鯉が、跳ねる。
夜野せせり
第1話
絶えず、水の流れる音がする。
真夏の日差しは強く、狭い小路を歩いているだけで、汗が噴き出す。だけど耳の奥は涼やかだ。
かがみこんで、水路の澄んだ水に指先を浸してみれば、痺れるほどに冷たい。清い流れを、とりどりの錦鯉が泳いでいる。白、朱、黄金色。白に朱色のまだら模様。艶やかな着物を着た魚たち。
ここは、鯉の泳ぐ街。古い家屋やレトロな駄菓子屋、駆けて行く子ども。懐かしい思い出が、徐々に色を取り戻してきらめく。
通りの中ほどに設けられた休憩スペースで、ベンチに座って湧水に足を浸した。
高校三年の夏。クラスメイトの男子と、この街を歩いた。四明荘の庭木の鮮やかな緑と澄んだ泉水を眺め、湧水館で寒ざらし―ー蜜かけ白玉――を頂いた。
小谷君、と言った。クラスが同じということ以外に接点のなかった彼に、いきなり、電車でどこかに出かけないかと誘われたのだ。学校で模試を受けて、帰り支度をしていた時だった。背が高くて強面で、滅多に笑わない。近寄りがたいと思っていたはずなのに、頷いてしまったのは。きっと、彼の耳たぶが、赤く染まっていたから。
小谷君が、島原の、この通りのどこかに、喫茶店を開くと耳にした。一昨日の夜、地元の友達と集まって飲んだ折に。誰かが酔って話してくれた。
別に、会いたくてこの街を訪れたわけではない。一度きりのデート、それきりだった。二学期が始まってからは私も彼も、それぞれの進路に向かって忙しく。ふとした折に目が合うだけで、一緒に帰ったこともない、言葉を交わしたのも数回だけ。ただ、小谷君の名前を耳にした時、この街の名前を耳にした時。水のきらめきが蘇った。そして、ふらりと足を運んだのだ。
立ち上がって歩き出す。空は青く、白い雲が湧き出ている。真夏の、強い光がつくる影は濃い。小路に打ち水のあとがあった。駄菓子屋の手前の水路に、ラムネの入ったざるが浸かっている。
どうして会社辞めたの、と。友達に聞かれた。したたか酔っていた彼女の薬指には銀色の指輪。私も、結婚する予定だった。
恋人に奥さんがいることがわかったのが一年前。だけど、会いたいと言われれば拒めず、ずるずると関係は続き、挙句、妻と別れて一緒になるという言葉を信じてしまった。馬鹿だ。
何もかもに嫌気がさして、突発的に、全てを投げ出して故郷に帰って来た。捨てたかった。誰かをどうしようもなく傷つける恋も、それでも消せない嫉妬の火も。
澄んだ水の輝きが恋しくなったのは。あの頃の、恋とすら呼べない、淡い思い出が懐かしくなったのは。きっと私が、汚れてしまったから。
十七歳の夏。もう、十年も昔のこと。あの頃だってそれなりにざらりとした感情を抱えていたはずなのに、時を経て手のひらからするする零れ落ちて、今は、上澄みしか残っていない。
これからどこへ行こう。脇道に入ってアーケードにある足湯に浸かろうか、それとも、まっすぐ進んで、
「玉井?」
ふいに、低い声が私を呼んだ。振り返る。
「……小谷君」
すぐにわかった。切れ長の目も、やや角ばった輪郭も、さっぱり短い髪も、広い肩幅も、昔のまま。黒いTシャツから伸びた、日に焼けた長い腕。
「やっぱり。変わってない、全然」
小谷君はふわっと微笑んだ。そうだろうか。私、変わってないのだろうか。
「小谷君は変わったかも。昔は、そんな風に笑わなかった気がする」
「そうだったっけ?」
決まり悪そうに、首の後ろを掻く小谷君。
「聞いたよ。喫茶店開くんでしょ? さすがに仏頂面じゃ接客業は無理だもんね」
「そうだな。頑固オヤジのラーメン屋じゃあるまいし。もともと俺は怖い顔してるしな」
くしゃっと、笑う。その笑顔にも、スムーズに流れる会話にも、驚いてしまうほど。ふたりでここを歩いたあの夏は。からだを強張らせて、ぎこちなく歩いて、時折、ぽつり、ぽつりと、言葉を交わすだけだった。
「喫茶店、どこにあるの?」
「すぐそこ。ここの、裏の通り。昔、婆ちゃんが住んでた古い家、ずっと放置してて。思いきって改装したんだ」
今週末、開店だ、と。小谷君は言った。調理師として働いていた小谷君は、珈琲と音楽に詳しい兄と一緒に、自分たちの店を持つという夢を抱いていたのだと。
私が薄暗い恋に足を取られているあいだに、彼は。ひたむきに、まっすぐに進んでいた。眩しくて目を逸らす。
ぴちゃん、と、音がする。見やれば、水路の鯉が、跳ねていた。
「……来るか?」
彼のつぶやきに、気づかないふりをする。と、細い脇道から、三歳ぐらいだろうか、小さい子どもがふたり、駆けてきて高い笑い声をあげた。
「ユウキ、マイ。遠くに行くなよー」
小谷君が子どもたちに声をかける。はあい、と、伸びやかな声が響く。
「可愛いね」
「双子なんだよ。店のそばで遊べって言ってんのに」
小谷君が目を細めた。こんなに柔らかい
胸の奥で、ちくりと、小さな棘が疼くのは。きっと、私の中の「十七歳の私」が、蘇ったから。知らず知らず、時間が、巻き戻っていたから。
私は、ふふ、と、少し、笑った。
「いつの間に、結婚し」
ユウキーっ、という叫び声が、私の台詞を遮った。長い髪を後ろでひとつに束ねた女の人が走ってくる。
「
サンキュ、と、その
「兄貴の子どもたち。めちゃくちゃ可愛い」
「……そう」
「珈琲、味見してけよ。結構美味いよ、ここの水使ってるから」
「……ん。じゃあ、お邪魔します」
するりと、私は、答えていた。喉が渇いて珈琲が飲みたくなった。きっと、それだけだ。
「良かった。昔。せっかく誘ったのに。緊張して、ろくに話せなかったのを後悔してたんだ、ずっと」
あー。なんか、高校生の頃に戻ったみたいだ、と小谷君は頭の後ろを掻く。
もう一度。ぴちゃん、と。鯉が、跳ねた。
鯉が、跳ねる。 夜野せせり @shizimi-seseri
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