風に吹かれて

髙橋螢参郎

第1話

 ごう、ごうと。

 生身で和田橋を渡る者を烏川へと押し流そうとでもするかの如く、上州のからっ風はさっきから容赦なく吹き付けていた。聞きしに勝るその冷たさと烈しさに、僕は思わずコートへ顔を埋めた。

 訪問者に対して些か手厳しい洗礼だったが、それも致し方のない事だった。北関東最大のターミナル駅として賑わっていた駅前ならいざ知らず、僕がこれから行こうとしているところは観光地でも何でもない。本来、異邦人の入り込むようなところではないのだ。

 だが承知の上で、死ぬ前にどうしても一度その場所へ行っておきたかった。彼は一体どんな街で青春時代を過ごし、そこで何を考え、去っていったのか。

 その足跡にさえも、当時の僕は縋りたかったのかも知れない。


 彼の事を知り、友人の下宿をたよって遠路はるばる群馬県高崎市を訪ねたのは、大学三年の初冬の事だった。

 彼の名前は山田かまち。一体何者であるのかと問われると、答えるのは難しい。もし生きていればミュージシャンになっただろうか。画家になっただろうか。それとも、小説家か。本物の天才であった彼ならば何者にでもなれただろう。いや、もしかしたら寺山修司のように、最初から彼は山田かまちであるとしか語れない存在だったのか。もう確認しようもないのがひたすら惜しかった。

 感情をひたすら鈍麻させ、何かしているようなふりだけをして毎日をやり過ごしていたその頃の僕に、彼の詩はひどく突き刺さった。擦り剥けた傷口に血が滲んでいるような、生きる事に対するひたむきな痛みと、彼は正面から向き合っていた。

 先行研究の少なさゆえ結局は断念したが、卒業論文のテーマに彼を取り上げようと本気で考えていたほどだ。彼だけでは足りていないのならと、他にも夭折した人物について調べ上げ、遺された作品に目を通したりもした。

 藤村操。

 高野悦子。

 レイモン・ラディゲ。

 生きていれば、と未来を嘱望され、惜しまれながらこの世を去った彼らは皆例外なく、儚げに見えた。そして彼らの時間は美しいままで永遠に止まっている。これから先何年経とうと、もう色褪せる事はないのだ。

 一方で何の成果も出せず、いつまでも地元でチューイング・ガムの如く路傍にへばりついているだけの自分の人生に、僕は完全に倦んでしまっていた。彼らのようになりたくとも、今から駆け込みで悲劇的な死を遂げても、果たしてもはや夭折と呼んでもらえるのかどうかすら怪しかった。

 焦燥感だけが、ちりちりと背中を焦がす日々が続いていた。


 いよいよ烏川を越え、僕は彼を生み出した街へと辿り着いた。

 道中は回教徒の聖地巡礼のような心持ちでいたのだが、いざ眼前に広がった風景は当然ながら、ただの日本の街並みだった。

 本格的に街を巡ってみるのは後にして、まずは山田かまち水彩デッサン美術館へと足を運び、写真や挿画でしか目にした事のなかった彼の肉筆画に触れた。

 そこでの体験は間違いなく自分の人生に刻み込まれるほどのものだった。印刷には写らない筆跡を肉眼で見る事で初めて、彼が本当にいたという事実を確認できたような気がした。それと同時に、もし生きていたら、という幻肢痛めいた感覚に改めて襲われた。世代で言えば僕の父親とさほど変わらない事を思うと、今目の前にいても本当は何らおかしくはないのだ。彼の初恋の人は今も隣町で塾の講師をしているとの記載が添えられていた。そういう距離感のところまで遂に来たのだ。

 かまちかまちかまちよ!

 僕は作品を見て回りながら心の中で呼びかけた。備え付けのノートに思いの丈をぶつけてみたりもした。

 だが、それまでだった。鼻息荒く美術館を後にした僕を待ち受けていたのは、やはりただの一地方都市だった。

 駅前との落差を差し引いてもきっと何かがあるだろう、という僕の期待とは裏腹に、本当に何でもない街だった。あの烏川を境にして、世界そのものが分断されてしまっているような印象すら受けた。

 規模からそこにあるもの全て、僕の住んでいる街と何ら遜色はない。彼が固執し浪人してまで入ったという高崎高校の周辺も歩いてみたが、それで何か特別な感慨が産まれたわけではなかった。県内トップの偏差値を誇る進学校とは言っても、高校を卒業した今の僕にとってはさほど関係のない数字だ。もしここに移り住んで家庭を持ち、自分の子供が受験する段にでもなれば話は別だろうが。

 ふとそこまで考えが及んだ時、僕は当たり前の事にようやく気付いた。

 この街は、彼の、いや彼らの人生は僕にとって一切関係がなかったのだ。

 憧れるがあまり何か得られるだろうと群馬県まで来て初めて、美しい彼らの人生が同時にただの残像でしかない事をやっと悟った。

 この何でもない街ひとつを取っても、ただの一度訪れたところでそこに暮らしていないうちは永久に地図上の存在でしかなかった。立体的な、自分にとって本物なのはいつだって、一分一秒目を離せない自分の歩む人生だけなのだ。

 二十を越えた大の男がそんな単純な事さえこれまでよく理解していなかったとは。自分の不明を恥じて、僕は誰にも目を合わさぬようすごすごともと来た道を引き返し始めた。

 僕は結果の出た他人の人生に仮託ばかりして、自分の人生を蔑ろにしていただけだった。物語の王子様に憧れるような、テレビの中の触れもしない偶像に熱を上げるような、今まで馬鹿にしていたものと何ら遜色のない事を今までしていたというのか。

 自然と溢れる涙と鼻水を時折啜りながら、みっともない醜態を晒して歩いた。

 笑いたくば笑え。これが今の僕の全てなのだ。


 再び和田橋のたもとに立った頃には、日が暮れ始めていた。

 最後に背中を一度だけ振り返ると、街には無数の暖かな光が灯り始めていた。最初からあのひとつひとつにこそ注目すべきだったのだ。

 ……さようなら。

 そう一言心の中で呟くと、僕は前だけを見て歩き始めた。ずっと向かい風だったからっ風に、気が付くと背中を押されていた。

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風に吹かれて 髙橋螢参郎 @keizabro_t

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