五十二ヘルツの鯨

ナカタサキ

五十二ヘルツの鯨

 五十二ヘルツの鯨は、正体不明の鯨の個体である。 

 その個体は非常に珍しい五十二ヘルツの周波数で鳴く。

 この鯨ともっとも似た回遊パターンをもつシロナガスクジラやナガスクジラとも似ておらず、五十二ヘルツの鯨はずっと高周波数で短く、より頻繁に鳴く。

  おそらくこの周波数で鳴く世界で唯一の個体であり、その鳴き声は一九八〇年代からさまざまな場所で定期的に検出されているが、その独特に呼び声に類するものは他にはなく、その源はたった一頭である。

 それ故、この個体は『世界でもっとも孤独な鯨』と呼ばれている。

 


 

 

 日差しは暖かくなってきたが風はまだ冷たい。春休みの校舎は閑散としていて、廊下には遠くから楽器の音色だけが響いている。吹奏楽部が練習しているのだろう。

 私は吹奏楽部員と出会わないように足早に『世界一安全なバショ』に向かった。


 「朱莉ちゃん春休みの課題終わった?」

 「……終わった」

 私は本から目を離さず適当に返事をする。

 「偉いね! 後で写させてよ」

 「……無理」

 「えー、いじわるーケチー」

 「……ケチじゃない」

 「そうそう朱莉ちゃん、吹奏楽部の五十嵐とサッカー部の苑田が付き合ってるの知ってた?」

 「……知らない」

 「私苑田君のことほんのちょっといいなって思ってたからさ、ちょっとショックで……」

 「……ねえ、何で倉敷さんがここにいるの?」

 私は読書を諦めて本にしおりを挟むと、さっきから目の前でどうでもいい事をやかましく話しかけてくる倉敷理瀬を睨みつけた。倉敷理瀬は一瞬、キョトンとこちらを見たがすぐにお人形のような顔をほころばせてクスクス笑った。

 「倉敷さんって距離感じるからさ、そろそろ理瀬って呼んでよ~」

 「……倉敷さんは何でここにいるんですか」

 「何でだと思う?」

 倉敷理瀬はまたもクスクス笑いながら穏やかな瞳で私を見る。私は倉敷理瀬が苦手だ。

 学校の図書室は私にとって『世界一安全なバショ』だったのに、最近その安全性は倉敷理瀬によって脅かされている。忌々しき事態だ。

 

 

 倉敷理瀬は夏休み明けの始業式に、私のクラスにやってきた。

 茹だるような暑さの体育館で始業式という儀式を終えて、やっと教室に戻ってこられた私は窓側一番後ろの席に座りグラウンドを眺めていた。いつもは体育や部活動で賑やかだが、儀式の後で誰もいないグラウンドは日差しで焼けてつむじ風が渦巻いている。

 「みんな席につけー、ホームルームを始めるぞ」

 担任の山岸がようやく来た。一学期に起きたある事件のせいで、教室は私にとって安全な場所ではなくなってしまった。

 このホームルームが終われば私はいつも通り『世界一安全なバショ』に行く。グラウンドを横目で見ながら、ハヤクオワレハヤクオワレと呪文のように心の中で唱える。

 「ホームルームの前に、今日からうちのクラスに転入生がはいります。倉敷、はいってくれ」

 山岸の合図で転入生が教卓の横にたつ。転入生の風貌にクラス中が色めきだった。

 黒板に山岸が大きく「倉敷理瀬」と書く。

 「父の仕事の都合で大田区からきました。倉敷理瀬です。よろしくお願いします」

 転入生は黒髪を肩のあたりで揃えていて、手足は細長く色白で、お人形のような可愛らしい顔立ちをしていて、物怖じせず堂々と自己紹介をする転入生は、私とは住む世界が違う人に見えた。

 クラス中がお人形のような転入生に釘付けだった。でも私には関係ない。ハヤクオワレハヤクオワレ。

 私には関係なかったはずなのに、倉敷理瀬は空席だった私の隣に座ることになった。

 「木下さん、だよね。これからよろしくね!」

 「……よろしく」

 にこりと笑う倉敷理瀬がすごく眩しかったのが忘れられない。

 倉敷理瀬はそれからすぐクラスに溶け込んだ。可愛らしいルックスと明るく気さくな性格で、私とは正反対タイプで完璧な女の子にみえた。

 

