エピローグ

 抜けるような真っ青な空が頭上に広がっている。雲一つない青空はどこか俺の心を安心させる。


 湿度の高い空気をかき混ぜる風に心地よさはなく、流れる汗は止まることを知らない。


「――町長さんとユニコーンとの意見がまとまって、そのあと先輩はどうしたんですか?」


 有名なファストフード店で買ってきたオレンジジュースの残りをストローでかき混ぜながら修也が問う。


 俺は無事に自分の生まれた世界に戻ってきていた。昨夜自宅に戻ると、いきなり姉貴が熱い包容をかましてきて面食らったのだが、それを引き剥がすと自分の部屋に引きこもってすぐに寝た。翌朝、ケータイの着信音で俺は叩き起こされ、修也からの呼び出しに答え、彼と向かい合ってだべっている最中である。神殿から戻ってきてからの話を聞かせているところだ。


「トキヤとミレイを引き連れて家に戻った」


 お偉いさん方の会議が終わると、ユニコーンはさっさとどこかに消えていなくなり、俺はすることもなくなったので家に戻ることにした。そこに戻るまでも一苦労だったのだが。


「あれ? 謎の偉そうな人物は何者だったんです? 外にいたおっさんは?」


 そう、そいつがかなり厄介だったのだ。


「それは町会長さん。あの町の商業を仕切っている人物で、しかも熱心なユニコーン信者。部屋から出てきた俺に泣きついてきて、話はつけたから心配ないって言ったのに全然信用してくれなくってさ。ミレイの言葉は端から否定してかかるし、おばば様の言葉にも耳を貸さないし、町長の言葉には嘘だ騙されていると騒ぎ出す始末で……」


「じゃあどうやってその場で静めたんです? ユニコーンに再び登場してもらったんですか?」


「いや、それがだな……俺の呼びかけに答える気がないように出てくれもしない」


 それもそのはず。その頃は俺を元の世界――つまりこの世界に帰す支度で手一杯だったのだ。それに性転換なんていう訳のわからん無駄なことをしてくれたおかげで、手間はかなりかかったのだと聞いている。ユニコーン曰く、女にしたのはユニコーンが乙女の願いしか聞き入れないと言う約束を破るわけにはいかないからだそうだ。それじゃこの町の町長とやっていることと同じじゃないかと言ってやったら、「これは私の趣味も兼ねているから良いんです」と真面目な顔をして言っていたことは忘れてもいいかも知れない。


 閑話休題。回想している場合じゃない。脱線した話を戻そう。


「――だからクレスがごつんとやって町会長を伸した。何でも自分の父親だそうで」


「あぁ、そこに繋がるんですか」


 偉そうなおっさんが町会長だとわかったのはクレス自身が説明してくれたからだった。顔を真っ赤にして恥ずかしそうに頭を下げていたのを思い出す。あの父親から生まれたにしてはしっかりしているように思えるし、考え方も柔軟だと評価する。町のことを想う気持ちはしっかり遺伝しているらしかったが、方向性が違うだけでこうも意見が食い違うとは。


 納得したという顔をして修也はジュースを啜る。氷はほとんど溶けていて、ジュースは薄まっていただろう。


「で、なんとかトキヤたちの家に戻った。俺はそのあともユニコーンに呼びかけてみたんだけど反応がなくって。仕方ないから取り敢えず夕食をごちそうになった」


「悠長なものですね」


「おなかが空いていたのには耐えられないさ」


 俺は薄まったアイスティーを置いて肩を竦める。この世界に帰れるかどうかと言う場面でありながらまったく緊張感がないけども、焦ったところでどうにかできるわけではない。ならば生理的欲求を満たすのが先決だろう。


「ならそのあとにユニコーンが?」


「あぁ。短時間で用意したとは思えないご馳走をミレイは用意してくれて、それをしっかりたいらげたあとに迎えに来た」


「涙の別れのシーンですね」


「ミキは涙ぐんでくれたけどな。ミレイは冷たい感じのまんまだったし、トキヤは何度も礼を言っていたっけ。レキは恨めしそうにユニコーンを見つめていたよ」


 ミレイがわざといつもの雰囲気を崩さないようにしていたのはすぐにわかった。まったく素直じゃないなと思う。でもそこが彼女らしさなのだろう。俺は彼女のそんなところを直せとは言わない。


