北京通り

まさりん

北京通り

 玄関の覗き穴から見えたのは婦警だった。別に悪いことをしている訳でないのにドギマギしてしまう。我ながらぎこちなくドアを開けた。

 「お休みのところ、申し訳ないです。駅前交番のものですが」

 別に私を逮捕しようというのではなく、定期巡回をしていただけらしい。

 「出てきてくれて助かりました」

 私以外のアパートの住人は日曜日でも出てきてくれないそうだ。戸別の調査票を見せられ、家族の状況に変化がないか、困ったことはないか、と尋ねられた。独り暮らしは相変わらず、女も寄りつかないと話すと、かわいらしい笑顔になった。笑顔と対照的に制服の上からもがっしりとした体つきをしているのがわかった。魔が差して言い寄っても投げ飛ばされるのだろう、と感じた。左手にはバインダーを持っていた。バインダーの裏にはリラックマの大きなステッカーが貼ってあった。何かを記入していた。

 「ありがとうございました。あ、最近市内でオレオレ詐欺がはやっていまして、市内だけで被害額が二億円になっています。ご実家の方とは頻繁に連絡を取るように心がけてください。あと、北京通りはご存じですか」

 初めて聞く名前だった。

 私は自宅から最寄り駅まで自転車で通っている。都市郊外であるこのあたりは同じように通うサラリーマンが多く存在している。通勤時間帯は自転車通勤者で埋まる。そこが通称「北京通り」だ。中国の朝の通勤時間の模様をイメージして、地元の中高生が付けたのだろう。別称、「上海通り」とも言うらしい。が、中国の自転車通勤はどこの都市でも同じで、私は四川省の成都の様子を見たこともある。三国志好きでなければ成都など知らないのだろう。この辺りの若者らしいや。婦警の説明を聞きながらそう思った。

 

 次の日の朝、クロスバイクにまたがって北京通りをゆく。北京通りは車一台分の細い通りだ。そこを恐ろしい数の自転車が駅に向かって移動している。ママチャリやロードバイクなど車種は様々だ。多くの人間がスーツを着ている。通勤前に子どもを託児所に預けようと、前後の子供用の椅子に小さな子供を乗せ、他の自転車と同じスピードで走る猛者もいる。それはまだマシで、そこここにスマホを見ながら運転しているサラリーマンがいた。

 そんな自転車の塊が、北京通りの途中にある赤信号に止まる。が、車の隙を見つけては信号無視をして渡っていく。一台が渡ると後続者が渡っていく。集団心理というやつだ。私の前を行く二十代らしいサラリーマンもスマホを見ながらそのまま渡っていく。私は止まりたかったので、流れを遮らないように脇の歩道で止まる。後ろから来た自転車が赤信号を渡ってゆく。灰色のパンツスーツ、長い黒髪を後ろで束ね、眼鏡をかけた、気が小さく真面目そうなOLだった。私の脇をすり抜けざまに、聞こえよがしに舌打ちをしていった。私はムカッとした。どう考えても私の方が正しかったからだ。私は普段から周囲に融通が利かないとか、頭が固いと言われて生きてきた。OLの舌打ちはそうなじられている気がしたのだ。

 信号が青になって、車列に復帰した。さらに北京通りは狭くなる。そこをマグロなどの回遊魚のように自転車が進んでゆく。

 やがて小学校が現れる。ここの小学校は公立ながら優秀な学校として地元では有名だ。敷地を囲む低い塀の端に校門がある。校門は少し敷地に引っ込んでいて、そこに男性が倒れていた。男性は六十歳くらいだろうか。自転車はそれに気づく様子もなく進んでいく。もう駅に近くて、歩行者も混じるようになっていたが、男性に視線を送るが、誰もが面倒事に首を突っ込みたくなくて、そのまま通過していく。

 ああ、助けなくてはならない、と会社に向かう身を思うと、憂鬱な気分になった。すると、どこからか、そろいの制服を着た高校生が、男性に駆け寄っていった。この辺りの学校の生徒だ。

 その学校は、古くからある私立の学校であった。帰宅するときなどに、部活帰りのその学校の生徒に会うが、狭い道を半分くらい占領するようにして、いつも自ままに歩いていた。後ろから自転車などが来ても、前から車が来ても、ほとんど避けることがなかった。かなりスローモーな生徒たちだった。少し離れたところに北京通りに並行してバス通りがある。一応二車線の道だが、ここもかなり狭い。そちらは歩行者が多いのだが、車の隙を見て、どんどん道を渡る。全体的にこの街は交通が整理されていない。老人なども平気で横断する。踏切りを渡りきれず、駅員に怒鳴られる高齢者を見かけることもある。この学校の生徒がスローモーなのは、自分がスローモーなのに気づいていないことだ。バスの前を横切ろうとして、「〇〇学校の生徒が渡るので出発できません」と名指しで運転手にアナウンスされたのを聞いたことがある。きっと地元では有名なスローモーな学校なのだろう。

 でも、目の前で男性を救っているのを見て、スローモーでもいいじゃないか、と思った。街のスピードについて行けなくても、良いことができれば、その方がスマホを見ながら自転車に乗る男や他人に舌打ちする女より、人間として上等なのではないか、と見ながら思った。非常に好感が持てた。

 しかし、その女子生徒たちはちょっとだけ笑っていた。

 ああそうか、救えば学校をさぼれると思ったのか。

 気づいたが、良いことをしているので目をつぶろうと思った。

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