平井大橋

まさりん

平井大橋

 晴れた日の荒川は本当にゆったりしている。荒川にかかる平井大橋の袂にクロスバイクを停める。そのまましばし、夕方から夜になろうとしている広大な景色を眺める。ゆったりとした荒川、見えないが向こうには併走する支流が流れ、中州には首都高環状線の陸橋が平井大橋と直行している。陸橋はちょっとしたビルのような高さだ。振り返るとゴミ処理場のものであろう煙突と、スカイツリーが立っている。ライトアップされたスカイツリーは深海魚が微かな発光をしているようだ。二つの塔は、下町の低い家並みのなかに立っている。

 周囲には自転車通勤の理由を、運動不足解消のためと説明していた。職場は下町の小さな工場の事務なので、営業からなにからなにまでこなす。本当は運動不足などになりようがなかった。自分たちの世代は、二千年代初頭の就職難が極まったころで、我が社の新卒採用も自分たちの後はしばらくなかった。自分たちも欠員補充で、久々に新卒採用された二人だった。必然的に同期とは連帯感を求められた。なんでも助け合うように、と社長や先輩たちに言われ、兄弟のように育てられた。その同期には、「オレなんかスーパー銭湯だよ」とタフさを呆れられた。タフなのではない。仕事にそれほど執着していないだけだ。

 橋の親柱には「ひらいおおはし」とカナが彫られた石のプレートがついていた。親柱の上には錘状の石柱が乗っていて、ツツジの花が彫られていた。クロスバイクの脇に立っていると、橋の上の四車線を行き来する大型車が橋を振るわせ、胴と睾丸を震わせる。

 自転車通勤を始めて半年あまりになる。下町の工場の行き帰り、平井大橋を通るのは本当は少し遠回りだ。だが、目的外の副産物もあった。二週間前、直属の上司と揉めた。実にくだらない理由だ。上司に限らず、他人とは揉めないようにしている。他人が自分のなかに入り込んでくるのがいやだからだ。理由はわかっている。後ろめたいことがあるからだ。その日はどうかしていた。はまり込めないままに工場での仕事を続けてきた。それでも苦しいこと、悔しいことはたくさんあった。その経験が、いつの間にか小さなプライドを持たせたのだろう。いつもそうであるのに、その日に限って、上司の人を食った物言いが妙に心に刺さった。世界一下らない理由で、無能そのものの言い様だが、一瞬にして怒りに火がつき、気づいたら胸倉を掴んでいた。上司は相手がそういうことをしないと高を括っていた。目を大きく開けて驚いていた。同様に一瞬呆気にとられた同僚や先輩に止められ、なだめられた。が、その日は自分の殻に閉じこもってしまった。いくら慰められても、心中、「自分なんかを心配するのは、辞められて仕事が増えるのがいやだからだ」と卑屈になっていた。

 翌日、自宅の布団で目が覚めて、自己嫌悪に陥った。両親とも一言も口を聞かず、クロスバイクにまたがって走り出した。いつのまにか平井大橋にいた。通勤では行かない、荒川沿いのサイクリングロードを東京湾に向かって走ろうと思った。荒川の河川敷は芝生の広がる緑地になっていて、親子がキャッチボールをしていた。市民レースが行われていて、ランナーが思い思いのペースで走っていた。それをすり抜けるように、がっちりと武装した格好でロードバイクを走らせる人もいた。人々に混じり、ゆるゆる走っていた。やがて土手の上に桜並木が見えた。晩秋の桜は、葉を熟した柿の実色に染めていた。美しさに惹かれて、土手を斜めに上がる道を登った。並木全体が柿の実色に染まっていて、青空に映えていた。河川敷を見ると、荒川が穏やかに流れる。水面が銀色に光っていた。土手の向こうには、高層マンションが見えた。桜並木の途中にはベンチが所々設置されていて、マンションの住人とおぼしき老人が夫婦で休んでいたり、ホームレスっぽい男性が座っていたりした。無機質なマンションの人工的な生活と荒川の雄大な景色を見ているうちに、なぜか癒やされた。そんな生活への憧れを自分のなかに見いだして戸惑った。疲れ切っていた。そんな副産物に触れていると、この辺りが好きと言っていた彼女の気持ちが理解できた。

 彼女とは、高校生時代につきあっていた。

 毎日の通勤で平井大橋に立つとき、無意識に彼女の姿を探した。

 高校時代には、つきあってすぐに彼女は引っ越していった。理由はきちんと話してくれなかった。卒業後聞くと、かなり複雑な家庭環境であったようだ。彼女と別れてから、あまり熱心に人生を送れなくなった。すでに隠居した気分、消化試合を生きている気分になった。仕事も世間体のために選んだ。社長になってやるとか、金持ちになってやるとかいう、夢は持てなかった。そんなものは子供じみた妄想だ、と自分に言い聞かせてきた気がする。

 中年になり、過去に抗えなくなった。仕事の多忙さに身を委ね、必死に過去の引力から逃れてきた。四十になると、後悔に足首を掴まれている気分になった。それまでは若さが逃避を可能にしていただけで、考えるべきことを棚に上げていたと気づいた。東日本大震災の影響もあったのかもしれない。

 自分からは会いに行けないけれど、彼女がもしもまだ自分を欲してくれるなら、平井大橋に現れる、そんな子供も見ない妄想に取り憑かれて、橋を渡る日々が始まった。

 だが、それももう止めようと思う。荒川沿いの人々を見ていて、自分は壮大な無駄な時間を過ごしていると感じた。来るはずがないじゃないか。囚われたまま一生を過ごしてもかまわないけれど、それはそれで少し寂しい。もう普通に戻ろう。

 橋の袂からペダルを漕ぎ出す。ジャケットとネクタイが風になびく。歩道の街灯は規則的に並んでいる。橋の向こうには環状線の入り口がある。すっかり夜になり、テールランプが陸橋に向かって登っていく。無数の光に照らされて、荒川は銀色に鈍く光っている。いつのまにか、自分の目は彼女を探していた。


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平井大橋 まさりん @masarin

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