第6話 高松城の謀議
徳川家康と穴山梅雪が安土城に入ったという知らせが、備中高松城を攻略中の羽柴秀吉の元に入った。
早朝、水攻めを受けて孤立する高松城を遠目に見ながら、急造された堤防の上で二人の男が密議を交わしていた。
「これだけお膳立てをしてやったのだ。惟任であればよもやしくじる事もなかろう」
「如何にも。千載一遇、この機を逃すような惟任ではありますまい」
密議を交わすのは、羽柴秀吉とその腹心である黒田官兵衛である。
「問題は岐阜の中将殿よ。あれを討ち漏らさば元も子もない」
中将殿とは、織田家当主である織田信忠の事である。
「惟任を信ずるより他にありますまい。それと、何やら三河の右少将も一枚噛んでおる様子。確証を得ている訳では御座いませぬが、あの二人が謀議を巡らせているとあらば、事前に露呈でもせぬ限りは上手くやってのけるでしょうな」
黒田官兵衛は、敵だけでなく味方に対しても広く諜報活動を執り行っていた。現段階においては、織田家随一の情報通と言えるだろう。情報が力となり武器になる事を、官兵衛はよく理解しているのである。
「官兵衛、今から彼奴らの企みを露呈させ、惟任と徳川を纏めて始末するという選択はあるかや」
「無くはない。然れども、悪手でありましょうな」
織田家を支える四柱の一角である明智光秀と、長年同盟関係にある徳川家康。この二人が同時に失脚するような事になれば、権力はますます織田信長とその後を継ぐ織田信忠に集約される事になる。
「やはり、ここは彼奴ら思い通りにさせる方がええっちゅうことか」
「殿にとっては、その方が都合がよろしいかと」
官兵衛の言葉に、秀吉は少しばかり嫌な顔をしてみせた。
「恐ろしいやつじゃ。これでも儂ゃなあ、複雑な心境ぞ」
「お察し申し上げます」
武田家の滅亡直後から、どうにも明智光秀とその周囲の空気が徒ならぬ。その事を内々に察知していた羽柴秀吉は、これを利用して一気に伸し上がる算段を立てていた。どちらかと言えば、その算段は黒田官兵衛が行っていると言った方が正しいのだが、秀吉は秀吉でその算段に躊躇なく乗り気でいる。
「公家の連中が動いた証拠は押さえたかや」
「思いのほか、容易に手に入りました。上様の官職辞任に震えあがっております故、動きに精細を欠いておりますな」
この年、織田信長は自らの官位官職を全て朝廷に返上した。代わりに、当主である信忠に中将職という高位の任官となったわけだが、既に右大臣にまで上り詰めていた織田信長の突然の辞職に、朝廷は騒然となった。
その上、新たに朝廷側から任官を推した最高位ともされる三つの官職についても、全く興味が無いかのように突っぱねたのである。
これにより、織田信長は古い権力構造から己を完全に脱却させたのだ。実際、織田信長が朝廷を潰すつもりであったか否かまでは知る由もないが、厚遇せずとも冷遇もせず、己の存在はそれをも超越する、と言った具合であった可能性は否定できない。
「これが上手くいけば、天下は惟任のものになる。三河がどう出るつもりなのか知らんが、一枚嚙んで居るとすれば……東国は三河が治めるつもりであろうな」
秀吉の言葉に、官兵衛た小さく笑みを湛えて答える。
「その通り。ただし、
高松城を沈めた人工の湖が、朝日を乱反射させて眩しく輝きはじめた。秀吉は目を細めながら今後の事を確認する。
「京か堺あたりでな、三河に案内役を用意した。家次の手の者だ」
「杉原殿の。なるほど」
杉原家次とは、羽柴秀吉の家老職と言ってよい古株の重鎮である。
「三河の側に着けておくのが、もっとも安全に良質な情報が入るはずじゃ。後は儂らの動きだが、抜かりはないかや」
「はっ、抜かりなく。まずは姫路まで戻り畿内の様子を把握致しましょう。如何に早く姫路に入り、惟任の畿内掌握を妨害出来るかが肝で御座る。毛利の方は如何でしょうか」
「安国寺の腐れ坊主が上手くやってくれるじゃろう。問題ない」
「では、始めますかな」
官兵衛の問いに、秀吉は小さく頷いた。それを確認した官兵衛は、堤防の上から右手を上げて合図する。
すると、堤防の下で待機していた一人の若武者が、小走りに堤防を駆け上がっては、二人の前で傅いた。片膝を付いて頭を下げた若武者に、秀吉が明るい声で語り掛ける。
「佐吉よ、撤退の準備をいたせ」
ほんの一瞬、佐吉と呼ばれた若武者の思考が停止した。備中高松城を水攻めにし、その後方には毛利の大軍団が控えている。その上、毛利の大軍団を迎え撃つために、安土から織田信長や織田信忠、さらには明智光秀までもが援軍に来る予定になっているのだ。
この段階にあって『撤退』という選択は、通常であれば考えにくい。佐吉の思考が停止したのも無理もない。だが、それも一瞬の事である。
「撤退はいつ」
「知らぬ。故に『準備をいたせ』と申して居る」
「はっ!」
秀吉の言う『準備を』の意味を、佐吉は即座に把握した。いつ撤退するか分からないが、いつ撤退の命令を出しても直ぐに対応できるよう、準備だけをしておけ。という意味である。
主君の命令を受け取って堤防を駆け降りる佐吉の背に、官兵衛の視線が注がれていた。
「あれは何処まで把握しましたかな。頭の切れる男故、いらぬ事まで把握したやもしれませぬぞ」
秀吉は事も無げに笑って答えた。
「そりゃあ余計な事まで把握したであろうよ、賢いやつじゃ。だがな、あやつは儂に対して忠実じゃ。あやつ程、どこまでも儂に忠実な者はおらん」
秀吉の言葉に、官兵衛は随分と可笑しそうに笑った。
「なんじゃ。何が可笑しい」
「いや、ご無礼をいたした。我が主である羽柴
秀吉は唾を湖面に吐き捨てた。
「よくも言いやがったな。まあええわ、儂と佐吉を比べるな。儂は何を差し置いても立身出世を望んできたが、佐吉はそうではない。儂と佐吉は違う。あやつは阿呆なまでの律義者よ」
日本史最大の謎と言われる大事件が、目前に迫っていた。
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