第4話④
平地の民であったレマは、目鼻立ちの整った女の子に成長していた。しかし自分の父親を襲い食い散らかした狼を、母親と一緒に焼いて食べたことはすぐに村人の知ることとなった。以前にも増して村人の視線が白々として、話し掛けられることもなくなり、声を掛けることもできなくなった。村人の語りのざわめきが、木々の葉の擦れ合う中から聞こえてくる。
ー 女どもといっても平地の民のすることはやはり恐ろしい。近づかないこったよ。近づけば罰当たりの祟りがこちらにも張り付いてくる ー
集落のはずれに住んでいたレマと母親は、マヤ婆の住んでいた馬小屋の家にひっそりと移った。
しかし山の民の中にも、この家族に同情するものもいた。
『狼食わなければ、レマは死んでたよ。マヤ婆は食えと言ったんだ』
『でもさ、マヤ婆も平地から来た人だよ』
『マヤ婆は俺たち救ったんだよ。マヤ婆は平地の民でも別人だ。それに…』
『それになんだよ』
『マヤ婆は自分を捨てた。山の民の掟でも一番難しことだよ。二十歳の成人の儀よりも難しい』
『マヤ婆は死んだのか』
『生き仏になった。山の民は人生の最後に一番難しいことをしなけりゃならない』
『おまえはするのか』
『・・・・・・』
『おまえは』
『・・・・・・』
『おれはレマを山の民にしなければならないと思っている』
『可愛いからな』
『山の民は暖かい人のはずだよ』
『平地の民は残酷だよ』
レマの母親はマヤ婆が耕していた畑の脇に楮の木を植え、冬になると3メートルにも成長した木を根本から刈り取って、蒸して皮を剥ぎ、その皮で糸を紡ぎ平地から登ってくるときに持ってきた、小型の機織り機で器用に布を織った。草木染めしたその布で、村人から食料を分けて貰う。レマも母親のすることを物心付く頃から、大人しく見つめていた。五歳になると皮から糸を紡ぐことを器用におこなうことが出来るようになり、六歳になると、すでに一人で布を織ることが出来るようになっていた。
季節は晩秋になり、ベージュ色に染まった木漏れ日がレマと母親の住む馬小屋の家にそそいでいる。小川のせせらぎに針の先に灯るような光が戯れはじめた頃から、母は体の芯に小さな異常が生まれたのを感じ取った。それはやがて自分の体を大きく蝕んでいくことを悟っていた。しかしレマにはそのことを黙っていた。レマにとって母親は当然存在し続ける力強い岩だった。
木枯らしの吹きすさむなか、母は急激に痩せていった。しかしレマにはその変化を見ることができなかった。岩だから変わるはずはないという思いこみがレマの目と心にブルーのフィルターを付けた。村人がレマに「母さん急に痩せたね。どこか悪いんじゃないのか」と言っても、レマは微笑みながら「そんなことないわ、寒さに弱いから少し体調を崩しただけ。とても元気よ」と応えた。
冬の陽射が少しずつ衰え、弱光が地に沈んでいく中で暗雲が押し寄せ嵐がやってくる。激しく屋根をたたき、馬小屋の家のあちらこちらから雨漏りがして、それを受ける金だらいや空き缶が激しく怒鳴るように音をたてる。
レマは身を縮め、囲炉裏に薪を置き、燐寸で点す小さな火を昨夜の薪の燃え滓で大切に育て、やっとそこに生の炎を見いだせるほどの赤と青の光が灯り、火花が爆ぜる。
その炎の上に天井から吊された自在鍵に薬缶を掛け湯を沸かす。
二つの茶碗に母が作った葛粉とわずかの砂糖を入れ湯を入れる。その一つを母の前に置く。
寒い夜の冷えた身体に葛湯は何よりのご馳走だとレマは思う。
母が茶碗を持ち口に運ぶ、その口の手前で茶碗を落とす。茶碗は囲炉裏の縁を転がる。葛湯はまるで滝ののように囲炉裏の縁から囲炉裏の灰の中に流れ落ちていく。レマは何も考えることが出来なくなり、その滝を眺めている。その滝にブルーのフィルターが落ちる。色に満ちあふれていた燃え上がる薪の炎が反転して灰色の風景に変わる。快活な母のところに、干からびたミイラのようになった母が座っている。レマは無限に静まりかえる。
