう。

 高級住宅街に入る。厳めしい門構えの前に迎えの車が停まり、痩せた男が仏頂面で片手に新聞を持って乗り込む。運転手がその扉を閉め、小走りに走り、運転席に潜り込みアクセルを踏み込む。その車の排気ガスを浴びてナジはさらにペダルを回転させる。

 前方に高層ビルが建ち並ぶ。間もなく都心に入る。

 ナジは、律峰源太の所有する放送局に向かう。都心の外れにライトブルーの円筒形を縦に二つに切り、切り口を向かい合わせにしたような高層ビルがある。その片方のビルの一階から三階が津峰源太の放送局になっている。 放送局は特別警戒中で入口の前は警備員が層をなして立っている。

 ビルの三階の壁面に大きなテレビが設置され、この放送局の番組が流れている。 そのビルから最も近いビルのピンクの壁面にも大画面のテレビが埋め込まれ、別の放送局の広告とニュースが流されていて、その映像もこの地点からよく見ることが出来る。

 津峰源太の放送局の番組は、平地全都に配信されていて、早朝からの番組が急遽すべて入れ替わり、津峰源太一人が番組に登場し叫び続けている。

「みなが知っている通り、我が社は長年にわたり島の民をだましこの地に連れて来て、死に至るまでの強制労働を強いて利益を上げてきた。また島の民が育て上げた、黄金の真珠を不当な理由を付け、武力で脅かし取り上げてきた。それらのことは我が社を発展させ、平地の民を豊かにし、贅沢な生活を満喫させていたことは、平地の民であれば誰でも知っていることである。しかし平地の民でありながら、このようなことに厳しく反発した者もいる。私はそのような者に対して権力者を通し、法廷に掛け、流刑人として流刑地の山に飛ばした。そこに飛ばされたある者は山に辿り着く前に狼に食われ、熊に食われて死んだ。そのような場所と時を選んで流刑したからである。運良く山の村までたどり着いた者も、何も知らない村人からは疎んじられ身を隠すようにして生活することを余儀なくされた。平地の民よ。今このことに天が怒り、この平地に大災害がもたらされることになった。己を振り返り、自らの行いを知り、そして謝罪しなければ平地の民は一人残らず滅びるだろう」

テレビの前は人だかりとなり、怒り狂った群衆はテレビに向かって、物を投げはじめた。

 すると、背向かいの高層ビルのピンクの壁面にあるもう一つのテレビが緊急放送を流しはじめた。平地の天文学者による最近現れた西の空に輝く青い星についての見解である。その星は今や卓球のボールくらいの大きさになり、昼間でもボンヤリと見えるぐらいに成長してきている。

『私の発表することは、相当な確率で実現されていくと思ってもらいたい。ただし、私の導き出した式に当てはめれば、九七%と言う答えが現れてくる。多くの皆様がお気づきになられていることだと思うが、西の空に現れている青い星は着実に我が星に近づきつつある。私は数年前からこの星に気が付いていた。二年前の観測から導き出した計算によれば、地球にぶつかる確率は二%であった。しかしこの星は、何が原因だか計り知れぬが急速に縮んでいて、今では平地の大きさになっている。小さくなればなる程地球に衝突する可能性が高くなり、今現在では九七%に達している。しかも平地に直撃する可能性が最も高い。成層圏に突入すれば、さらに小さくなり最終的には隣の島位の大きさになると見込まれる。しかし平地に大きな穴を開け大地震が発生し、平地の表面はあっという間にその穴に飲み込まれていくことになる。平地の民で生き残る者はいない。私の予測では三日後に青い炎を円盤状に吐きながらこの平地に突入してくる。平地で助かる場所はない』

 港の外国船はすべて、慌てて平地を離れていった。

 また飛行場からはほんの一部の民を乗せ次から次に飛行機が飛び立ったが、異常な気圧による乱気流にもまれ、争うように海に墜落していく。

津峰源太が最初の悔い改めの放送を流してから二日が過ぎ、夜を迎えている。津峰源太は同じ言葉を何回も何十回も繰り返し放送し続けている。

その放送に、最初怒り狂っていた平地の民も、空を見上げながら恐れおののき、黄金の真珠や家の金庫にしまってある金塊を持ち出して、物資を島に返しに行くために用意された巡洋艦に拠出する。

