第5話⑤

 絵留伽留(エル・カル)は、その後村人の前に現れることはなかった。宮本春男とその妻も絵留伽留を見たのは、レマの母親が死んだときの一回きりだった。

 しかしレマの所には月一回は欠かさず訪れた。村の全ての色彩を集めてもこれほどに色鮮やかにはならないファションと化粧をして、ある時は笑いながら、またある時は流行の歌を、踊り、山々に木霊させながらレマの馬小屋の家の引き戸を開けた。

 しかし、村人でそれを知る人はいなかった。

「絵留伽留。村の人達は貴方のことに気が付かないわ。どうして?」

「見ようとしないから」

「レマはどうして見えるの」

「レマは馬鹿だから」

レマはむっとして、絵留伽留に飛び掛かる。二人は床の上を抱き合うようにゴロゴロと転がる。レマの唇が絵留伽留の唇に触れる。

『若い。十歳にならない自分と同じくらいー』

「絵留伽留。あなたいくつなの」

「年はあなたが勝手に決めればいいわ」

 絵留伽留はレマの織った布を仕入れにくるだけではなく、レマに母親のように、文字を教え、百億年の歴史を伝え、幾何を思考させ、星と森を見せ、やがて海に連れて行こうとしている。それだけではなく、森を走らせ、高木に登らせ、すばしっこい巻き狐と戦わせた。

絵留伽留は一人で山に登ってくるはずはない。絵留伽留の恰好はといえば、とても物を持てるスタイルではない。細身の身体に、ミニスカとヒールの高いパンプス。 山登りは無理だ。

レマは村はずれにある大木の地上から七メートルぐらいの所の枝に腰を下ろしている、皺だらけの顔のど真ん中に丸い大きな鼻を持った男を見掛けてドキッとしたことがある。もちろん村人ではない。しかし瞬時に思い当たることがあった。家に帰ると、やはり絵留伽留が大の字で寝ていた。きっとあと何人か、あんな男が、木の高いところの枝で身体を休めているのだと思う。

絵留伽留のことをレマは少しずつ分かってきた。絵留伽留は平地の世界では、名の通ったファションデザイナらしい。レマの織った布で制作した服は高級注文服としてファション雑誌で紹介されているにも関わらず、特別な手立てを経ないと手に入らない。

「レマ。あなた私のところでモデルやってくれない」絵留伽留が真顔で言う。

レマがしらけた顔をすると、

「いいわ、もう少し大人になったらね」と、絵留伽留は諦めを見せない。

レマの機織りの技能はあっという間に進化と深化を重ね、さらに精密で機能の高い機織り機を絵留伽留が運び入れたために、その布は芸術の域にまで高められ、荘厳さと軽さとを併せ持ち、身につければ、醜い姿態を艶めかしく変容させてしまう迄になっている。レマの名前は世に出ないけれど、その布で制作した服のデザイナー絵留伽留は、あまり表に出ることはないが、神秘と美とに包まれたデザイナーとして世間に普く知れ渡っている。

 絵留伽留は自分の言い値で、それも恐ろしく高い値段で売っていく反面、場末の飲み屋の女の子の雰囲気が自分のイメージに合っていると、ほとんどただ同然でその子に売ってしまう。

 その子はといえば、狂喜乱舞して、上流階級が集う鉄面皮のパーティにシャナリシャナリと着こなしていくはずのドレスを惜しげもなく場末の飲み屋のトイレで赤いサンダルで裾を踏みつけながら着替え、あっという間に醤油を派手にこぼし、カラシをたらし、酔った客の唾が飛び、さらに客の壊れたカバンから飛び出した金具に引っ掛けて大きな鉤裂きを作ってしまい、高級なドレスになるとなおのこと、その無惨な姿が痛々しく汚らしくなるが、絵留伽留のデザインした超高級なドレスは無惨などという言葉は遥かどこかに飛んでいってしまい、逆にエロティックな雰囲気を醸し出してくる。


風が吹き、村の仕来りが繰り返され、季節の星座の確たる運行にしたがって、よろよろとしかし着実に時間は過ぎていく。

飢饉が村に訪れたが、しかし以前のような悲惨の嵐が吹きまくることはなかった。レマの馬小屋の家にはいつも平地から運び込まれた食材が満ちていた。

 最初は宮本春男が恐る恐る馬小屋の家に来ると、いかにも申し訳なさそうに「家族はもう二日も何も口に入れてないので、少し何か恵んでもらえないかね」と、言った。

 レマは機織り機に向かったまま「その辺にあるものをご自由に見て、必要なだけ持って行ってください」と、無頓着に言う。

 宮本春男は、両手に米やら缶詰を持つと、「これだけ貰っていっていいかな」と、レマの背中に言い、返事を待たず逃げるように家に持ち帰る。

 それだけ飢えは逼迫していたのだった。その噂はあっという間に村に広がり、日頃レマを白い目で見ていたものまで、頭を低く下げ揉み手して、小声で「飢えて子供が死にそうだよ」と、言うなり、レマの声を聞く前に、両手で食料を鷲掴みして、逃げていく。レマは機織りを静かに続け振り返ろうともしない。最後のパンの塊を持ち帰った村人は、しばらくしてその半分をちぎって返しに来た。しかしレマは静かに機織りを続けていた。そのような年が二回もあり、今レマは一二歳になり、村人は誰もレマを避けることもなく愛想よく挨拶するまでになっていた。