 

 「ねえ、朱莉ちゃん。五十二ヘルツの鯨って知っている?」

 「……知らない」

 春休みの図書室、今日もまた倉敷理瀬は私の読書の妨害をしてくる。人のことは言えないが、春休みなのに頻繁に学校に通ってるなんておかしな奴だ。

 「五十二ヘルツの周波数で鳴く一頭の鯨なんだけど、他のどの種類の鯨も五十二ヘルツでは鳴かないし、その周波数は聞き取れないの。しかも五十二ヘルツで鳴く鯨の個体はその一頭しか見つかってなくて。だから『世界でもっとも孤独な鯨』って呼ばれているんだって」

 「……へえ」

 私はいつも通り適当な相槌をうつ。

 「私ね、その鯨の気持ちちょっとわかるかもって思ったんだ……私の声も誰にも聴こえてないもの」

 倉敷理瀬から発する空気がいつもと違うことに気づいた。ドキリとしながらも私は本から視線を外せない。

 「……そうなんだ」

 「……朱莉ちゃんって、私のこと嫌い?」

 「……」

 身体が冷や水を浴びたかのように一気に冷たくなった。私は、倉敷理瀬のことが嫌いなのか? 苦手だが嫌いではない。でも何て言えば正解なのかわからなくて、今まで読んできた本にそんなシーンがないか必死に思い出す。そもそもそんなこと考えたこともなかった。

 窓の外から運動部の声はきこえるのに、ここの時間は止まってしまったかのようだ。

 「……ごめん」

 ガタンと椅子を引く音がして、倉敷理瀬が席から立ち上がったことがわかった。そしてやっと倉敷理瀬を見た私は、彼女が泣いているのに気付いた。目があったと同時に倉敷理瀬は図書室から出て行ってしまった。

 こうして私の『世界一安全なバショ』の安全性は守られたが、身体はまだ冷たくて、泣いている倉敷理瀬の顔が頭から離れてくれなかった。

 


 倉敷理瀬を追いかけないと。

 その思いとは相反して、私の身体は急に重くなり震えが止まらなかった。

 震える手で膝を叩く。動け、動け、追いかけて! 

 足がもつれそうになりながらも私は『世界一安全なバショ』から飛び出した。


 下駄箱にはまだ倉敷理瀬の靴は残っていた。まだ校舎内にいるらしい。一階、二階と探したが見つからなかった。そしてとうとう三階の吹奏楽部が使っているフロアを探さなければならなくなってしまった。

 「木下じゃん。こんなとこで何しているの?」

 緊張で足がすくんでる時にタイミングがいいのか悪いのか、クラスメイトの峰岸亜美に見つかってしまった。峰岸亜美はサックスを肩からかけている。何も言えないでいる私に峰岸亜美はイラついた様な声色で言う。

 「帰宅部の木下がこんなところで何しているのって聞いているんだけど。無視?」

 「違う……倉敷理瀬を探してるの。見なかった?」

 手が震えていた。峰岸亜美とは同じクラスだったが喋ったことがない。

 「見てないけど。何かあったの?」

 「……ちょっとね」

 「ふぅん」

 峰岸亜美は詮索するように私を見る。

 「会ったら木下が探してたって言っとくよ。じゃあ私部活だから」

 峰岸亜美は意外にもあっさり踵を返していった。ホッとして息を吐く。そしてまた倉敷理瀬を探しに校舎を走り回った。

 

 

 気づけば下校時刻になっていた。散々走り回ったが倉敷理瀬は見つからない。私は図書室に鞄を取りに戻ることにした。倉敷理瀬はどこにいったのだろう。明日も図書室に来てくれるのだろうか。不安が渦巻いていく。もう今まで通り話しかけてくれなくなるかもしれない。

 扉を開けると、誰もいないと思われた図書室に女の子がつっぷして寝ているのをみつけた。

 もしかしたら……恐る恐る近づいてみた。思った通り、寝ていたのは倉敷理瀬だった。

 あれだけ探し回ったのに図書室で寝ていたなんて……脱力して椅子に座り込んでしまった。

 私は倉敷理瀬の顔をまじまじとみる。可愛い子は寝顔も可愛いのか、ホッペ柔らかそうだな、髪に触ってみたい、唇に触れてみたい。

 夕焼けが『世界一安全なバショ』をオレンジ色の光に包む。私はようやく倉敷理瀬に抱いていた感情の正体を知った。

 私に持っていない物を全部持ってて、穏やかな瞳で私をまっすぐ見てくれて。誰とも気さくに話せるとこがうらやましかった。

 私は倉敷理瀬みたいな女の子になりたかったのだ。憧れがいつの間に惹かれていたのだ。

  


