第8話⑧

殺気は、洞窟の入口で停まる。十分たっても三十分たっても動こうとしない。持久戦に持ち込もうとしているのか?

 ナジは飲まず食わずの三日間、集中を切らさない修行も、マヤ婆に繰り返し行わされた。しかし今は胸が苦しくなる。

 倒れてのたうち回ればまだ楽になるものを、レマが安らかに寝てる横でそれは出来ない。唇を噛みしめて耐える。耐えることが修行だった。

 だから飢えや恐怖、時間との戦い、頭から脳を絞り出すような創造と記憶、肉体の酷使、不眠、一瞬の気の弛みで命を落とす緊張の持続、そのすべてに耐えてきた。

 でもこれほどの苦痛は初めてだ。緊張の持続で細い血管が切れ鼻と唇の横から生暖かい血が流れ出てくるのが分かる。

 洞窟の入口で太鼓の音が鳴り始める。その太鼓にあわせて軟弱なたった一人の行進音が聞こえてくる。ブリキを叩いたような声が叫びはじめた。

「ナジ。来たんだけど。お出向かいはないのかい」


 美花李里が来た。今は殺気も消えている。苦痛がやわらぎはじめた。しかしまだ信用するには早すぎる。レマをねらっている殺気は如何様にも変容すると思わなければならない。

 しかし殺気は消えた。

「ナジ、返事くらいしたらどうなのよ。あんたのことは美花李里さまには全てお見通しなんだから」

太鼓の音が近づき間もなく美花李里が現れる。本当の美花李里ならばいい。美花李里ならばレマを殺すことはない。殺すのは生け贄としてのぼくだ。

 マヤ婆は用意されたときから生け贄としての価値は表出すると言っていた。確かにぼくがここで、捧げがいのある生け贄になるための修行をしている最中に瀕死だった島の民は滅びることなく生き抜いている。用意されたものはいつか捧げられなければならない。

 ぼくは生け贄になる日を待っていた。そこに居るのが美花李里だったら、ぼくは日照りで葉が枯れ始めた樹木が雨を待ち望むように、耐えて耐えて待っていたその人が来ることになる。

 しかしレマを殺す殺気の変容ならば戦わなければならない。一秒の中に暗黒の竜巻を落とし込むように悩んだ次の瞬間に、美花李里が太鼓を叩き、蝋燭を二本、曼荼羅紋様の鉢巻きで頭に固定して、ナジの目前十センチのところに現れる。ナジは動かなかった。理由は二つある。一つは美花李里が現れる直前に美花李里の香りがしたのだ。それは、美花李里とともに森から出るとき、断崖をよじ登っていくときに常に漂っていた美花李里の独特の香りだ。

 後一つの理由。

 戦いに絶対の自信を持っていたぼくが負けた。ぼくが感じ取れない速さで美花李里は動いていた。

美花李里が一歩下がると笑っているか泣いているかわからないあの表情でナジを見る。美花李里は全く歳を取っていない。

「ナジはいつからそんなに礼儀知らずの子になちゃった。それともレマの顔を見つめて、あたしの声が聞こえなかったんだ」

「美花李里さん、ごめんなさい。あなたの来ることを待っていました。でもあなたと一緒に殺気が近づいてきたものですからぼくはレマを守るために戦うつもりでした」

美花李里はレマに近づき、寝顔に顔を近づける。ナジは背中に戦慄が走り、殺気の変容かと思った瞬間に美花李里がナジの方を向く。

「ちがうわよ、あたしはれっきとした美花李里よ。さっき洞窟の入口で殺気はあたしが殺してやった。あいつはあなたには絶対に殺せない」

レマが起き上がり大きな伸びをし、その両手を口に持って行くとハッとしたように言った。

「絵留伽留どうしてここに!」

ナジはレマを、目を細めて見ると、「エルカルって何のこと」と訊いた。

レマは寝ぼけ声になると、小声で話し始める。

「わたし恐い夢をみたの。誰かがわたしを殺しに来る。でもわたしの親友の絵留伽留が来てわたしを助けてくれたのよ」

「絵留伽留って美花李里さんのことなの?」ナジは美花李里を首を傾げながら見る。

 美花李里はまた笑っているのか泣いているのか判別できない顔になっている。レマは岩の上でバスタオルを巻いた身体を美花李里の方に向けて、「いいえ、絵留伽留さんはとても美しい女性でわたしの姉さんみたいな人」と、言った。