裁判所は山に流刑にした民の罪を全て撤回し、無罪とし、保証金を払うことを決めた。また山を流刑地として山の民を差別したことを謝罪し、希望すれば山の民に平地の民の国籍を与えるとした。

都心の高層ビルはことごとく電気を消し、何本もの巨大な柱が立っているように見える。また商店は全てシャッターを下ろし、まるで幽霊の町のようだ。その町の隅々で膝を着き、手を合わせている平地の民がいる。青い星はその輝きを増し、サッカーボールの大きさになり、昼間でもくっきりと見える。


 ナジはバーの部屋にもどっている。都心からここに戻ったとき、バーテンが寄ってきて、

「レマ様がお待ちでしたが、つい先程、外に待たせていた黒いリムジンで、また出掛けられてしまいました」と、言った。

ナジは、椅子に座り、海の向こうの島を眺める。

 レマには兄さんが寄り添っているからきっと大丈夫だ。

 ぼくは、生け贄として平地で命を捧げる。

 あの金山に行くことに決めた。

 自転車に乗り、海沿いの道を都心とは反対に進む。向かう先の空にはもう一つの太陽のように青い星がさらに大きくなり、その青い光の縁は銀色に輝いている。

自転車が瓦礫の山に掛かったところで、自転車を乗り捨てて歩き始める。この山で島の民は虐殺され続けていた。ぼくは、この山で平地の最期を見届ける。

ナジは丸太小屋まで来て中に入る。誰もいない。この金山から人気が無くなっている。テレビを点ける。津峰源太はスタジオから外に出て、道端にひれ伏しながら、平地の民に告ぐ言葉を絶叫している。その頭上に異様に大きくなった青い星が鮮やかに映っている。

 チャンネルを変える。平地の民が続々と港に集まり、自らの財産を拠出している情景が映し出される。テレビの画像が荒れて、天文学者が現れる。

 無精髭が顔を斑に覆い、シャツははだけ、目は虚ろに、しかし笑っている。

「みなさん助かりました。私は一時間に四回の解析を行ってきました。考えられる全ての条件を数値に変え計算を行ってきました。一時間一五分前の計算から、その軌跡がわずかに地球から逸れる値を打ち出すようになってきました。そしてその逸れる距離は僅かながら広がってきています。この計算値からまた地球に衝突する軌跡に戻ることは不可能と判断するに到りました」


 ナジは、眉間に皺を寄せ外に出る。

 それはあり得ないことだ。あってはならないことだ。

 目の前に青い星が迫っている。手を上げれば届きそうな距離だ。春一番のような暖かい風が少し強まる

あたりが独特の香り、美花李里の臭いに包まれていく。瓦礫の間に僅かに生えた木の葉に生息していた蛹が、急に孵化し、蝶になり、次々と高く舞い上がっていく。 星から出る青い光が地上と繋がっていて、そこを蝶は上っていく。

 この臭いがぼくから去っていく。やはりぼくの生は終わったのだと思う。


ー島の戒律のはゆるしは、ぼくを翻弄し続ける。ぼくにはわからない。ぼくは山の洞窟に帰るー

ナジは金山を下り、途中で自転車を拾い、地図で山の入口を確認する。飛行場を回り込み、その奧の公園のさらに奥が山の入口になる。

 自転車をバーの前に置くと、走り始める。古い商店街を走り、スラム街を走り高級住宅街を走り都心の高層ビルの間を抜けていく。町はあっという間に、何事もなかったように日常の生活に戻ってきている。ナジはもうすべてがどうでもよかった。


ーマヤ婆と暮らした山に帰る。そしてマヤ婆と同じところで白骨になる。それで終わりにしようではないかー


山に入る。狼と熊が何時出現するかもしれない。ついこの間までであれば負けることはなかった。しかし今は、行が終わり気の力がなくなっている。どこまで戦えるかは分からない。しかし負けて困ることは一つもない。やがて狼の遠吠えが聞こえる。懐かし声だと思う。ヒグマの気配も感じる。