「母さん」
母は、寒さに縮んだ薄皮を骨に被せた小枝のような腕を屈んで囲炉裏の縁に載せる。その腕をやっと振らしながら、溢れた葛湯を拭き取ろうとする。
レマは慌てて、土間から雑巾を持ってくると、床を拭く。
「母さん。いつからそんなに具合悪かったの」
レマは大粒の涙を、拭いた矢先の床に落としながら、絞り出すように言う。
「レマ。ちょっと横になりたいの。悪いけれど布団を引いて」
レマは、部屋の隅に畳んで置いてある布団のところ飛んでいき、布団の縁を力一杯握りしめ、そのまま引っ張って引く。母親の体を支えるようにして、今引いた布団の上に、すっかりやつれた母を横たえる。しかし母がどんなにやつれても、母が居なくなることは思いも寄らなかった。先ほどから嵐は治まり雨音も聞こえなくなっていた。レマの耳の横で静まりかえった爆音が鳴り響き、その音の渦の中にレマを巻き込んでいく。
冷たい水で顔を洗い口をゆすぎ気持ちを落ち着かせるように必死に踏みこたえる。母が縫ってくれた褞袍を身につけると、母が横たわっているすぐ横の床に、両手を頭の後ろで組むと仰向けに寝る。
「レマ」
自分の身体の芯のところから声が聞こえる。自分の身体の中に母が居る。
「明日、楮の木を刈り取ってきてちょうだい。いつもの年より少し早いけど、今年は充分な高さに育っているから、もういいの」
レマは大きな声で返事をしたと思う。しかし恐ろしく強い力の睡魔が襲いかかり、強引に生と死の狭間の世界に引っ張り込まれていった。
二歳のレマはマヤ婆のことをしっかりと目に焼き付けていた。マヤ婆が山に最後に入るとき、飢えで死に瀕していたレマの耳元で、
「おまえが必要とされるのはまだ先のこと。生き続けていけ」と、蚕が桑の葉をかさかさと食べるように言った声を、覚えていた。
しかし、母はおまえはマヤ婆にはあったことはなかったと言った。きっとマヤ婆は母の居ないときレマの所に来たのだとレマは思っている。
馬小屋の家の棚に無造作にマヤ婆が残していった本は星と魚と船について語られていた。母は四歳のレマを、その本を読み聞かせながら言葉を文字を教えはじめた。母のその語り口は、マヤ婆の語り口をなぞっているのだとレマは感じていた。
朝の冷たい空気を小雨が濡らし、軒先から雨水がポタリポタリと落ち、家の回りの水溜まりをさらに大きく広げていた。
レマは褞袍の中で縮かんだ身体を両足を踏ん張り大きな伸びをする。息が白い。顔がピリピリと痛い。
首を母の方に向ける。やはり夢ではなかった。痩せ細った母が、横たわっている。瞳が乾いてしまっているのではないかと思えるほど目を見開き。焦点の定まらないまま天井を見据えて、自分に言いかせるように口をわずかに動かすだけで話し始めた。
「レマ、朝のうちに楮の木を取ってきておくれ」
昨日までは、レマが目を覚ますときには、母は台所に立ち、朝餉の準備をしていた。竈に掛けられている鉄釜からは白い湯気が出ていて、わずかな玄米をじっくりと炊いて粥を作っていた。
母は雨が降っていることを分かっているのだろうか。六歳のレマは涙を堪えながら、「はい」と言い、服を着替え、簑を着て編み笠をかぶると、鎌と紐を籠に入れ、それを背負い、長靴を履いて外に出た。
畑に着くと、邪魔な簑と編み笠を脱ぐ。簑を畳みその上に編み笠を重ね畑の隅に置く。早速切り出しに入る。小雨は霧雨に変わっていたが、すぐにレマの髪と身体はぐっしょりと濡れる。髪から垂れ落ちてくる雨の滴を拭いながら楮の木を根本から刈っていく。一抱えほど刈ると、紐で束ね脇に積み重ねていく。幼さいレマの身体が火照ってくる。無心で作業を続ける。霧雨もやみ晴れ間が雲の間からのぞき始めるころ、粗方の楮を刈り取ることが出来た。
