第6話⑥

レマが平地で暮らし始めて三月が過ぎた。

 晴れ渡った日には、海の向こうにくっきりと島が見えた。しかし少しでも海の上の大気が霞むと、その島は完全に消えてしまう。

 絵留伽留は週に一度はレマのところに来た。運転手付きの大きな車で来るときもあれば、黒の大型のオートバイに跨って来ることもあった。

 朝から雨が降っている。夜になってさらに雨あしがひどくなってきた。酒場に電球の黄色い明かりがほんのりと灯った。外の闇に浮き立つかのように店内が賑やかになって来たときに、外は圧倒的な闇に消えていた。

絵留伽留とレマは部屋を出て、二階のテラスの丸いテーブルを挟んで腰を下ろした。

一階の小さなステージでは、ピアノが気怠く鳴り始め、専属歌手のヨネがビリーの『奇妙な果実』を歌い始めている。

レマの座っているテラスの床下のテーブルでは4人の男がカードゲームに興じていた。

 くわえタバコでカードをめくり、左手の親指と人差し指でタバコを摘むと、右手でストレートのバーボンを口に流し込む。少しでも口に暇が出来ると、怒鳴るように話し始める。高級住宅街に豪邸を持ち、都心にある一番人気の高層ビルのワンフロアーを借り切って事務所にし、いくつもの企業を持っている律峰源太の目は大分酔いが回っている。カードをめくる手を休めて、テーブルの上で両手を組み、後の三人を下から見上げるように睨む。

「おめえ達に、やって貰いたいことがある」

 悪い話に決まっているが、断るわけにはいかない。三人は顔を見合わせることなく、了解する。

「島に行って、働けそうな奴を連れてきてくれ。おめえ達の得意な嘘八百の上手い話に乗せてくれればいいんだ」

丸い顔のタバコを吹かしている一人がニアツキながら聞く。

「何人ぐらいが必要なんです?」

 律峰源太は腕を組み踏ん反り返ると、もう一度三人の顔をまじまじと見る。

「十人くらいだ。それより多くてもいい」

ニアツキの男がさらに聞く。どうもこの男だけが律峰源太と話が出来るらしい。

「ところで、そいつらには何の仕事をやらせるんですか」

「穴掘りだ」

ニヤツキの男はタバコの煙を肺の奥までたっぷりと吸うと、その紫の煙を上を向いてゆっくりと吐き出す。

「金脈ですかい?」

律峰源太は口を釣り上げ鼻に皺を寄せて、不快な顔をわざと作る。

「それ以上聞くな」

 ニヤツキの男のタバコの煙に、その会話の声が混ざり、ゆっくりと上に上昇していき、2階のテラスの床板の隙間から這い上がり、レマと絵留伽留の耳に届く。

 絵留伽留はレマを見ながら、しかしレマではない、別の存在に言って聞かせるように、毅然と言い放った。

「島を見るがいい。おまえが見えるところから島の民はほとんど消えてしまっている」

レマは、絵留伽留の覚悟を聞いたように思った。


二週間まえに絵留伽留と朝から外に出た。二〇分も歩くと草原に出る。目の前に海が広がり、強い風が髪を後ろになびかせる。

 その草原に丸太小屋が一軒だけ佇んでいる。その横に丸太小屋と同じ大きさの馬小屋があり、そこに茶色で白のブチの入った足の太いがっちりとした、眼光の鋭い馬が一頭、石像の様に立っている。

 その馬の頭を絵留伽留が優しく撫でると、馬はその顔を絵留伽留の身体に甘えるように擦り付けてくる。

「レマ。この馬が、山の馬小屋に居た馬だ。だから山のことはよく知っている。マヤ婆の死んだ場所までも行くことができる。アシナって言うんだ。気の強い牝馬。きっとレマと良い友達になれるよ」

レマの住んでいた馬小屋の家は確かに馬小屋があるが、馬の気配を感じたことはない。そのことを深く考えたことはなかった。あそこに馬が住んでいたことがあるとは思わなかった。そんな話は今の今まで聞いたこともなかった。山で馬を見たことは一回もなかった。馬が必要なほど大きな村ではなかったし、馬の餌や手入れを考えれば、飼い主になることは大きな負担になったはずだ。