 レキはダメ元でユニコーンに俺を帰すのをやめにしないかと交渉していたが、俺が高速で却下したのと、ミキがたしなめたことで解決した。ユニコーンも「女の子の言うことしか聞かないことになっています」とあのときの文句と同じことを言って涼しげな顔をしていたけどな。――つーことは、俺が望めばあの世界に長期間滞在することもできたのだろうか? いや、その前に俺は男だし……。――ま、しないけど。


「それぞれ「らしい」別れの仕方ですね」


 懐かしそうに修也は遠くを、天を仰いだ。


 全部が夢であったらよいのにと思っていたが、朝、修也が電話であの世界の話はどうなったのだと切り出してきたので、一応現実にあった話なのだと理解した。俺は丸一日、自分が生まれた世界をエスケープしていたことになっているらしい。だから今日は夏休み一日目である。通知表がどうなったのかが気になるところだが。


「そうだな」


 俺も青い空を見つめる。もう、あの緑の空を見ることはないだろう。彼らと会うことも二度とない。面倒でハードな一日を彼らと一緒に過ごしたせいか、ちょっとだけ寂しいと思ったけども。


「――つーことで、話はこれでおしまい。ケータイのデータも奇跡的に復活していたし、俺の身体も元通りってわけで、通常の生活が返ってきたってわけだ」


「どうせなら女の子のままでいれば良かったのに」


「ユニコーンが乙女の願いしか叶えないのは本当らしいな」


 本気で残念がる修也に、けけけっと俺は笑って返す。


「でも、先輩が男だろうと女だろうと、そんなことは瑣末なことですよ。どちらにしても、先輩は魅力的です。ますます愛しく思えちゃいました」


「この暑さでますますお前の頭、いかれたんじゃないか?」


 ――あれ?


 そこで俺ははたと気が付いた。認めたくないが、ひょっとしたら俺が女にされてしまったのは姉貴の願いをユニコーンが叶えてしまったからなのではないかと。さすがにその願いを現実に持ってくることはできなかったが、姉貴の夢の中でという条件付で実行したのではあるまいか。そういえばユニコーンのヤツ、姉貴が夢で俺の行動を追体験しているのかも知れないなんて不吉なことを言っていたよな……。


 暑さからくるものとは違う汗が背中を伝っていった。


 ――まさかな。


「? どうしました?」


 俺の笑いが止まっているのに気付いた修也が首を傾げる。


「なんでもない」


 言って俺は残っていたアイスティーを一気に飲み干す。喉が渇いていた。


「話はそれで全部だ。じゃ、これで」


 俺が立ち上がると修也が素速く俺の腕を取った。


「待ってください」


 真剣な表情。


「男とデートする趣味はない。梶間、お前夏期講習行かなくて平気なのか?」


 鬱陶しい顔を作って椅子に腰を下ろしたままの修也を見つめる。


「名前で呼んで下さい」


「そこは問題じゃないだろうが。放せって」


 緑色の空の世界では便宜上名前で呼んでいたことを思い出す。


「名前で呼んでくれなきゃ放しません」


「あーのーなー」


 俺は掴まれていない方の手で頭を掻く。修也は俺の腕を両手でしっかりと握っていて放す気配はない。


 どうしようかと考えていたとき、視界にその影が入り込むよりも先にびびびっとくるものがあった。


「――用事があって引き留めるなら、そうと言えよ」


「みーのーるー!」


 大声で俺の名を呼びながらやって来る影。その影は久しぶりに見る顔と共にこちらに向かって歩いてきていた。


 ――姉貴……。


 それでやっと修也が暑いのにもかかわらず外の席に誘導した意味が分かった。姉貴と待ち合わせていたのだ。しかし、だ。


「どうも。お久しぶりね。周君」


「よう」


 いかにもフェミニンなサマードレスを着ている少女。俺の記憶の中での彼女は、夏と言えばボーイッシュスタイルしか出てこないから、きっと服の趣味が変わったのだろう。面と向かって話すのは久しぶりだ。態度がぎこちなくなるのは昨日の夢のせいもあるのかもしれない。


