第35話 もう一人の訪問者
すうっという寝息が、ベッドから流れてきたのを確認し、俺はゆっくりと寝袋から抜けた。
そのまま音を立てないよう窓を開けベランダへ。しんとした夜の空気は、四月にしては肌寒く、ここが陸ではなく海上にある人工都市だと改めて認識させられる。
「この島を消す、か」
人口20万にも達する大都市サクライ。これを消すというのは、革命でも何でもなく、ただの破壊。阿賀山先輩が望み、頑張って進めている未来とは、ベクトルが違うように思われた。
なら俺のベクトルはどこに向いているのか? ということになるのだが、正直どちらでも良かった。俺は冒険ができればいいのだ。この鍛えた運動能力を、発揮できる場所があれば。
……本当にそうだろうか?
彼女らが、雨露木征爾を称える人々から認められたいのと同じく、俺もなにかに認められたかったんじゃないだろうか。だから俺も雨宮についていってるんじゃないだろうか。
そのなにかとは一体なんだろう?
俺は、いったいなにに認められたかったんだろう?
――――
間違いなく正しいと言えるのは、こんな独白、誰が聞いても面白くないということだ。うん。
「さーて、いい加減俺も寝るかぁ」
「それは困る。ボクはお兄さんの話をもう少し聞いていたい」
突然耳元で発せられた声に、俺は思わず飛び上がった。
悲鳴を上げなかったのは誰かに褒めてもらいたい。
競技水泳で着るようなぴっちりとした黒いラバー。その上にこれまた黒いコートのようなものを羽織っている。下は膝丈パンツのようで、コートの隙間から見え隠れする白い脚は、中性的で、妙に艶めかしい。街中で見かけたらコスプレかと勘違いしてしまいそうな格好の奴が隣に立っていた。
「おまっ……! か、
「ボクが他の誰に見えるの。お兄さん視力レベル低い?」
「むしろ真夜中のベランダに、その恰好で、隣にいきなり現れたのにも関わらず正答した俺を褒めろよってレベルだわ」
つかどこから入ってきたんだよ⁉
「愚問。壁をつたってきた決まっている。なにをそんなに驚いているの。お兄さんもこれくらいはできるだろう」
「いや三階とかまでならいけるかもしれんけど、ここ八階だぞ⁉ 無理無理!」
ふうっと胸をなで下ろし息を整える。とにかく泥棒とかそういうのでなくて良かったぜ。
「来るなら玄関からこればよかっただろう。ここでなにしてたんだよ?」
「雨宮るりかの会話に興味があったから。ここで聞いてた」
「盗み聞きか? いい趣味とは言えないな」
「彼女の動向を逃さず見ておくのも、ボクの契約に入ってる」
……ん、あいつとそんな契約してんの? それって雨宮が
ほんの少しの疑問が頭をよぎったが、
「お兄さんは、あの倉庫の地下にある箱を見たのだろう」
「ん、ああ。雨露木メモが入ってるっていうあの箱か。もちろん。あれを開けるために色々な目に遭ってるからな。お前、雨宮から聞いたのか?」
質問に対し、彼は答えず、代わりに、
「あれは。あの箱は開けてはならない」
しごく真面目な顔つきで、そう返してきた。
元々表情を顔に出さないやつだが、今は緊迫した表情になっている――ような気がした。
「どういう意味だ、そりゃ」
「このサクライは、土台はもちろん初期に建設された建築物までもが複雑な機構が絡み合っていて、例え細い鉄柱であっても一つ一つが相互に機能し
「なんだよいきなり。確か……なんだっけな。ああ。思い出した。原子間の結びつきの弱い部分があって、へき
「そう。ダイヤモンドですら砕けるように、このサクライにもその一点はある。それがあの箱」
つまり、あの箱を開けると、この島が崩壊する――そう言いたいのだろうか。
にわかに信じがたい。
だがここでふと思い出す。同じようなことを誰か言っていた。
そうだ。確か初めて会ったとき、雨宮がそんなことを言っていたような気もする。
「なんでお前、そんなこと知ってんだ」
「……それは。……守秘義務で、答えることはできない」
相変わらずの無表情。けどそこには、これまでにはなかった曇りの微粒子が散りばめられていたようにも見えた。
「だからもし本当に開けるのなら、慎重に、そして気を付けるようにと言いたかった。それにあの箱は
「オウル? 誰だそりゃ」
「
「あのときのやつらか……! 大野に雇われたあいつら、そんな名前だったのか」
「うん。彼は元々
「お前の知り合いだったのか」
「いや。彼とは部門が違ったから顔を合わせたことはない。ボクが一方的に知っているだけだ」
鹿倉要という人間は、興味もないモノを知ろうとするようなヤツだったろうか。
接した時間は短いが、同じ死線を潜り抜けた仲だ。違うと直感が告げている。
「そういえば。雨宮はお前とネットで契約したっつってたけど、あいつにそんなツテがあったとは思えないんだよな。お前どこであいつと知り合ったんだ?」
「…………」
どうやら守秘義務ってやつに引っ掛かる部分だったららしい。俺は薄く笑って手を諸手をあげた。
「すまない。言えない。でもこれは信じて欲しい。これでもボクは、君たちのことを結構気に入っているんだ」
「おう。だったらもう少し顔に出してくれよ。無表情すぎて分からん」
「すまない」
「あと現れるときはちゃんと玄関からにしてくれ」
「すまない」
「いやすまないはもういいから。ていうかそのすまないはもしかして次くるときもベランダからだって意味?」
