第7話⑦

 ナジは自分の寝床に横になり、天井の岩の間から光を落としている月を見ながら、自分に尋ねるように話す。

「マヤ婆から君のことは何も訊いていない。マヤ婆からぼくのことを聞いたはずはないとと思う。マヤ婆はここで初めてぼくと会ってそれからずっとぼくと一緒にいた」

 レマは下を向き、声を落として言った。

「ずっと以前の話よ。わたしはまだ六歳だった。きっと三日間、ここから離れた日が合ったはずだわ」

ナジは八年前一度だけ、マヤ婆がどうしても行かなければならないところがあるが、三日たったら必ず戻ってくると言って、消えたことがあることを思い出した。その時は、マヤ婆にいくら訊いても、「そのうちにわかることだ」と言って、何も教えてくれなかった。

『そのうちの』の時が今やって来た。ぼくを生け贄にする執行人は、美花李里ではない。

 妹が自分の生きつづける場所にぼくを連れて行くためにきた。もしそうならばマヤ婆の行いもすべてわかるような気がするし、島の民の生け贄としてぼくは一番納得できる形でその役目が果たせる。「きみは、生け贄としてぼくを殺さなければならない。そうすれば、ここでのぼくの修行はただしい結末をむかえ、ぼくの抱えている問いは解決する」

レマは仰向けに横たわっているナジのところに歩み寄ると、その胸の上に馬乗りになり、ナジの顔を真上から見下ろす。

「きみって言うのやめてくれない。レマって言うんだ」

レマはこのまま自分の首を絞めるのだろうかとナジは一瞬思う。でもそれはどう考えても生け贄の儀式には相応しくない。

レマは少し前屈みになって、両手で、だらりと伸ばしたナジの両腕の手首を押さえ込む。

「わたしナジを殺さないし、殺せない。わたしは今ナジしか頼れないんだ。わたしは疲れているから、湖で身体を洗ったら、マヤ婆の寝床で暫く寝るわ。マヤ婆の寝床は今日からあたしのものになる。それもマヤ婆に言われたの」

レマは、着ているものをすべて脱ぐと、ゆっくりと湖に向かう。洞窟の中の湖は一年を通して温度が一定している。だから今の時期は少し温かく感じられる。

 月明かりがレマの身体を美しく白く浮き上がらせている。

ナジはまた天井を見る。隙間から月は少し移動して当たりは闇が増してくる。レマが自分の前で、こんなに無防備にさらけ出せるのは、自分とレマに同じ濃い血が流れているからだと思う。

ーしかしレマは誰なんだろうー

湖に星明かりが移り、蛍のように瞬いている。そこからレマが叫ぶ。その声は洞窟の壁に反響して、何回も繰り返しナジのところに届く。

「わたしを包むものをください」

ナジは大きめのバスタオルを湖の縁におき、マヤ婆が使っていた羽毛の入ったシートを、レマが使うことになった岩に敷く。

レマは湖から上がると、バスタオルで身体を拭き、そのバスタオルで身体を包むとシートに横たわり、すぐに静かな寝息を立て始めた。

ナジは天井の隙間から星を見続ける。流れ星が隙間を縦にゆっくりと流れていく。いくつもいくつも流れていく。こんなことは初めてだ。

 ここに誰かが現れたとき、ぼくは生け贄として次のところに行けると思っていた。それは死ぬことだけれど、亡くなることではなく、尊い仕事を果たして妹と暮らすために島に戻れることだと思っていた。ぼくはその日を待ち望んで、たった一人でここで生きてきた。今日待ち望んでいた日が来るはずだった。でも生け贄になれない。一人でもなくなった。

 星が滲んで、やがてその光が薄くなり空は暗黒になりレマの寝息も微かに聞こえるだけになった。

 『遙か彼方から来る。誰かが』

 山頂の自然と同化しながら一人で生活してきたナジの五感は鋭くなり、特に夜は槍のように研ぎ澄まされいた。洞窟を離れ、海に直角に落ちる断崖に当たる風のちょっとした変化まで感じ取れる。そこから誰かがこちらに向かい始めた。狐や狼ではない。殺気がある。

 それは自分が殺されると言うことではなく、捉えようのない怒りと恐怖が沸々と煮たった泡を出させる何かが迫ってくる。生け贄の儀式が行われるのであるならば承けよう。しかし違う。誰かがゆっくりと迫ってくる。ナジに危険を知らせるように狼が間近で吠えている。

 ナジの瞼の奥に遠い日の森が現れ、首に抱きついていた妹の顔がまるで今ここにいるように見える。

 蜂の巣から作った蝋燭に火を着ける。蜜蝋の柔らかな灯りでレマを照らす。

 安心しきって寝ているレマの胸が、寝息に合わせてゆっくりとふくらむ。この殺気はぼくへではない。とすればレマを殺しに来る。

もうぼくの手から妹を、レマを取り上げることは出来ない。マヤ婆はこの日のためにぼくを狼や熊と戦わせたのだと今わかった。たとえ相手が巨大な熊に姿を借りた無敵の悪魔であろうと必ず八つ裂きにして殺す。

ナジは、湖で顔を洗い眠気を落とす。ナジはここで戦うことを決めた。洞窟を出れば回り込まれてレマが襲われる危険がある。相手は人とは限らない。天井の隙間から入り込む殺人コウモリに化けて現れる可能性だってある。

 レマのすぐ横でレマを守りながら戦うことのほうが危険は少ない。

 殺気は洞窟に向かってゆっくりと足を引きずるように迫ってくる。ナジは熊との戦いで充分に理解出来ている。ゆっくり迫ってくるときが危険だ。

 一瞬思考の止まった時、目の前に現れることは敵の常套手段だ。敵はその時を見据えている。

 蝋燭を消し、目を闇に慣らし、身体全体の五感ですべてが見えるようにする。

 この闇はぼくのものだ。もし相手が拳銃を持っていたら戦うほどのものではない、瞬間に飛び掛かり二分の一秒以内に殺す。ナイフも同じだ。

 もし素手で現れたら、少し時間が掛かる。しかし五分以内に決着をつける。ぼくは必ず一撃で仕留める。二発目はない。それはマヤ婆に厳しく仕付けられたことだ。 ヒグマと戦って、一発目をはずしたらそれは自分の死を意味した。レマを起こさないように戦う。目覚めたときにはすべて片づけて何もなかったように振る舞う。 そこまで出来なければ今までの修行の価値がない。

殺気はまもなく洞窟の入口に立つ。ここからが速い。奥歯を噛みしめる、鳥肌が立つ。

ーさあ来いー

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