楮の束を一つずつ肩に背負い、家の横の庇のある薪を積んであるところまで運んでいく。最初の一束を置いたとき、ちょっと家に入ろうかと思ったけれど、きっと座ったらもう動くのが辛くなってしまうだろうし、やせ細った母さんに「終わったのか」と聞かれることもさらに辛いと思って、最後まで仕事を続けることにする。最後の一束を運び込んだときには、髪も服も乾いてしまっていた。
最後に雨に濡れないようにと、大きな糯の木の下に置いておいた簑と編み笠を取りに戻る。
すっかり空は高く晴れ上がり、山のつめたい空気が気持ちよく汗の滲んだレマの頬を撫でていく。黐の木の下に腰掛けて、母さんに飲ませる良い薬はないものか。誰か相談にのってもらえる人はいないだろうかと思う。これまでレマと母さんは人に頼らず一切合切をやってきた。
レマはまたマヤ婆のことを考えていた。
汗も引いて身体が冷えてきた。レマは簑を着て、編み笠を右手で持つと家に向かい始めた。道はぬかるんでいたが、木々の間から冬鳥の甲高い鳴き声が聞こえる。突き抜けるような青空がきっと何とかなると思わせてくれる。
レマは家の前に立つ。なんだか家が白く光っているように見える。家の壁に染みこんだ水が凍って、小さな氷の破片になり、それが光っている。
引き戸を開け、土間に入る。
明るい。
奥から笑い声が聞こえる。誰かが来ている。母さんが笑っている。治ったんだ。前以上に元気になっている。
レマは頬をつねった。痛い。夢じゃない。今までが夢を見ていたのかもしれない。でももう一度つねれない。夢から覚めてしまうように危うい間に立っている。ような気がする。
「母さん。終わったよ。全部!全部!やったよ」
レマは自分の気持ちを奮い立たせるために叫ぶように言う。
飛び込むように部屋に上がる。囲炉裏の向こうに、すっかり元気になって、とてもきれいになった母が座っている。そしてこちらに背をむけて誰かが座っている。その背中をレマは見つめる。
まさか。でも。マヤ婆は生きていた。
レマは母の隣に正座をして座る。自分の前に居るマヤ婆の顔がとても懐かしくて涙が出てくる。レマは何も考えないまま言葉が出てくる。
「マヤ婆。生きていたの?」
母が困った顔でレマを見る。マヤ婆は笑みを浮かべそれから真剣な顔に変わる。
「レマ。生きていた。生きていなければならなかった。これからもしばらくは生きていなければならない。レマ。おまえに大切な仕事がある」
マヤ婆は山の生活について語った。レマがマヤ婆からもっと詳しく山の話を聞こうとすると母がそれを止めた。
マヤ婆は誰かと暮らしている。それは山の獣ではなく、どうも男の子らしい。レマよりも四つ年上の男の子。やがてレマはその男の子に会いに行くことになるらしい。マヤ婆の顔はグルグルと変わる。怒ったかと思うと、まるで天使のようにやさしい顔になる。
マヤ婆は厳しい顔になり、その男の子が間もなく一人で生活するようになると言った。母は真剣に聞いている。その真剣な眼差しをレマになぞるように向ける。
マヤ婆はレマのために置いていったテキストのすすみ具合を母に確認する。母はレマの日課を褒める。マヤ婆は大きくうなずく。
レマはたくさんご馳走を食べる。マヤ婆からたくさん不思議な話を聞き、記憶に留める。母の柔らかな視線を感じながら、芯から安らぎ感じ、やがて瞼が重たくなってくる。
母とマヤ婆の話し声が遠くに離れていき、レマはぐっすりと眠りに着く。
レマの母が死んだ。冬の朝、昨夜からの囲炉裏の火がまだ消えないまま小さくともっている。外はうっすらと雪が積もっている。
村人が蟻のようにレマの家に出入りし、竈で湯を沸かし、茶を飲み、薪を担ぎどこかに走り出していく。
レマは寝起きの情景を空気が揺らめいて、蜃気楼の世界のように眺めている。
「みんなどうしたの。母さんは」
宮本春男がレマの方を向く。五十も半ばを過ぎるこの男は、レマと母親に何かと手を差し伸べてきた。この家族が馬小屋の家に住むときも、白い目で見る村人が居る中で、何人かの男達と、背中から冷たい目で見られることも躊躇わずに手伝った。
