夏の終わりの準備

渡辺安房

夏の終わりの準備 



「すみません……」

 田中が片付ける手を止め、声のする方に振り向くと、若い男女が立っていた。高校生か大学生といった感じの男女だった。

「何でしょう?」

「お店やってますか?」男が言った。

 田中は店内を見回す。片付け途中の段ボール箱があちこちに積上がっている。

「ご覧の通り、もう今シーズンの営業は終わっちゃったんですよ」

 青年は現実が受け入れらないといった風にその言葉の意味を考えていた。何度も噛んで、ひとつずつ言葉の意味を咀嚼しようとしていた。田中は青年が理解するのを辛抱強く待った。

「ええと、他にこの海岸でご飯食べられるお店ってありますか?」

 青年はジェスチャーを交えてそう言った。予想外の状況に頭がついていけないのを体で補っているように田中には思えた。

「ええ、だから……。町が決めた海の家の営業期間ってのがあってね、昨日が最終日だったから、もうどこのお店も営業してないんだ」

「……」

 青年は、自分の体に言葉が沁み込むのを待った。その間、餌を待つ猫のように一点を見つめて動かなかった。そして急に何かを思い出したように困った表情で女の子の方を見た。女の子は怒ってはいなかったものの、さして気分がよくもないといった表情で黙っていた。青年が謝ると、女の子は、大丈夫だよ、と優しく彼を慰めた。

 そのような光景を前に田中はどうしたものかと、他の従業員たちの方を見て少しおどけた苦笑いを作って見せた。

「すみません……」

「なに?」

「これ買えませんか?」

 青年がジュースの入った水冷式冷蔵庫とその隣の菓子棚を指差した。

「うーん、売ってあげたいのはやまやまなんだけど、町の決まりで売れないんだ。ごめんね」

「どうしてもダメですか? 少しでいいんです。お願いします! お兄さん!」青年が拝むように手を合わせた。

 田中は青年の調子のよさに少し呆れつつも、嫌いにはなれなかった。お兄さんと言われたのも悪い気はしない。

「うーん、そうだなあ……」

「田中さん、ちょっといいですか?」

 店の奥から高橋が手招きをした。

「ダメですよ、売っちゃ! 前にジュース売ったのバレて役場から怒られたじゃないですか!」

「そうだっけ?」

「そうですよ! 二度目はまずいっす! 可哀想なのは分かりますけど、ここは心を鬼にして下さい!」

 田中は二人の元に戻ると、気まずさを隠すため、少し大げさにジェスチャーを交えて言った。

「ごめん……。結構、役場が厳しくてさ、売れないんだ……」

 青年はとても残念がったが、すぐに諦めて気を取り直して聞いた。

「近くにコンビニとか食堂とかありませんか?」

 田中は近くのコンビにまでの道を教えた。二十分くらいかかると聞いて彼はちょっと遠いなあ、という表情をしたが、無いよりはいいと思ったようで、丁寧に礼を言って去って行った。彼は再び彼女に「ごめんね、申し訳ない。失敗したなあ……」などと懸命に謝り、彼女は「そんなことないよ、全然大丈夫だよ」と呟くように慰めた。

 田中は去り行く二人の後ろ姿をいつまでも見ていた。「せっかく彼女と来るなら、もう少し調べてくればいいのによ……」そのようなことをつぶやきながらも、どこか嬉しそうだった。

 勢いを失いつつある太陽の下、数日前に発生した今年十一個目の台風からの波と風とが夏を押しやろうとがんばっていた。それらを避けながらも楽しそうに戯れて歩く二人の姿は輝いて見えた。理由を考えてみたが、田中にはそれらしき答えが見つけられなかった。

「田中さん、いつまでも見てないで、手を動かしてくださいよ!」

 高橋の声に田中は仕事に戻ったが、まだ二人が気になるようだった。

「なあ、どう思うあの二人?」

「どうって?」

「ああいう無計画な男は見捨てられたりしないわけ?」

「どうなんですかね? いいところだってあるから付き合っているんだろうし、俺にはよくわからないですね。頼りないところが逆に母性本能をくすぐるという場合もあるかもしれませんよ?」

「そういうもんかね?」

「強いだけじゃダメなんです。優しいだけでもダメなんです」

「広告のコピーみたいだな」

「ですね……」

「女心と猫の機嫌は永遠の謎である」

「うまいこと言いますね」

「だろ?」

 田中と高橋は再び店の外を見た。二人は本格的に波と戯れていて、大波が二人の服を濡らした。それでも二人は楽しそうだった。

「結構楽しそうじゃないですか。数年後には、腹を空かせたのもいい思い出ですよ、きっと」

「だな」

「いい時期です」

「忘れたな、もう」

「自分はまだギリギリ覚えてます」

「直に忘れるぜ」

 打ち寄せる波の彼方の富士山に向かってサーファーたちが行く。波打ち際で、元気のいい子供たちが恐れ知らずに波に突っ込んだり戻ったりを繰り返している。先ほどのカップルは遊び疲れたのか、砂浜の上の方に座って海を眺めている。空腹のことなど忘れてしまったように。人影のまばらな海岸はどこか世界の果てのように見えた。


 満潮時刻が近づくと、時折、店のすぐ下まで海水が押し寄せて来た。

「今日はちょっとやばいな……。なるべく荷物を運び出した方がいいな」田中は荷物の方に目をやる。

「最後くらいゆっくりやりたかったですね」高橋が言った。

「そうだな」

「俺、好きなんですよ片付けるの」

「どうして?」

「夏が終わる心の準備が必要なんです」

「心の準備ね。そうかもしれないな」

「でも、今年みたいに急いでやったら、その準備が出来ないじゃないですか?」

 田中は小さく頷く。

「田中さん、来年はどうするんですか?」

「さあな……。分からんよ、来年のことなんて。高橋は?」

「自分も分からないです」

 田中が高橋の表情を見る。

「今度、一緒に釣りでもするか?」

「釣りですか?」


 青空の下、僅かにさざ波立つ静かな海に青いボートが一艘浮かんでいる。田中と高橋が中に寝転んで目を閉じている。爽やかな風が吹き、二人の髪を揺らす。竿先が揺れ、鈴の音が辺りに小さく響く。しかし二人の目は閉じたままだ。


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夏の終わりの準備 渡辺安房 @magokoro_k

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