第2話 サンゴの町の物語

 長崎県の五島列島にある福江島。昔ここに、富江町という小さな町があった。私の故郷だ。海抜が低い半島の町で、西側の海岸は黒い岩場が続いている。中でも、ここ、天保(アマヤス)の黒岩は絶好の釣り場だった。小中学生の頃、父とこの黒岩に魚釣りに来た。冬場はメジナ、夏場の夕方以降には良型のアジが釣れた。太陽が没した後は満天の星空が広がり、その下には電気浮きの灯りが二つ、波間に見え隠れする。電気浮がすっと海中に引き込まれる度に心臓の高鳴りを覚える。釣った魚は家に持ち帰り、その日の夕食になった。


 釣り場の近くの海岸は生き物の宝庫だった。同級生の秀一とひとみと私の三人は、放課後にこの海岸で夕方遅くまで遊んでいた。引き潮時に潮だまりの小さい岩を一つひっくり返すと、小さな磯ガニがたくさん飛び出してくる。岩の裏側にはヤドカリや貝がびっしりと張りついている。大きな潮だまりにはエビや小魚が取り残され、みんなで大騒ぎしながら捕まえた。


 海岸の沖合には津多羅島が横たわっている。さらにそのはるか彼方の海の底には、昔サンゴの曽根があり、富江町はサンゴの町と呼ばれていた。秀一の父はサンゴ職人で工芸品を作っていた。しかし、乱獲と密漁で富江のサンゴは枯渇し、残ったサンゴで細々と技術を継承していた。


(明日はどこに行って何をしようかな?)


 毎日やることを考えることが大変なほどにゆったりとした時間に身を任せていると、いつの間にか長い時間が流れ過ぎていることに愕然としてしまう。島の生活の最後の一年は、中学三年生の日々。町に残る者と去る者が共に過ごす何とも言えない一年。私は、町を去って海の彼方の長崎市に行く。海上保安官になって、東シナ海のサンゴを密漁から守りたいと思っていた。


 だが島を去る前に、どうしてもやりたいことがあった。ひとみに、自分の思いを伝えること。ひとみは島の高校に進学する。何もできないまま三学期になるとさすがに焦ってくる。


 ある日、秀一の家に遊びに行って、小さな丸い真紅のサンゴの首飾りを見つけた。サンゴの中でも貴重と言われる血赤サンゴだ。秀一は、何も言わずに私に譲ってくれた。


 三月は別れの季節。福江港では、毎日のように長崎行きのフェリー乗り場で島を去る人の見送りがある。あの日、私は、フェリーの甲板で秀一と並んで立っていた。浮桟橋には、見送りの友人達。その中にひとみの姿もあった。甲板と桟橋の人は、紙テープで繋がっている。ホタルの光のメロディーの中、フェリーが岸を離れると、紙テープはシュルシュルと伸びていき、ふっと尽きる。その後は、お互い千切れるほどに手を振りながら、少しずつ少しずつ離れていく。ひとみが何かを叫んでいる。必死に耳を澄ませたが、その声は汽笛にかき消されてついに届かなかった。


 すべてが終わった後、雑魚寝の二等船室で秀一が話しかけてきた。


「血赤サンゴは、ちゃんとひとみに渡せたとね?」


「当たり前たい…。さっきひとみがお礼ば叫んじょったやろが?」


「…いや、そうは聞こえんかったけど…」


 秀一とは長崎の港で別れたまま会う機会はなく、やがて消息も分からなくなった。申し訳ないことに、実は私はついに血赤サンゴをひとみに手渡すことができなかったのだ。島を去る前日、名前を書いた封筒にサンゴを入れて、ひとみの家のポストに投函した。


「血赤サンゴ、きっと似合うと思う。さようなら、また会う日まで」


 同封した手紙にこう書くのが精一杯だった。

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