「母ちゃんが死んだ。明け方母ちゃんの面倒を看てた女の人がおれのところに来て、馬小屋の家に来てくれって言われて来たんだよ」
さっきまで、あんなに元気になっていた母さん死んだ。そんなことは嘘だ。レマは泣くよりも、不信の目を宮本春男に向ける。
「おれはその女の人と、ここに駆けつけると、母ちゃんは今にも死にそうにしていて、レマが起きる前に荼毘に付してくださいっておれに言ったんだよ。その後すぐに息が切れた」
宮本春男は、横にいた女の人に言われるまま仲間を集めた。それはレマの父親と気心があった仲間だった。そのうちの二人がオオカミに食われて死んだ。宮本春男は四人の男を集め事情を説明し、母親を荼毘に付した。
レマは眠りからすっかり覚める。隣にやせ細った母さんが寝ていた布団があり、その布団に母さんがいない。やっとこれは嘘ではない本当のことだと思い始めた。死ぬはずのない、消えるはずのない母さんが死んだ。
「荼毘に付す場所にレマをこさせないようにというのも母ちゃんの遺言だよ。今なら外に出れば、母ちゃんの白い煙が見えるよ」
レマは宮本春男とそっと扉を開け外に出る。晴れ渡った冬の空に一条の真っ白い煙が上っていく。レマの頬に大粒の涙がとめどなく流れ落ちる。
レマは座り込み、両膝に顔を埋める。宮本春男も同じように横に座る。
レマが膝に顔を埋めたまま話す。
「それでマヤ婆は。マヤ婆はどこに居るの」
宮本春男はもちろんマヤ婆を知っている。
「マヤ婆って?何年も前に山に行ってしまったじゃないか」
レマは顔を上げ宮本春男を見る。
「だって母さんのこと言いに、マヤ婆が来たんでしょう?」
宮本春男はレマが悲しみのあまり気が変になったのかと心配になる。レマの目を見る。
「この辺では見掛けない人だ。雪がちらついているのに胸の大きく開いた毛皮のコートを着て、短いスカートをはいてたよ。その上厚化粧だから、どう見ても平地のあばずれ女だ」
宮本春男の妻は、平地の人間を毛嫌いしている。それは平地の民から搾取され続けてきた山の民の大方の考えになる。だから馬小屋の家に夫が出向くことにいい顔をしない。ましてや平地の若い女がこんな山奥で目一杯の化粧をして現れたとなれば、絶対に行くなと夫に凄んだ。それでも宮本春男は出掛けた。それはその女の顔が、姿から計り知れないほどの真顔だったからだ。
「その女の人誰?」レマが聞く。
「おれも今そのことをレマに聞こうと思っていたところだよ」
レマは昨日マヤ婆が来てたこと。母さんが元気になったことを話した。
宮本春男はレマが今は気が動転していて、自分でも訳のわからないことを話しているのだと了解した。
ー 今はそっとして頷いてやることにしよう ー
それにしても、こんな子供が一人で山で生きていくことができるのだろうか。家で引き取ってやりたいが、妻がうんとは言わないだろう。
レマは立ち上がると、座り続けている宮本春男に言った。
「わたしは大丈夫。生きていけるわ」
レマはさっさと家に入ってしまう。宮本春男はどうしたもんだろうというように眉間に皺を寄せると家に向かった。
二日後、宮本春男は母の遺灰をもって、レマを訪れると、幼さの残るレマが機織り機に向かって楮の皮を縒った糸で布を織っていた。
「その布をどうするんだ。おれが村の衆に売ってやるか」
悲しみの畔を一人で歩いているレマが少しやつれた表情で振り向くと「おじさんありがとう。でも大丈夫なの。この間おじさんのところに行った、女の人が来て、わたしの織った布を全部買い取ってくれることになったの」と、言った。
囲炉裏の横には山では見掛けない食料や本が置いてある。宮本春男はそれらを横目で見ながら、レマに聞く。
「それで女の人が誰だか分かったのか」
レマは機織り機の手を休めて、宮本春男の方を向く。
「絵留伽留さんって言うの。とてもよく笑って不思議な人」
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