 寝ている倉敷理瀬の身体を優しく揺する。

 「そろそろ帰ろうよ」

 「……朱莉ちゃん?」

 「うん。私のこと待っててくれてたの?」

 倉敷理瀬はまた穏やかな笑みを浮かべながら私をみた。

 「亜美が朱莉ちゃんが私の事探してるって教えてくれたから」

 「……そっか」

 峰岸亜美は私が知らないだけで悪い奴ではないのかも知れない。

 

 

 

 薄暗い河川敷を二人で並んで歩いた。

 「あのね、私は、お母さんの作品なんだ」

 ポツリと理瀬が語りだす。

 「お母さん、昔お人形さんみたいな女の子になりたかったんだって。でもそれが自分では叶わなかったから、娘の私をお人形さんみたいな女の子に育てたんだって」

 自嘲気味に語る理瀬の話を、私は黙って聞いていた。

 「着る服も髪型も全部お母さんが選ぶの。持ち物も習い事も全部お母さんが決めて。私の人生なのに、今まで何にも自分で決められなかったの」

 瞳に涙を溜めながら、倉敷理瀬は笑った。

 「最近それに疲れちゃって、家に居たくなくて休みの日どうしようかなって考えていた時に朱莉ちゃんが春休みなの図書室にいるのを見つけたの。いつも一人で行動できる朱莉ちゃんのことずっとカッコいいし面白そうな子だなって思ってたから話してみたかったの。だから私も図書室に通っちゃった」

 理瀬は泣きながら笑っていた。理瀬にそう思われていたなんて知らなかった。

 可愛らしいルックスと明るく気さくな私にとって別世界の人間のようなクラシキリセが、理瀬のお母さんが作り上げた作品ならば本物の倉敷理瀬はどこに行ってしまったのだろう。

 もしかしたら私が好きになったのは理瀬のお母さんが作り上げたクラシキリセなのかもしれない。

 

 「……私ね、図書室を『世界一安全なバショ』って呼んでいるの」

 「世界一安全なバショ?」

 「……うん。私ね、中学一年の途中までは結構クラスで上手くやってこれてたんだ。でもその時仲良かったグループの子と、お揃いのシュシュを買いに行こうって話してたんだけどお母さんにお小遣いが欲しいって言えなかったの。それで断ったら次の日から無視されるようになっちゃって」

 あの時のことを思い出すと今でも心が痛む。

 「シュシュひとつで友達がいなくなるんだ、って思ったら人と関わるのがもう嫌になって。他に仲良くしてくれる友達もいたのに信じられなくなってそれからずっと図書室に通ってた。物語の世界は優しくて、私を絶対裏切って傷つけないから、世界一安全だなって思って……だから理瀬も辛いなら図書室に逃げちゃえばいいと思うよ」

 私は笑えてるかわからないが精一杯の笑顔を作る。

 「……うん。ありがとう」

 理瀬は静かに泣いた。きっと今の理瀬には逃げる場所が必要なのだと思う。でも私は逃げるのをやめてまた人と関わりたい、信じたいと思い始めていた。

 私は倉敷理瀬のことを信じたいし、倉敷理瀬のなりたい倉敷理瀬に会いたいのだ。


 

 理瀬の五十二ヘルツの声は私にはまだ聴こえない。だから将来に夢を見ることにした。

 将来、私は理瀬の隣を歩いていられる未来がきますように。

 理瀬が孤独にのまれそうになった時に、思い出してくれるような存在になれますように。

 倉敷理瀬に抱いた愛おしく暖かい感情をまだ胸で温めながら、優しい未来の夢をみる。

 「……明日も図書室に来るでしょ?」

 「……うん」

 私の問いかけに理瀬は涙目だが穏やかな表情で私を見てくれた。

 それから私たちはお互い黙って歩いた。


 河川敷から見える河のはるか先は、五十二ヘルツの鯨がいる海につながっているのを知っている。

 夜空で三日月が笑っていた。

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