 それからレマは毎日一人でアシナに会いに行った。乗馬の練習も少しはしたけれど、アシナに話し掛けていると、アシナが応えてくれる。それはレマの一人二役の芝居のようなものだと心得ているけれど、アシナがレマの気持ちを読んで確かに動いてくれているみたいだ。

 一度だけアシナが本当に応えてくれた。それは気のせいとか錯覚なんかではない。草原の中だし、前には海が広がっている。物陰に隠れて誰かがレマをからかうことなんか全く不可能だ。

 アシナに乗ってさんざん草原を走り回る。アシナはうつ伏せになって休息する。レマはアシナの横で仰向けになり思い切り手と足を伸ばす。吸い込まれそうな青い空を眺めながらアシナに訊く。

「アシナはいったい何歳なの?」

それはハスキーな女の人の声だった

「海と同じだけ年を取っているの」

 レマは思わず頭を仰け反らせてアシナを見た。アシナの大きな目が上からレマを見ていた。


レマは山に登るのを、明日だと決めた。

 それはその時、そうすることを感じて決めたのだけど前から決まっていたことのような気がする。

扉を開けて、絵留伽留が入ってくる。

「明日山に行く。予定通りだね。アシナもそのつもりになっている。レマが帰ってくるまでこの部屋はわたしが見るから、特に片付ける必要もない。レマが山に持って行くものは何もないから、身体一つで行けばいい」

絵留伽留はそれだけを言うと、扉を閉めて帰ってしまう。

 レマはシャワーを全身に浴び、薔薇の花びらを入れたバスタブで一四歳の誕生日を祝い、そこにゆっくりと浸かる。

 風呂からあがると、裸のまま窓を大きく開く。

 凛とした黄昏の海の向こうに島が美しく見えている。その島を見ながらレマはベッドに腰掛ける。


黄昏から深青になり夜明けの色に変わり、影を含んだ深い色彩の島から、朝の風に晒されて空と同化してしまうような柔らかい青になった島に、揺り起こされるようにレマが目を覚ます。

 顔を洗い、髪を梳かし、冷蔵庫からミルクを出して温めて飲み、山へ行くときのために縫い上げておいた服を着る。

絵留伽留がくれたベージュの羊皮で作られたブーツを履き、誰もいない店の木の床を叩くように歩く。開き戸の前でもう一度店の中を見ると、背中で開き戸を押して外に出る。突き抜けるような青空、朝の冷たい風がレマの長い髪を吹き上げ頬にまとわりつかせる。

 草原の遥か先に、鳩の大きさで埴輪の様に、立っているアシナが見える。レマは急ぎ足で近づいていく。鞍に手を掛け、アシナの背に乗る。

 アシナはゆっくりと海に向かって歩み始める。草原はなだらかな坂になり、やがて急な坂になって、岩場の海岸に下りていく。彼方に常緑樹の緑に覆われた島がくっきりと見える。レマはアシナの背から降りると、岩場の岩を渡り歩き、そしてしゃがみ込む。海の水に手を差し入れる。砂浜で生まれた海亀の子がなんの躊躇いもなく海に入っていくように、陸で生まれた人魚が水晶の岩から滑るように海に入り込んでいけるように、今レマの意識は深い海の底に向かって下りていく。

「あの島の見えるところから人が消えた。島がわたしを招いている。だからわたしは山に行く」

レマはまたアシナの背に乗る。一度海を振り返り、草原への急な斜面をみる。アシナが前足を上げ、鼻から白い息を吐き、大きく嘶くと一気に急な斜面を駆け上がっていく。アシナは草原を疾走する。レマの住んでいる酒場の前の道を土埃を舞い上げ、駆け抜けていく。

 やがて、アシナが空気を揺らさないように歩み始める。絵留伽留の住んでいるスラムの街角に差し掛かる。前をスラムの女が歩いていく。裸足で長いブロンドの髪が揺れると、垢だらけの首が見える。ブラウスの肩のところが大きく破けて、汚れきった肌が、まるで娼婦のように胸のところまではだけている。やはり裸足の幼い子供4人がその女にまとわりつくように歩いている。アシナがその女の横をゆっくりと通りすぎる。レマがその女の顔を上から見る。