「でもレマは起き抜け様に美花李里さんを見て、絵留伽留と言ったよ?」

レマは腕を組んで、かわいらしく顔をしかめて考えている。いや思い出しているのかもしれない。湖に何かが落ちてポチャリと水の跳ね飛ぶ音がした。

「今ずっと絵留伽留のことを考えていたんだけれど、わかったわ」

ナジは湖に落ちたものを確認しに、湖に寄りながら訊く。

「教えて」

「美花李里さん、絵留伽留と同じ香水つけてるの!」

美花李里は表情を変えずに、そのまま銅像のように立ち続けている。頭の蝋燭の蝋が垂れて顔に掛かっている。ナジは美花李里に訊く。

「美花李里さんは香水をつけているの?」

「あたしが香油。聖なるものに相応しい香りづけをするわけだよ」

  ナジは睨み付けるように、湖底に向かって視線を投げかけながら、気の抜けた炭酸飲料のように言う。

「それは、美花李里さんの体臭ってことだよね。ちょっと独特の臭いだけど。その独特な体臭をもった人がもう一人居るんだ」

美花李里はまた笑っているような泣いているような顔で銅像になっている。

 レマは岩陰でバスタオルを落とし、服を着る。

「絵留伽留は香水をつけているって言っていたわ。わたしもその香水の香り好き」

ナジは湖底から小さな白い泡が、波間に揺れる星明かりを縫って、クラゲのようにユラユラと上がってくるのを見つける。さらにその下に小さな粒がいくつも見える。美花李里が足を一八〇度近くの大股に開いて、一気にナジに近づくと、その身体を後ろになぎ倒しその上に馬乗りになり口をふさぐ。泡はテニスボールの大きさになっていて、真珠のように純白に輝き、水面に浮かぶとパチンと割れる。ナジと美花李里はそのままの姿勢を三十秒間保つと、美花李里が飛び起き叫ぶ。

「猛毒ガスが発生し始めちゃった。当分はここに戻って来られない。荷物をまとめて逃げんのよ」

 美花李里はレマを抱きかかえるようにして、外に向かう。その後をナジが続く。

 洞窟の入口から海の方に向かって走り続ける。海の見える断崖が近づくにつれ海風が強くなってきて、強烈な毒ガスから逃れられる。間もなく洞窟の入口から毒ガスが漏れだしてくるだろう。

 昔、美花李里におぶさってナジが上がってきた断崖の上に辿り着く。そこに森の倒木をナジが引っ張り上げて作ったベンチとテーブルがある。美花李里はテーブルに座り、レマはベンチに腰掛ける。ナジは夜明け方の灰色の雲がかかった空を、断崖の縁にすわり足を投げ出して見ている。その先に白づんだ島が見える。

 ナジは思う。今、美花李里が「生け贄を捧げる」と叫び、自分の背中を押したならば、この海でぼくの役目は終了する。

 美花李里が、キンキン声で語りはじめる。ナジはその話を背中で聞く。レマはベンチで膝を抱える。朝焼けで海が真っ赤に染まりはじめる。

「ここから見ると、島に人がいなくなっているように見えるけど、ナジ、何とも思わなかったのね」

ナジがテーブルの方を向く。登りはじめた朝日がナジを後ろから赤く照らしている。

「あなたにそれを聞こうと思っていた」

 美花李里は穏やかな顔になると朝焼けの風に声を溶かせて静かに語りはじめる。

「島の民は森の奥に避難した。島ではそこだけが安全な場所。平地の民の場所は全滅する、そこに居たら生き残れるものは一人も居ない」

 レマは朝焼けの真っ赤な島を見つめる。

大地震の予兆は島の戒律に書かれていて、島の長老はそれを知っていた。島の三カ所から、毒ガスが出てくれば、大地震は間もなく起きる。一カ所目はまだナジが島に居るときに出始めた。最近になって、立て続けに二カ所から出た。