「……うん。ダメ?」
「極力ご遠慮してもらいたいのが本音だけど、まあ特別に許可してやる。俺は心が広いからな」
神妙な顔つきだが、内心は苦笑気味だ。
まあこいつがこういう性格だと分かっていれば、話に乗ってやるのも悪くない。
「そうか。その、お兄さんにそう言って貰えると、ボクも嬉しい」
「笑ってないぞ、顔。顔」
「う、す、すまない。……こうだろうか」
「いやいや! 人を殺しそうな顔になってんぞ⁉ もっと普通にできないのかよ⁉」
「その、……緊張してて」
「仲間に向かって緊張もくそもないだろ」
落ち付きなさげに、手すりをさすっていた鹿倉は、目を見開いて俺を見た。
「仲間? ボクが?」
「当たり前だろ。他に誰がいると」
「……嘘だろう」
「なんだよ。疑り深いやつだな。俺に嘘をつく理由はねぇ」
「……じゃあ本当にボクが仲間?」
「あの死線を潜り抜けた同士だぞ。俺は仲間だと思ってる」
なにより鹿倉から嫌な雰囲気は感じられない。こんな忍び込むような場所にいたとしても、悪いやつだとは思えないのだ。
もちろん理由などない。俺の直感が告げているだけだ。
そういえば――「直感を大事にしなさい」――とは、ここ数年会っていない母の口癖だった。あの人は今頃どこでなにを
やたら温泉が好きな人だったし、案外箱根あたりで一杯やってるかもしれない。
「――……あー終わったら温泉にでも行ってみるか」
「温泉! 日本においては温泉法が昭和23年に公布されている! この法律は温泉を保護し、ガスなどの災害を防止するため温泉の利用を適正に、」
ふと呟いた言葉に、鹿倉が食いついてきた。ぐっと身体を近づけ、いきなりうんちくを語り始めた。おい、いきなりどうした⁉ 顔近ぇぞ⁉
俺がのけ反ると、鹿倉はハッとしこほんと咳を払った。
「すまない……。温泉というのは知識で知っているのだが、実際に入浴した経験が無くて。取り乱してしまったようだ」
「入ったことないって、そりゃまた珍しい」
「ボクの故郷は温泉がない国だったから」
……いや日本国はかなりあると思うんだがな? こいつ日本人じゃないの?
「そういえば温泉といえば初めて温泉たまご作った時も不思議で――」
「温泉たまご! 白身と黄身の凝固温度が異なるために起こる現象と聞いている。なんという不思議で奇妙な調理法だろうか! ボクも一度は本物の温泉で作ってみたい!」
どうどう。落ち着け。
興味がある時は頬が染まり、早口になった言葉に熱がこもる。それでいて無表情なのが微妙にミスマッチ。それが鹿倉要のちょっとした癖らしい。
「あと温泉つったら卓球だよな。宿にいったら卓球しようぜ、卓球」
「ああ! そうだな!」
紅潮した頬を緩ませていた鹿倉だったが、ふと思い出したように真顔に戻った。
「……雨宮るりかとの契約は護衛任務だ。温泉に同行していては、その間彼女を護ることができない。契約に反してしまう」
ってまた契約か。こーいつ自分のキャラを律儀に守るのはすげえと思うけど。
「別にいいだろ。それくらい。なにがお前をそこまで
「ビジネスは契約。契約は誓い。これは絶対の真理だ」
「少しくらいダメなのか?」
「契約が切れるか、新しい契約を締結しない限り……、例外はない」
おっも重いぞ。ったく。
「なら雨宮も連れてくか」
「え?」
「まああいつがうんと言うかは分からんが、もしOKが出たら、お前は温泉まで護衛に行く。それならいいだろ?」
「……あ、ああ! それなら!」
「決まりだな」
「あ、ま、まて。もしかして、い、一緒に入るのか?」
「いやあいつが入るわけねぇだろ。当たり前だが混浴じゃねえぞ?」
「いや、ボクと、お兄さんが……」
「は? そりゃ男同士だし。なんだよ、まさか混浴イベントでうっかり雨宮の裸を見たかったりするの?」
「そ、そんなわけないだろう! 変態か! お兄さんは!」
雨宮さんにも変態変態と言われ続けていたから、いい加減、俺は本当に変態な気がしてきたぜ! いや違うけどな!
「ともかく。温泉に護衛に行くというのは、護衛として、そう護衛として当然の任務になる。それなら契約に入っていることになるな。うん」
要は胸の前で小さく拳をつくり、うん、うんと二回頷いた。
年相応の仕草に俺の頬も緩む。つかこいつ何歳なんだ? 俺らより年下なのは間違いないだろうけど。
「まあ、その、考えておく。悪くないアイデアだった。仕事以外で、誰かとどこかに行くことはないから、この高揚する気持ちはちょっと不思議だ」
「安心しろ。大体俺も行くときゃ大体一人だ。誰かと行くことは初めてかもしれん」
俺は肩をすくめ、軽くおチャラけた。
対する鹿倉は目を閉じただけ。でもたぶん、あれは笑ったつもりなのだろう。
「しかしお兄さんも不思議だね」
「なにが」
「気付いていないの? 自分の
言いたいことが分からず問い返そうとしたが、鹿倉は「それじゃまた」と、言い残すと、黒を纏った姿はそのまま手すりを乗り越えて消えてしまった。
「だからここ八階だっての」
俺は苦笑し、頭を掻きながら階下を見る。通行量が少ない道路に人影はなく、冷たい風が用も無さげに走り去っていっただけだった。
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