七夕に逢いたくて

トグサマリ(深月 宵)

七夕に逢いたくて

 某県某市。

 普段はなんの変哲もない、どこにでもある地方の一都市だ。一級河川が市の北部を貫くここは平安時代の公式文書には既に名前が記されており、そのせいもあるのか、あちこちには史跡やまことしやかないにしえからの言い伝えなどが幾つも残っている。

 その言い伝えのひとつを由来とし、この市では七月の第二日曜を最終日として四日間、七夕まつりを毎年開催している。市の中央に位置する稲荷神社と本町ほんまち通りを中心に飾りつけや屋台などが出され、人口をはるかに上まわる数十万人規模の人々が集まってくる。

 結衣ゆいは、生まれてからの二十五年、この七夕まつりをとくに意識したことはなかった。中学時代の友人たちとなんとなく連れだってそぞろ歩いたことはあったが、最近はそれもない。

 だが、―――今年ばかりは違う。

 間近をすり抜けてゆく人たちの熱気やざわめきが、結衣にのしかかってくる。

 七夕まつり最終日のこの日、彼女は稲荷神社へとまっすぐ続く本町の端に立ち、訪れた人々の波を緊張した面持ちで見つめていた。

 胸の奥に、熱が固くこごったような強い思いがある。

 今日、ここから長い本町商店街を通って、大きな交差点を越え、稲荷神社の境内をぐるりとまわるまでに片想いの相手に出逢えなかったら、きっぱりとこの恋を―――この胸の内に深く根を下ろし続ける想いを諦めよう。

 そう決めていたからだ。

 このひとごみが、天の川。

 アルタイルに、結衣ヴェガはめぐり逢えるのか。

 彼―――沢口さわぐち哲斗あきと がこの日、この場所に来ている保証はまったくない。むしろ、県外に就職したらしい彼が、盆正月でもないのに地元に戻っているとは思えない。

 高校で同級生だった。

 卒業式に告白するチャンスがあったけれど、あと一歩の勇気が出なくて、気持ちを伝えることができなかった。そうしてそのままずるずると後ろ髪を引かれるような想いに囚われ続け、気付けば大学を卒業して地元企業での事務員三年目である。ずっと彼氏らしい彼氏ができないのは、心の中に沢口の存在があるからだと自覚していた。

 彼から、卒業しなければ。

 いまの彼のことはまったく判らない。SNSでも、彼の痕跡も話題もなにも見当たらない。

 だから、この「七夕作戦」を思いついた。

 出逢える可能性が限りなくゼロに近い作戦だ。

(本当は……)

 諦めたい。

 再会して、どうする。その場で告白をするのか?

 自分は、沢口のなにを想っているのか。彼のなにが自分を絡め取り続けているのか。

 この七年、何度も何度も彼への想いを自問していた。自問して出た答えはなにもなかった。笑顔が素敵だった。それだけ。それがすべてで、それしかなかった。とても薄っぺらなこだわりだけれど、結衣にはどうしても諦めきれない透明にきらめく大切な記憶だ。

 だから、悶々としながらも、出逢う可能性が低い最終日の夕方をわざと決行日時に選んだ。

 彼は、―――いるのだろうか。

 ざわざわと、周囲を歩く人々が増えてゆく。

 歩道に並ぶ露店に足を留めるひと。浴衣姿の彼女に嬉しそうな彼氏。空はまだ明るいが、それでも東のほうの色は濃くなってきている気がする。

「よし」

 小さく言葉を吐き、結衣はまっすぐ顔を上げて足を踏み出した。



 本町商店街のアーケードから下がるたくさんの吹き流しや、仕掛け。通りに並ぶ店々からの冷気があっても、人々の熱気で汗がにじんでくる。足元をうろちょろする小さな子ども。家族連れにカップル。友人同士の集団。結衣のように稲荷神社へと北上する者もいれば、逆に神社から南下してくる者、両側の店々へと出入りする者もいて、ひとの流れは定まらない。

 肩が触れ合う距離ですれ違うひとたちに揉まれながら、結衣は来場者たちの中に沢口の顔を探し歩く。

 気がつけば、稲荷神社への信号待ちの人混みの中、足止めをされていた。

 諦めるためだと判ってはいても、胸は引きつれそうになる。泣きたい。でも、まだ判らない。

 信号が青になり、皆が一斉に稲荷神社へと動きだす。

 境内にはたくさんの屋台が出ていた。そこから照らされる明かりで人々の姿は強い色彩で浮かび上がるも、本町通りを遥かに超える混みっぷりに、人探しなど追いつかない。

 結衣は、もはや必死にひとりひとりの顔に素早く焦点を合わせては、次へ次へと視線を移してゆく。

 ゆっくりと歩いていたからか、あたりはもう暗い。

 別の世界に吸い込まれそうな赤い鳥居の連なりも、残らずすべて通り抜けてゆく。

 いて欲しくない。いて欲しい。

 ふたつの願いがせめぎ合う。

(―――もう、いいんじゃない?)

 いつ頃からか―――きっと最初の一歩を踏み出したときから密やかに頭の中に滲んでいたもうひとりの自分の声が、突然はっきりとしたものになる。

 それはずっと心の内側で反響し続けていて、響き合いの中偶然重なり合って、はっきりとした言葉となったのかもしれない。

 ―――もう、いいんじゃない?

 あてもなくさまようばかりの自分の想いが、急に温度をなくしてゆく。

 ぽつんと、我に返った。

(なにやってるんだろう……)

 足を止め、どうしてだかふと落としていた視線を上げた。

 そこに。

 こちらを見て小さく驚く沢口の顔があった。



 ―――帰りのバスに揺られ、結衣は先程のことを思い返していた。

 ひしめきあうほどの人混みの中沢口は、もちろん青年の顔立ちではあったけれど、最後に卒業式で見たときと同じ顔をしていた。

 久しぶりだなと彼は笑んで、「あ、コイツ嫁」と、照れくさそうに隣の女性を紹介してくれた。二年前のこの七夕まつりで偶然再会した、大学で同じゼミだった女性なのだとも。

 それからひとことふたこと言葉を交わしたけれど、不思議と妬ましさや後悔の念は生まれなかった。

 逆に、清々しい思いが胸を満たしていた。

 逢えないことで諦められると彼を探し、思いがけず逢うことは叶ったけれど、想いは叶わなかった。

 それでも、自分自身に巻きついていた過去の念が、するりとほどけ落ちたのを感じていた。

 ひとつのなにかが、通り過ぎた。

 これでやっと、きっと、誰かを好きになれる。

 思い描いていた結末ではなかったけれど、こんなにもすっきりとするのなら、もっと早く、七夕作戦を敢行すればよかった。

 それにもしかしたら、―――もしかしたら彼と結婚できていたのは、自分だったのかもしれない。

 そんな後ろめたい思いも、やはりほんの僅かだけあるのだけれど。

「うん」

 他の乗客に聞こえない声で、頷いた。

 来年も、七夕まつりに参加してみよう。

 脳裏に、先程の沢口の変わらない笑みが浮かぶ。

「うん」

 きっと、なにかの出逢いがある。

 そう信じられたから。





          了

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七夕に逢いたくて トグサマリ(深月 宵) @mizuki_yoi

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