「絵留伽留。どうして?」

 アシナは歩みを止めないで、ただ前に進んでいく。女はどんどん小さくなり、やがてレマの視界から消えてしまう。アシナがまた速度を速める、時は昼を過ぎ、午後の太陽はやや地表に傾きはじめている。

 道は車の動きが激しくなってきている。アシナは道の真ん中を車を化散らかすように走っていく。車は慌てて道の端による。

 都会に入っていく。高層ビルが建ち並び、高級な店が軒を連ね、都会的なセンスで着飾った人々が広い歩道を足早に行き交っている。

 アシナは一際目立つ大きなホテルのエントランスに入っていく。三人のホテルマンが走り寄ってきて、その一人がアシナの手綱を引く。レマはアシナから降りる。

「お待ちしておりました。絵留伽留様から予約を承っております」

「予約?」

「ここでお食事をされますようにとの御伝言でございます」

 レマは、お腹が空いていたので絵留伽留の気の利いた気配りには感謝しつつ、絵留伽留の行為については何も感じないように心がけた。

 ホテルマンはレマを微笑みを浮かべ一瞥する。気品のある、ガッチリとした大きな馬を乗りこなし、絵留伽留の独特の生地で美しくセクシーな新しいモードの服をすきなく着こなしている美しい少女は、絵留伽留の秘蔵っ子のモデルであることに間違いない。

 二人のホテルマンがレマの両方をガードするように足早にホテルに入り、レストランにエスコートする。大きな窓側の席が用意されていて、レマがその席に着くとすぐに食事が運ばれてくる。これもすべて絵留伽留の指示なのだ。

 レマはガツガツと食べる。

 窓の外は少しずつ陽が落ちてきている。

イチジクのケーキを食べ終わり、温かいレモネードをゆっくりと飲む。

 都会の町並みが夕映えに灰色の影を落としている。

 レマは席を立ち、外に向かう。ホテルマンが飛んできてレマをガードする。ホテルを出る。そこに紳士が立っていて、ホテルマンがホテルの支配人である「律峰源太」を紹介する。律峰源太は慇懃に挨拶をし、毒のある微笑みを浮かべながら「当ホテルのモデルになって頂ければ、どのような条件でもお受けいたします」と言う。

 レマはテラスに上がってきた紫の煙を感じる。

 レマはこちらに向かってくるアシナを見ながら「お断り致します」とキッパリと言う。

 律峰源太の微笑みが腐った笑いになる。

 アシナの毛並みが綺麗に整えられていて、レマが食事をしている間にアシナも充分に栄養と休養をとったようだ。

 レマがアシナの背に座る。アシナはゆっくりと歩き始める。夕方の歩道は歩く人の数が増え、ビルのネオンサインも色鮮やかに灯り、先程よりも一層賑やかになっている。アシナは車道をゆっくりと歩く。

 アシナの後ろは交通渋滞を引き起こしているが、クラクションを鳴らす車はない。やがて都心から離れ、飛行場が見えてくる。この飛行場を回り込むと木立の多い広い公園になり、さらにその奥から村に続く山道になる。

 風のない穏やかな夕時。レマを乗せたアシナが公園に辿り着いた時にはすっかり日が沈み夜になっている。

 山道の先に星はなく、真ん丸の月が星の見えない朱黒の空に黄色く浮かんでいる。

 アシナは鼻息も立てず、山道を沈むように登っていく。レマは薄目を開け目の前の闇を見つめている。見つめているところだけに黄色の月明かりが当たり、草に覆われた道が僅かに見える。目の前の草がザワザワ動いたのを見て、アシナは動きを停める。そこには四人の小さな老人がいた。小さな老人は、いつもの通り月明かりの下でアシナの前を停まることなく動き回っている。アシナは完全に動きを止めて冷たい埴輪になる。老人の一人ルパがレマの鞍に掛けた足の横に止まると、レマを指さして「レマ、君は自分自身の価値の自覚がない」と、幼児の声で叫ぶように言う。