 逃れられるのは、島の森の中と山の民が住んでいる村だけだ。山の頂上のここは、洞窟から吹き出してくる毒ガスで覆われて、生物は死滅する。

「平地の民でそれを知っている人は?」

夜明けの強い風がレマの長い髪を顔に絡ませる。その髪を手で掻き上げながら、美花李里にすがるように訊く。

 美花李里はゆっくりと大切な話を、雲の消えた真っ青な空に語り掛けるように言う。

「誰も知らない。ナジがそれを伝えに行くことになる。島の戒律に、生け贄は生け贄となるために辿り着けるとこすべてに伝えろと書かれていた」

ナジは鋭い視線を美花李里に浴びせる。

「ぼくは行けない。まもなく生け贄としてここで死ぬのだから」

美花李里は父親のように、ナジに言う。

「死ぬことが生け贄になることではない。平地の民に伝えに行け。そのためにおまえは修行をしてきた」

陽は昇り紺碧の空に輝いている。ナジは両手を強く握り、思い詰めたように、断崖の下で岩の重なりに押し寄せては白い水飛沫をあげている波を見つめている。

「ぼくの兄さんは、平地の民にだまされて、奴隷のように働かされて死んだ。ぼくのところに戻ってきたときは小さな骨だった。あいつらが殺したんだ」

レマは大きな瞳に涙を浮かべて、ナジを見ている。

 ナジは声を震わせながら、この悲しみを今心に刻まないと、間違ったことをしてしまうからと言う思いで、必死に語り続ける。

「父さんと母さんは、ぼくと妹が食べる魚を捕りに漁に出た。その船が転覆したとき、側にいた平地の民の船は助けもせず、まるで楽しむかのように船が沈んでいくのを見ていたんだ。妹は飢えで死んだ」

レマは大粒の涙を膝の飢えに落としている。

「ぼくは、島の民の為に生け贄なった。平地の民が滅びれば、島の民は幸福になれる」

美花李里はナジを睨み付け、力のある男の声で怒鳴る。

「おまえの妹はここに居るではないか」

ナジはレマを陽の光のもとに見る。長いまつげに涙がかかりキラキラと光っている。妹が生きていればこの年になっている。

「レマ、君はどうして島から来たんだ」

ナジはレマの横に座ると訊いた。

 レマの思い詰めた顔に沈黙が続く。レマは本当のことを言うのを躊躇っていたわけではない。美花李里をどこまで信じて良いのかがわからない。美花李里が嘘をついているならば、なにもかも意味がない。でも本当のことを言っているのなら・・・・・・。

 わたしを妹だと断言している。

「ナジ、美花李里さんはとても大きな勘違いをされているわ。わたしは平地の民です」

ナジはレマの横で海を見る。ナジの頭の中はぐるぐる回る。ぼくは、恐怖や辛いことがあってもぼくの道を歩いてきた。ぼくは今どこに居るのか、どこで生きているのかが分からなくなった。美花李里はぼくをどうしようとしているんだ。

 美花李里は晴天の下でまた穏やかに語りはじめる。

「レマが平地の民であることは知っていたよ。そんなことは何も問題じゃないんだ。ナジが森で最後に妹に会っていたことを覚えているか。もし忘れたのだったら、今映画を見るように思い出させてやろう。レマの右肩の下を見るがいい」

ナジは、顔を左に向けて、レマの肩の下を見る。レマも皮膚の剥けたところを見る。

妹が居なくなった。一片の干からびた皮膚を残して。その皮膚は丸に太陽の炎のギザギザが回りに刻まれている形だった。ぼくがそれを持ち続けることは、あまりにも悲しすぎることだった。だから口に入れてぼくの身体の一部にした。その皮膚の形と大きさはぼくは絶対に忘れない。しかしそのことは美花李里は知らないはずだ。ぼくと妹だけの絆だった。その皮膚の痕がレマにある。

ナジはそのことをレマに言う。

 もちろんレマには思い当たることはない。きっと気持ち悪がって自分から離れていくことになる。それでいい。ぼくは平地の民を救うわけにはいかない。

レマはナジを見つめる。ナジは口を噤み目を瞑る。ナジはレマを抱きしめたいと思う。ぼくも滅びる身だ。

 美花李里は、時を辿る道を考えている。論理式は完成している。ただ所々が消えかかり丁寧に修復し完成に持って行かなければならない。

美花李里は動き始める。テーブルから降り、ナジの肩に手を置く。

「ナジ君、あのね、君は平地に行かなければならない。島の民の本心、それを伝えにあたしは来たわけ。君をここまで生かし続けてきた、平地の民のマヤ婆も了解していたんだな」

