誰かと焼くお煎餅の楽しさを、僕はまだ知らない

秋田川緑

誰かと焼くお煎餅の楽しさを、僕はまだ知らない

 おせんべいの手焼きを体験した人間はどれくらいいるのだろうか。

 世界の総人口から見たら、そんなにいないのかもしれない。

 でも、僕はある。

 なんと、僕が住んでいる草加市にある某煎餅屋さんでは、予約なしで煎餅の手焼き体験をさせてもらえるのだ。

 最寄り駅は新田駅。東武伊勢崎線、準急の電車が止まる草加駅より下りで二駅、松尾芭蕉が歩いたという松並木『日光街道』がある松原団地駅から下りで一駅の場所である。

 新田駅にカラオケ屋さんがあると言うのはいまだかつて聞いたこともないけれど、お刺身がすごくおいしい鮮魚コーナーがあるイトーヨーカドーはある。

 すぐ近くにバイトをしながら通ったスパゲティ屋さんもあるし、なんと言っても生まれ育った街なので、僕にとってはすごく愛着がある街だ。

 何よりも手焼き体験の出来る煎餅屋さんもある。

 そんなわけで、この街以外の場所で暮らしたことの無い僕だったけれど、なんと言ってもこの街で一番楽しい場所は手焼き体験の出来るそのお店だった。

 草加市にお煎餅屋さんは数あれど……いや、ほんとに多いし、近所にぱっと思い浮かぶだけで4軒もあるけれど、その中でもそのお店は特別なのだ。

 手焼き体験が出来るので。

 話は変わるのだけれど、生まれて初めてお付き合いした女の子とデートの話になって、夢だった遊園地デートに誘ったけれど、「その遊園地は昔付き合ってた元彼と行ったからヤダ」と言われた。

「あの、どうしてもだめ?」

「無理」

 落ち込んでこっそり泣いたけれど、その後、牧場に行って牛が大きくて可愛かったので楽しかった。

 それで、ここからが本題なのだけれど、次のデートに誘おうとした場所が煎餅の手焼き体験のお店だったのである。

 隣県とは言え、プチ遠距離だったので地元に呼びたかったし、何よりも誰かと焼くお煎餅の楽しさを、一緒に体験したかったのだ。

「へへへ、お嬢さん。お煎餅、一緒に焼かないかい?」

「……」

「敷地内に、せんべいカフェと言うものがあって、煎餅ソフトクリームと言う、世にも珍しいアイスが売っているんだ」

「あのさぁ……」

 こうして、僕は「どうしてもときめかない。恋人として見れないので別れよう」と言う言葉を頂き、別れることになった。

 あ、もちろん、煎餅だけが理由ではなく、性格の不一致とか、僕のだらしなさとか、若気の至りでやった馬鹿なこととか、いろいろ理由はあるのだけれど。

 クリスマス会でサンタの格好に扮して子供たちにサバの味噌煮の缶詰を配って賑やかな楽しい夜をサイレントナイトにした挙句、実妹に会場で正座されて説教を食らうこともあった僕だけれど、正直、今回ばかりはとても辛かった。

 ふと思い出す。

 遠方に住む祖母と一緒に、あのお店でお煎餅を焼いた時の思い出を。

『うまく焼けたね』

『でも、ちょっと焦げたかも』

『おいしいよ』

 パリ。ポリポリ。

 おばあちゃん。もう、僕はあの時のように、上手くお煎餅を焼くことも出来ない。

 上手く焼けたと言ってくれる人もいない。

 一緒に焼いてくれる人も。

 そんな悲しみの時代を経験し、数年後。

 たかだか千数百回、朝と夜がバトンタッチしただけで、僕の心はすっかり元気になっていた。

 僕は相変わらず一人で、誰かとお煎餅を焼くことに思いを馳せている。

 せめて、僕が軟派なボーイなら、こんな寂しい思いをしなくても良かったのかもしれないけれど、あいにく僕はシャイボーイで、女の子と心の底から真面目に話をすることも出来ない。

 しかも、そろそろボーイではなくオジサンになろうとしている。

 だがしかし、軟派になったとして、僕がもてるとはどうしても思えないので救いはないのだ。

「へへへ、そこのお嬢さん。僕と一緒に、お煎餅を焼かないかい?」

 事案である。軟派と言うよりも難破である。

 ここはやはり硬派で行くべきだ。

「そこ行く婦女子。俺と一緒に煎餅を焼くぞ」

 やはり事案である。

 ……こんなことを悶々と考えながら日々を過ごしていたが、奇跡は起きるものだ。

「始めまして。どうぞよろしくお願いします」

 会社の新入社員である。

 実に優しそうな声、物腰。

 少しぽっちゃりとしていたけれど、笑顔がとっても素敵で、一目で好きになった。

 ああ、こんな子とお煎餅を焼けたら、きっと楽しいだろうな。

 そう思っていたら、自然と言葉は口に出ていたらしい。

「や、やややや、焼きませんか?」

「え?」

 ごめん、うそ! 自然とと言ったけど、不自然さ丸出し!

 過去のトラウマが邪魔して、僕の全身の筋肉と言う筋肉を強張らせてしまっていたのだ。たぶん、そう。

「焼く? ふふ、焼きますよ? 実は今日、持ってきてるんです? 先輩、ひとつ、どうですか?」

 彼女はそういってかばんから包みを取り出すとフワッとした香りとともにそれを取り出した。

「な、なんでクッキーなんですか!?」

「え?」

「あ、いや、ごめん」

 戸惑う彼女。当然である。今、僕は不審人物と化している。会社の警備員を呼ばれてつまみ出されても不思議ではない。

「クッキー、お嫌いですか?」

「ううん、好きです」

「そしたらどうぞ」

 ひとつもらう。

 甘くて、サクッとして美味しかった。

「美味しいよ。すごく」

「良かった」

 朗らかに笑う彼女を見て、決めた。今度こそ、失敗しないで誘おう。

 この子とお煎餅を、とても焼きたいのだ。

 僕は勇気を出して、言った。


「へ、へへ、お嬢さん。良かったら僕と一緒に、お煎餅を焼きませんか?」


『誰かと焼くお煎餅の楽しさを、僕はまだ知らない』<了>

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