 レマは呆れかえって返事のしようがない。ルパの横をもう一人の老人ルーオが腕を後ろで組んでやや前屈みでうろつきながら老人の声で言う。

「そう、その通り。自覚がない。九九.九九九%の人間が自分自身の価値を間違えて自覚している」

 レマは肩をすぼめると、「それでは自覚しても仕方ないわね」と言う。

 もう一人の老人ルーオがアシナの鼻先を見上げると両手を上げ、手を握りしめ、口を丸くしてアシナの真似をして埴輪のようになっり、喉の奥から声を出す。

「そう、その通り、仕方がない。だがルパの言うとおり、レマが自分自身の価値の自覚がないのは困ったことだ」

 レマは胸の前で腕を組むと、全く困った人達だと言うように口をつぐんで顔を傾ける。

 四人目の老人ルルが内股で歩き、レマを横目で見上げるとウインクするように瞬きをしながら言う。

「レマこれで分かったんじゃない。レマは自分自身の価値の自覚をしなければいけないと言うこと」

 四人の小さな老人は、竜巻のように素早く動き回り、草木を揺らし、山を駆け上がって行った。

ざわめく闇に向かってレマが呟く。

「なにも分からないわ」

草木のざわめきが四人の小さな老人の声を運んでくる。

「そう、その通り。今はそれでいい」


 アシナは一時の睡眠から目を覚まし、ゆっくりと山を登っていく。やがて馬小屋の横を通る。アシナは止まろうとしない、寝静まった村を過ぎていく。レマは夢のようにその風景を見つめている。 

 右肩から肘の方に少し寄ったところの皮膚がしみる。幼いときの出来事が蘇る。 父を食べた狼の肉をほおばった。

 物心が付く前のことではあったけれど、その時のことは不思議に覚えていた。それから時が過ぎ、まだ幼かったけれど、やはりそのことを思い出していた。そのとき右肩の下の皮膚がちりぢりと痛んだ。夜、母に分からないようにそっと見てみると、コインの大きさで、まるで太陽のように円の回りにのこぎりの刃みたいなギザギザ着いている形に皮膚が向けそこが赤くなっていた。まるでそこにわたしの心臓があるように、夜の圧倒的な静かさの中でそこだげが生きているように感じた。いままたそこがしみる。それは決して不快な気持ちではなく、生きている確信がそこにあるような気がした。自覚をすることに結びつくなにかがあるような、そんな気さえする。

 レマは、アシナの背で揺られながら寝た。

 森の奥深く入っていく。誰かの背に揺られている。目の前に懐かしい家がある。眠ったときにだけ表れる家。その家に入ればきっと自分がわかる。そう何回も思った。でも一度も入れていない。今日は絶対に入ろうと思う。また自分が消えていく。わたしを背負っている人の首にしがみつく。わたしが消えていく。そうだこの人の身体に入ってしまえばいい。

 レマはアシナの首を抱きしめている自分に気が付く。夢から覚める。いつも家に入る直前で夢から覚める。でも今は家に入れたかもしれないと思う。わたしを背負っていた人の体の奥に自分は入れた。アシナは単純な優しいリズムで山を登っていく。夢と覚醒の狭間、その滲んだ僅かのところに、しっかりと歩める道があり、そこを今自分が歩いている。

 恐れることもなく、無為に感動することもなく、陽が昇りやがて陽が沈み掛けるとき、アシナはその歩みを止める。

 レマは大きく伸びをすると、アシナの背から降りる。するとアシナはクルリと向きを変え、脱兎の如く今来た道を走り帰って行く。 

 一人取り残されたレマは、はじめて来た山の頂だが、マヤ婆から聞いた話は身体に染みついて、そこの地形の細部までわかっていた。山に自分を捨てた人達の骨を踏みしめながら、さらに山を登っていく。

 洞窟の前に辿り着き、そのまま躊躇うことも、様子を見ることもなく、中に入っていく。ここの風景は目を瞑って描いていた通りだ。

 マヤ婆が寝ていた岩が目の前にある。わたしはその上に座って待っている。ここまではすべて筋書き通り。後は白紙。

いいえ、その前に一言残っていた。

「ナジはわたしのことを妹だと思う」


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