 さらに年が過ぎ、夏が過ぎ秋が深まった頃、絵留伽留は無感情投げやりに「次回来たときに、レマをしばらく平地に連れて行くよ」と、言った。

14歳になったレマは特に驚く様子は見せなかった。いままで絵留伽留に授けられてきた色々な知恵は、そのことを充分に予測させていたからだ。レマは、宮本春男に「用が出来たので平地に行くけれど、馬小屋の家は手を付けないでちょうだい」と、言った。

宮本春男は心配そうに、いつ帰ってくるのかを聞く。

 レマはそれには答えずに、下を向いた。


 レマが一反の布をちょうど織り終わった時、引き戸が開いて絵留伽留が入ってくる。レマは身繕いをすると、絵留伽留と一緒に馬小屋の家を出る。物心が付いてはじめて平地に降りていくことになる。持ち物は今織り終わった布以外は何もない。その持ち物も、しばらく歩くと、大木から顔の皺だらけな小さな老人が飛び降りてきて、丁重に受け取る。そして二人の後ろを着いてくる。絵留伽留はパンプスを脱ぐ。前の大木の上の方から、よく似ている皺だらけの小さな老人が飛び降りてきてヒールの高いパンプスを受け取ると、ゴム草履を絵留伽留にひざまずいて履かせる。

 その小さな老人は先導をするように前を進む。やがて断崖の縁に到着する。断崖の斜め左上から滝がはじまり、透明なガラスのような水が飛翔し真っ逆さまに落ちていく。遥か下は跳ね上がった水が霧になり、滝壺を覆い隠している。二人の小さな老人は断崖の縁の草むらからわずかに顔を出している鉄柱の穴に通されたワイヤを鉄柱の脇のハンドルで巻き上げピント張る。その太いワイヤの下の一端は最後で滝と交わるかのように、底なしのように見える霧の中に消えている。

 そのワイヤを伝ってゴンドラが猛スピードで這い上がってくる。そのゴンドラに最初二人の小さな老人が乗り次にレマ、最後に絵留伽留が乗り込んだ瞬間に、動き始める。動くと言うよりもそのまま落下してしまうような猛スピードで飛泉を追い抜いていく。髪は逆立ち、口から全ての内蔵が飛び出しそうになるのを必死で押さえ、呼吸が困難になり、霧の中に突っ込み、気が付くと轟々と瀑布の雪崩れ込む滝壺の横にふわりと着陸する。そこにさらに二人の小さな老人が立っていて、ゴンドラのロープを操っている。レマはその四人の小さな老人は四ッ子なのかと思ったが、四人の顔はそれぞれ違っていて、兄弟でもなさそうだと思い直す。四人の小さな老人が先頭でレマが続き、絵留伽留が最後を追う。ゴツゴツとした岩場を通りすぎ、木立の中を抜けると草原に出る。小型のヘリコプターがすでにプロペラを回転させて待機している。腰を曲げて近づいたレマと絵留伽留が乗ると、すぐに舞い上がる。草原に取り残された四人の小さな老人は、顔を真上にし、ヘリコプターを見つめている。やがてヘリコプターが鳥の大きさになったところで、一列に並び全速力でさらに山を下りはじめる。

ヘリコプターが平地の飛行場に舞い降りる。レマは初めて都会というところに足を踏み入れる。ロビーで行き交う人が映画スターを見るように振り返ってレマを見る。レマは自分で織った布を自分でデザインしたスタイルに縫い上げ着ている。絵留伽留はレマの服を見ると、いつも「あんたにはかなわないわ」と言い、それが挨拶になっていた。

手の込んだ原始人服をおもわせるそのスタイルは、奇抜な物珍しさで好奇心を誘うのではなく、人々の注目を集めた発表されたばかりの作品そのものになっている。

 飛行場から絵留伽留の家に向けてタクシーを飛ばす。レマは一言も話さない。都心の高層ビル群を痛々しく眺めている。太陽がビルとビルの間を染めている汚れた朱色にどうして人は無関心でいられるのだろうかと思う。

タクシーはやがて豪邸が建ち並ぶ、閑静な住宅街へ進んでいく。絵留伽留の家もきっとこの一画にある。しかしタクシーはスピードを緩めないまま、さらに先へと進んでいく。

 町並みが崩れ、壊れそうな家の密集する細い路地には入り込んでいく。路上で寝ている老人がいる。破けて、汚れたシャツを着て、裸足の子供達が走っている。痩せた犬が今にも崩れ落ちそうな三階建てのビルの前で寝そべっている。その横でタクシーが停まる。

