第7話 悲痛な選択

 西暦にして、1582年6月21日。

 天正十年六月二日、早朝の事である。


 京本能寺において、明智光秀の軍勢により織田信長が討たれた。日本史最大のミステリーと言われる、本能寺の変が発生したのである。


 「信長公記」によれば、信長は本能寺を包囲する軍勢が明智光秀の兵だと知り、「是非もなし」と呟いたとされている。一般的な解釈では、光秀程の人物であれば自分を取り逃がすような失敗はしないであろうから、こうなってはどうしようもない。やむを得ない。という意味だとされている。

 だが、面白い逸話もある。

 本能寺が包囲されたとの知らせに、信長は「城之介がべつしんか」と近習に問うたとす逸話が存在するのだ。

 城之介とは秋田城之介、即ち織田家当主である織田信忠の一つ前の官職であり、当然ながら織田信忠を指し、べつしん(別心)とは、謀反の事を指す。

 実に興味深いのは、この逸話が「三河物語」に記載されている事である。徳川の家臣、大久保彦左衛門の著書とされている「三河物語」であるが、これは徳川家や大久保一族の活躍を描いた書物であり、当然ながら大久保本人が本能寺に滞在していたはずもない。

 徳川の立場からすれば、信長が「当初、息子を疑った」という含みのあるストーリーのほうが、どうにも都合が良かった様子なのだ。

 果たして、何故そうであったのか。それは追って物語の中で見えてくるものであろうが、ここでは本能寺の変において悲痛な選択を強いられた人物に焦点を当てる。


 天正十年、六月二日、早朝。

 本能寺が既に焼け落ちているとの知らせが、妙覚寺に滞在していた織田信忠の元にも届いていた。


「二条御所であれば迎え撃つ事も出来ましょう」


 京都所司代である村井貞勝の奨めもあり、京都市中で唯一と言っても過言ではない防御設備を備えた二条御所へ、信忠一行は大急ぎで向かっていた。

 京近隣に滞在していた織田家の馬廻衆なども続々と集結し、二条御所には千騎を超える屈強な兵が集まってはいたのだが、明智の手勢に比べれば寡兵もいいところである。

 父織田信長が討たれたとなっては、当主である織田信忠はこの段階で名実ともに織田家の最高権力者でる。ここで自分まで討たれる事になれば、織田家は大いに揺れ動く事になるであろう。

 信忠はそう感じていた。故に、ここは逃げるべきだと判断している。


 二条御所に住まいを持っていた親王に対し、戦場になるであろうから立ち退いてもらいたいと願い出て、それを待つ間に、逃げるべきか、迎え撃つべきか、その事を相談した。続々と集まる兵がいるにも関わらず、逃げるなどと言い出せば余計な混乱を招くおそれがあり、相談相手に選んだのは三名の近親者だけであった。


「退路を切り開いて安土、いや、岐阜まで逃れるのが良いと思うが、どうじゃ」


 美濃まで退ければ、尾張、美濃、信濃、甲斐の兵は自身の手足の如く動かせる。取って返して明智と決戦に挑む事も出来るであろう。

 相談相手は三人。

 ひとりは、信長の弟で織田長益おだながます。信忠にとっては叔父である。

 ひとりは、これも信長の弟で、叔父にあたる津田長利つだながとし

 残る一人は、織田信長の五男にして、信忠の弟である津田勝長。犬山城で御本所から無理な謀議を吹っ掛けられた源三郎である。

 最初に口を開いたのは、津田長利であった。


「この場で迎え撃つは、他に手立てがないからには上策。しかしながら、殿がこの場で討死なされるは、あまりに下策。我らがここで惟任を迎え撃ちます故、殿は早急に岐阜へ逃れられませ」


 続いて、織田長益がそれに反対する。


「何を申す。父の仇を目の前に、逃げ出す子がどこにおる。そのような事になれば日本中から侮られるぞ。織田の柱は誰がみても兄上じゃ。その兄上が討たれたからには、中将殿だけ生き残ったとて変わりはせぬ。ここで最後の一兵まで戦い、惟任めの兵を一人でも多く討ち取るのが筋じゃ。後の事は、北畠の三介や、神戸の三七がどうにでもする」


 北畠の三介は、御本所を指す。神戸の三七とは、御本所の弟である信長の三男、神戸信孝を指す。

 今の長益の言葉に、信忠は愕然となった。叔父であるこの人物は、自分の事を織田の当主とは認めていないと言い切ったのである。この非常時にあって、その一言はあまりに重かった。


「ご両名の意、承った。源三郎、何と思う」


 意見を求められた源三郎は、心に沸々と黒い何かが沸き起こっていた。


「私は、ここで残って戦います。それは、私が父上の子であるから当然で御座います。父上の子である以上、尻尾を巻いて逃げるわけにはゆきませぬ」


 そして、信忠の顔を正面から見据えて言葉を続けた。


「しかしながら、殿は父上の子である前に、織田の当主で御座います。織田の当主という立場に、父の子であるや否やは関係が御座いません。父の子である事はお捨てになり、織田の当主として岐阜に退かれると申されるのであれば、私は父上の子として、織田の家臣として、この場で踏みとどまって敵を食い止めてご覧にいれましょう。さ、退かれませ」


 岐阜に退けと言っている。だが、内容はそうだとは言っていない。この言い回しは、信忠の心を深く抉り取った。

 自分が父の子ではないかもしれないとの噂がある事など、当の本人がよくよく理解していた。その噂が表立って出てこないのは、言ったところで確認する術がない事と、織田信長という存在が恐ろしいためである。信忠自身、父の子であると信じてはいるが、それこそ確認のしようもなく、ただただ鋼の精神でそう信じるより他に道はない。

 だが、それを血の繋がった弟に言われては、鋼の精神も大いに揺らぐ。ともすれば、先ほど「ここで死ね」と言った叔父も、自分の事を織田の子だと思っていないのだろう。

 ましてや父が死んだとあれば、噂が表に出始める可能性も無くはない。このような一大事件が発生した織田家において、そのような噂に苛まれながら織田家を纏めて行けるのだろうか。


(無理だ……私には無理だ)


 信忠は小さく頷いた。


「分かった。親王の退去が済み次第、二条御所に立て籠る。今更退いてみたところで、惟任の事だ。万一にも我らを逃がしはしないだろう。無様に雑兵に討ち取られるくらいならば、ここで散々敵を討ち、腹を斬るとしよう」


 そうして二条御所に入った織田信忠は、ひとりの将を呼びつけた。前田玄以という名の人物である。


「急ぎ岐阜に戻り、三法師を連れて尾張へ逃れよ」


 自身が唯一、情をかけた側女が生んだ子である。その子の将来を危惧し、気の利く人物にその将来を託した。

 程なくして始まった明智の攻撃は、数の違いもあって防ぎようのない次第となっていた。どこからか火の手が上がった二条御所で、信忠は部下に「俺の亡骸を敵に渡してはならん」と厳命。ついに自害する段階となっている。

 己の腹に刃物を突き付け、それを一気に押し込んだ。

 痛みはそれほど感じない。

 それよりも、悔しさと惨めさが体中を押しつぶしていた。

 薄れゆく意識の中で、信忠はつぶやいた。


「松姫……済まぬ。せめて、せめて一目だけでも会うてみたかった」


 織田家当主、織田信忠。

 京は二条御所にて自刃。享年二十六歳。


 こうして、母が案じていた通り、この武将は悲痛な運命を背負う事になったのであった。

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