ナジは立ち上がり、島を見つめる。

「マヤ婆が平地の民?」

自分の足下がぐらぐら揺れる。前を見れば島は静かに緑に輝き、ナジは島に戻りたいと思う。ぼくが平地の民を救えば、島の民はまた平地の民から、搾取され卑劣に殺され続ける。ぼくは、島の民のために生け贄になれない。

ナジは酔ったようにフラフラと断崖の縁に近寄り、しゃがみ、崖に足を掛け、断崖を下りはじめる。ナジは必死に降りるときの恐怖と肉体への酷使が、苦悩を忘れさせると思う。もし滑落して死のうとも、それが生け贄とならなくてもそれで良いと思った。

 まるで虫のように断崖を降りてくるナジを、深海から巨大な人食い鮫がゆっくりと上がってきて、まるで待ちかまえているように徘徊し始める。まもなく滑落すると、読んでいるように。

美花李里は鮫が青い海の底から静かに上がってくるのを確認すると、ナジを追い掛け断崖を降りはじめる。

 レマはベンチに座り続け、島を見ている。

 時は午後を過ぎ、太陽は落ち着いた光を海に与えている。美花李里とナジはすでに三分の一を下っている。

 島の方から巨大な蝶が飛んでくる。レマは驚く気力を喪失しているように、蝶の動きを追い、やがてその蝶が、ナジが降りはじめた断崖から脇に離れたところに消えたのを確認した。

ー崖に留まった。巨大な羽を岩に張り付かせているー

レマはずっとナジのことを考えていた。そして蝶を見てから絵留伽留のことを思い出した。

ーナジはわたしのことで混乱しているー

レマはベンチから立ち上がると、断崖とは逆の方に歩く。それから右の方に暫く歩くと、そこから海に向かって一気に助走をはじめる、断崖の縁から遥か下の紺碧の海に向かって、両手を羽のようにひろげ、頭から足にかけて美しい曲線を引いて華麗にダイビングする。


ナジはレマを置いてここまで来てしまったことで、心に黒い墨を流し込み始めている。


レマが崖っぷちから、飛びおりるのと同時に巨大な蝶が岩を離脱する。それは強力な小型モータが付き、蝶の羽を持った、特殊なハンググライダーだった。

二人の小さな老人がそれぞれ羽の下にブル下がり、もう一人の老人が本体から指示を出している。

蝶は落下するようにレマの落ちてくる下に潜り込み、柔らかい羽でレマを受けとめると、羽にいる小さな老人が、レマの身体に命綱を取り付ける。蝶はそのままフワリと舞い上がりゆっくりと旋回しながら降下する。

 小さな老人とレマの手に、先の鋭く尖ったモリが握られていた。

ナジの眼下一面に青い海が広がり、岩にぶつかり白い飛沫を上げる波が間近に迫っていた。巨大な鮫がいる。鋭い目が合う。ナジはその鮫が自分が生け贄になるために天が送り届けたものではないかと思う。

ー鮫に食われようとは思わない。その背に乗り海の一番深いところに沈んでいくー

ナジは岩の瘤のように飛び出たところに這い上がると服を脱ぎ両腕を真っ直ぐに天に伸ばすと、躊躇うことなく海に、この世界の終わるところに飛び込んでいく。

鮫は、ナジが海に飛び込んだところを確認するとゆっくりと近づいて行く。

モリを持った小さな老人とレマが、モリの尖った刃を真下にして命綱をはずし、巨大鮫の上から海に飛び込んで行く。小さな老人がレマより一瞬早く鮫の目をモリで射抜く。鮫が頭を大きく振り上げた為にレマのモリが滑り、レマは鮫の激しく動いた頭で跳ね飛ばされて、気絶をしたまま海に落ちる。小さな老人は急いでレマに泳ぎ寄ると、肩を後ろから抱え込み助け上げる。狂った巨大鮫は片目で二人を見定めると一気に襲いかかってくる。 ナジがそこに辿り着き、レマの握りしめていたモリを奪い取ると巨大鮫の前に立ちはだかり、飛び跳ねると、巨大鮫のもう一つの目に射し込み、そのモリの柄を支えにして鮫の背に飛び乗り、そこからもう一度鮫の眉間にモリを射し込む。

 鮫は虚脱し、背にナジを乗せたまま海底に沈んでいく。しかし美花李里がナジの踵をしっかりと握っていた。


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