 しかしどれも、木々の擦れ合う音のように恐怖感を持つことがない。初めて歩く道だが、道の優しさを感じる。平地の民が山の民にした宣言が道の感覚にすり込まれてナジに伝わってくるような気がする。

 さらに登っていく先に、レマが育ち、マヤ婆が暮らした村がある。その村についてはマヤ婆から聞いていた。しかし平地の民から迫害されていたことは、聞いてはいなかった。

 マヤ婆は村の仕来りで、年を取ったので自分を捨てに来たのだと言った。

 それ依頼ぼくは自分を捨てた人間が、生け贄になる人間を育てることの意味を考えていた。ぼくは村に辿り着いたときにその答えを得るのだろうか。

村には真夜中に辿り着いた。本当に小さな村だった。マヤ婆の畑も、死んだ人を荼毘に付す場所も、成人の儀を行う場所も、マヤ婆やレマが住んでいた馬小屋の家と呼ばれているところも、崖の下の小さな庭のような中にあった。

 家の灯りは消えて寝静まっていた。外に野菜のくずが捨ててあったり、竈の臭いがまだ空気に混ざっていたりして、どの家からも寝息が外に漏れてくるような気がする。ぼくは色々なところに住んだけれど、これほどぼくに生活を感じさせてくれたところはない。

 ナジはその空気を濁さないように、静かに立ち去っていった。

 なんの答えも得られないまま、さらに山に入っていく。ここから山の頂上を目指すものは自分を捨てに行き、戻ることはない。

 ぼくは今、自分を捨てに行く。

 もう戻ってくることはない。誰もいないところで倒れ狼の餌食になり、白骨になる。

後ろから狼の群れがヒタヒタと迫ってくる。いつでも襲ってくるがいい。戦うことが、ぼくの燃えさしになった生の炎を、燃え上がらせる。最後まで勝ち抜くことは出来ないが、炎は燃え尽き、そこがぼくの終焉なのだ。

夜が明けてくる。狼の群れは、戦いの時をまだ先に延ばしている。やがて瓦礫の地になり、白骨がその瓦礫の間に散見するようになる。マヤ婆と暮らした洞窟まで後少しだ。

洞窟の入口はつぶれ瓦礫の山と化している。そこを掘り起こす力はない。毒ガスは多分消えていた。

 強い陽射しがナジの頭上に降りそそぎ、ナジの額から汗が噴き出てくる。島の見える断崖の上に行く。

 ナジの作った丸太の椅子の横に灌木が生えている。その枝葉が椅子の上に日陰を作っている。その日陰のところに座る。一時の涼を得られ、気持ちが和んでくる。

 島を見る。島の港にはたくさんの船が行き来をしていて、遠目にも島はこれまでにないほど活況を呈している。ナジは島が平地と供に、金銭に踊り溺れていくように見える。

 海から強い突風が吹き、灌木を飛ばしてしまい、先程よりさらに強い陽射しがナジに襲いかかる。

ー灌木は自分のために生えてきたものではなかったのかー


島の民を虐殺し続けていた平地の民を滅ぼせなかった、自分の生け贄に、無性に腹が立ってくる。

 ナジは島に向かって思い切り叫ぶ。

『生け贄には死を与えよ』

ナジは奥歯を噛みしめ、顔をゆがめ熱射に耐える。

 ぼくを知っているものはすべて去った。

 生きている意味も、完全に失われてしまった。

『熊よ狼よ、ぼくがおまえ達の仲間にしたように、ぼくに最後の一撃を加えよ』

ナジのすぐ後ろになにかが居る。

 ナジの背中を押す。ナジは椅子から前に転がり落ちそうになるのを踏み留まる。

 ヒグマの前足の一撃を食らうことを覚悟してゆっくりと後ろを向く。

大きな馬の顔がのそっと表れた。

 その馬の背からレマが見下ろしていた。





           了

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ナ ジ 里岐 史紋 @yona

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