 菜摘が姉貴と共に俺たちの前にやってくるまでには修也は腕を解放してくれた。それで修也が姉貴とともに企てていたのだと確信する。


「んじゃ、ミノルは菜摘ちゃんをよろしくエスコートしてやってね!」


 俺の背中をべちんと叩く姉貴。思わずつんのめる。


「って……え?」


「え? あの、棗さん?」


 菜摘がきょとんとしている。俺が状況の把握ができずに戸惑いながら姉貴を見やると、ヤツは実に楽しそうににかっと笑った。


「あたしはこのあと修也君とデートなのよ。ふふっ。羨ましい?」


 それに答えるように修也は立ち上がって微笑みで返す。


 ――付き合っているようには思えんな。また何か厄介ごとを企むつもりに見えるのだが。


「羨ましか……」


「羨ましいでしょ。やーん、もう、照れなくってよいのよー。あんたたち若いんだから! 張り合ってデートの真似事ぐらいしちゃいなさい!」


 俺の台詞を遮って姉貴は大声で言う。


 ――なんて迷惑な。


 俺が文句の一言でも返してやろうとすると、姉貴はついと耳を引っ張った。


「あたしの雑用を片付けた礼よ。しかと受け取るがよいぞ」


「!」


 真面目な低い声で囁いて、そして何事もなかったかのように笑いながら修也をお供に引き連れて去ってしまう。


 残されたのは俺と菜摘。


「行っちゃったね」


 呆然とした顔をして菜摘は姉貴たちが消えていった方向を見つめている。


 台風のごとき姉貴はその勢力を保ったまま俺にわずかばかりのダメージを与えて去っていった。いつもに比べて受けた傷が少ないのは姉貴なりの感謝のつもりだろうか。どうも俺の昨日の体験を夢で追体験したのは事実っぽい。あれを現実と結びつけて考えられる姉貴はすごい妄想力を持っているとしか思えないが。というか、かなりの危険人物だろう。あんな人間を放っておくこの世界の神様の考えが理解できない。


「朝比奈、姉貴が言っていたこと、気にしなくていいから。何なら家まで送ろうか?」


 せっかく姉貴がお膳立てしてくれたとはいえ、これでは菜摘も迷惑だろう。何と言って連れてきたのかはわからないが、無理して付き合わせることもない。


「え? 帰るの?」


 菜摘の声は意外なものだった。


「だって俺といたってしょうがないだろう?」


「しょうがないとも思わないけど」


「彼氏や友達に見つかったら気まずいだろ?」


 ここは俺たちの住んでいる家の近所である。中学時代の友人と顔を合わせる可能性はかなり高い。高校生はもう夏休みなのだ。暑いとはいえ、家に引きこもってすごそうなどと考える人間もそういないだろう。


「友達に見つかったら気まずいってのは同感だけど、彼氏はいないから平気だよ」


 さらりと答えられる。彼氏、いないのか。ちょっとだけほっとする。


「あ、そう」


「それに、せっかくめかしこんできたから、ちょっとくらいは付き合ってもいいよ。少し出れば知人に見つかることもないし」


 スカートの裾をつまんでにっこりと微笑む。菜摘はうきうきした様子で俺の顔を覗き込んでくる。


 気味が悪いぞ、この展開。俺は思わず警戒する。


「朝比奈……お前……」


「なに?」


「姉貴に買収されたのか?」


「……や、やぁねぇ!」


 姉貴と同じように豪快に俺の背中を叩く。……その沈黙は肯定なのか。


 ならば、姉貴のシナリオに乗りますか。気に入らないけど、姉貴の気遣いだとわかっているなら。


「だよな」


 騙された振りをしてやるのも悪くないか。


 俺は笑顔を作って菜摘に頷く。


「適当に映画でも観てから帰るか」


 菜摘の笑みが弾けた。作ったものにしてはなかなかに魅力的。


「もちろん周君のおごりでしょ?」


「姉貴の迷惑に付き合ってくれるなら、出すよ」


 今日は水曜日だ。千円くらいなら姉貴に請求しなくても出してやっても良い。


「よーし! そうと決まれば出発ね!」


 さすがに手を繋ぐサービスはなかったが、まぁよしとしよう。


 菜摘が姉貴に似ているような気がするなどと頭の隅を過ぎったりもしたが、思考を切り換えて忘れようと努める。まさか俺が菜摘に寄せる想いが、姉貴に似ているからという理由からだとは認めたくない。断じて違う。


「……どうかした?」


「いーや」


 黙り込んでいる俺を不審に思ったらしい彼女の問いに笑顔で答えてごまかす。


 ――絶対に違う。この世界の神様に誓っても良い。


 気合い充分の太陽が地面を熱している。それでも元気に蝉の声が響いている。夏はまだ始まったばかりだ。


《了》

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