絵留伽留が降り、続いてレマが降りる。

 絵留伽留が錆びて崩れ落ちそうな階段を登る。レマは後に従う。なにも話さない。話すことなんかない。『超一流のデザイナーだよ』って、自分で言ってたことなのだ。

 三階の塗装の剥げた扉を開ける。

壁紙が剥がれ垂れ下がっている部屋が一つだけ。古ぼけた事務用の机、足がぐらぐらしているベッド、ビニールのカーテンでしきられただけのシャワールーム兼用トイレ。それに小さなキッチン。

 レマは馬小屋の方がよっぽどマシだと思う。

「ここが絵留伽留の家なの」

「そう」

レマは、少し分かってきたような気がする。

『絵留伽留の謎は平地に来ても同じだ』

 絵留伽留はレマの瞳を見つめて、小さな声で話す。

「レマ!わたしをいつかあなたに分かってもらうことになるわ」

レマは薄い壁にもたれて座り込む。睡魔が襲ってくる。絵留伽留は慌ててレマの腕を取る。

「レマ。あなたの住むところに案内するわ。さあ、立って」

表に出ると、黒塗りの高級な車が止まっていて、帽子をかぶり、濃紺のスーツを着た運転手がゆっくりと車のドアを開けた。

車は二十分ほど走ると舗装された道路から土埃の舞う道に変わり、道の両脇にはレトロな木造の商店が並び、車は、丸太の壁面が時間の風に晒されて焦げ、茶色に変色したバーの前で停まる。入口の上には、店の名前を告げる赤のチューブのネオン灯がジーと音を発しながら黄昏の中で点灯している。絵留伽留は開き戸の上から店の内部を一瞥しカウンターの中にバーテンがいるだけで、まだ客は一人もいないのを確認すると、扉を押し、中にレマを招き入れる。テーブルを回り込みながら、店の左側奥の木製の螺旋階段に向かう。レマが早足で続く。バーテンは絵留伽留をチラッと見ただけで、後ろの棚の酒瓶を確認し、そのうちの何本かを取り出しては、スエードの布で丁寧に拭く。二階には三部屋の扉がある。

その扉前の広いテラスからは、一階のピアノのある小さなステージを正面に見ることが出来る。

 絵留伽留はそのまま螺旋階段を三階に上がる。三階の上がりきったところは、小さな踊り場になっていて、一階や二階から踊り場の奥を見ることは出来ない。踊り場の奥の狭くなったところには、重厚な木の扉がうすぐらいなかにドッシリと構えている。絵留伽留はバッグから鍵を取り出し、扉を開ける。レマを招き入れ、右手で静かに扉を閉め、鍵を掛ける。一部屋だが、生活するのには充分な広さがある。 簡素だがしっかりした作りのベッド、乗っているパソコンが小さく見えるほどの大きくがっしりとして机、対面式のシステムキッチンと大きな冷蔵庫、それに三年もののマグドレーヌが六本入ったワインクーラーが設置されている。広いウオークインクローゼットの棚には、山で、小さな老人にわたした織ったばかりの布が、畳んで置いてあった。ベッドの側の扉を開けると、浴室につながる最新式の化粧洗面台の部屋になる。

「この部屋を使ってちょうだい」

 絵留伽留はちょっと自慢げに言う。

「この部屋はあたしと誰が使うの」

「あなただけ。あなたが誰かを招き入れるのはもちろん自由だけれど」

「でもこのワインは?」

「あなたが飲める頃に、ちょうど良い時期をむかえるわ」

ベッドの向こう側に大きな窓がある。遙か向こうに海が見える。レマは先ほど、ヘリコプターから初めて海を見た。これから海が見えるところで生活することになる。

絵留伽留は海を見ている。夕映えが海を照らし、キラキラと光っている。レマは絵絵留伽留の横顔を見つめている。

「絵留伽留。あなたとても綺麗ね」

「わたしはあなたにいくつも負けているわ。レマ、あなたが先に行くことになるの。今はわたしの方が分かっているけれど、やがてあなたに従うことになる」

ガラスの向こうに陽が落ちていくの見える。波が高くなったようだ。一階のバーに客が入り始め、騒がしくなった音が微かに届く。

 絵留伽留がレマに向き直る。

「マヤ婆が亡くなったわ。だから、言われたとおりあなたは山にいくことになる」

「マヤ婆を知っているの?」

「ええ」

絵留伽留の話を、過去に船を漕ぎ出すように揺れて、しかし辿り着く岬をしっかり見据えて聞いていく。

 マヤ婆がレマと母親の前に現れた日、マヤ婆から聞いた話は、レマの時の先に記憶された。

 母が死んだ日、レマが眠りに入った後、絵留伽留が馬小屋にやって来てマヤ婆と話した。母の容態が悪化し、母から自分の死後の処置を依頼された。

 母が死に、マヤ婆は山に戻り、絵留伽留は母に言われたとおり、宮本春男に後を頼み、平地に帰った。

ー マヤ婆が死んだ ー

 レマは時の先に記憶されたところに辿り着く。両手を差し伸べて、その記憶を掴み、自分のところに引き寄せる。

ー ナジのところに行く。マヤ婆が話していたわたしの生け贄のところに ー











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