第5話 兄弟の疑念
徳川主従が千種峠で密談に挑んでいた頃、尾張犬山城では信長の子がひざを突き合わせていた。
一人は、徳川主従の口からも名が出ていた御本所、北畠
もう一人は、その腹違いの弟である津田源三郎勝長。
「御本所様がお忍びでお越しになられるとは、如何なるご用件で」
「そう硬くなるな。血を分けた兄弟ではないか」
信長の子の中でも、とりわけ数奇な運命を背負った人物、津田勝長。彼の経歴を紹介するのに、時間を十年程遡る事にする。
十年以上も前の事になる。
武田信玄との関係悪化を懸念した織田信長は、対武田の最前線となる東美濃の有力豪族である
そして岩村遠山家の当主である
だが遠山景任が病死した時に子がなく、信長は自身の子を養子として送り込み、おつやを後見として岩村遠山家を継がせたのだ。その子が、後の津田源三郎勝長であるわけだが、彼の運命はここから大いに揺さぶられる事になる。
武田信玄が上洛を目指したとされる西上作戦の折、幼少であった源三郎に代わって岩村遠山家を仕切っていたおつやは、あろう事かあっさりと武田方に寝返ってしまったのである。そして、源三郎は甲府へと送られ、人質として武田家で生活する事になってしまったのだ。それが、遡る事十年ほど前の話し。
「源三郎、戻って何年になる」
「はっ。丸二年が過ぎました」
二人の会話にあるように、源三郎が織田家へ戻ったのは二年前。形勢不利を打開しきれなくなった武田勝頼は、常陸の佐竹氏を通じて織田家との和睦を試みた。結局、その和睦は信長によって黙殺されて成立しなかったのだが、その前段階として、織田信長の機嫌を取るために武田勝頼が取った行動が、源三郎の返還であったのだ。
「二年か……武田の滅亡にはさぞ心を痛めたであろう」
「何を申されます。源三郎めは御本所様の弟です。織田の将で御座います」
源三郎はそう答えながらも、肝の冷える思いでいる。
武田家で生活していた八年間、人質という立場ながら惨めさは一つも感じなかった。武田家という存在が「人質を取る」という行為に慣れており、人質の扱いを誤れば面倒な事態に発展すると認知していた事が大きい。
だがそれ以上に、強大な勢力となっていた織田家との交渉の切り札として、極めて丁重に扱われ、大切に育てられた。
学問、武芸、あらゆる事を学び、将として恥じないだけの知識と力量を与えてくれたのは、紛れもなく武田家であった。その上、人質であるはずの源三郎に対し、武田家の通字でもある「信」の字を与えて織田信房として元服の義まで執り行ってくれた。
そして、いつしか恋に落ちた相手も、武田家に縁の深い女性であった。
織田家に戻る際、源三郎は武田家が付けてくれた側近と共に武田家を発ち、その側近と共に織田家へ復帰した。人を雇う力のない人質であるにも関わらず、家来までつけてくれたのである。
「そう隠すでない源三郎。兄はな、何も
父信長は源三郎の帰還を大いに歓迎し、織田家の重臣達も贈り物を届けるなどしてその帰還を祝った。信長はその後、改めて織田家として元服の義を執り行いその諱を勝長と改めさせ、尾張の名家である津田家を継がせて犬山城主に任命した。犬山城主、津田源三郎勝長の誕生である。
だが、武田家で見初めた女、生まれて初めて愛した女は連れてくる事が叶わなかった。そして織田家に戻って数か月後、その女が男児を産んだという知らせを受けたのだ。紛れもなく、源三郎の子であった。
「御本所様、源三郎如きを案じて態々お忍びで参られたと申されるのですかな。それは少々解せませぬ」
今より二ヵ月前、武田家は織田家によって滅ぼされている。自身が育った甲府には織田の兵が満ち、執拗な捜索が行われて武田の縁者は尽く処刑されていった。源三郎本人は上野方面に従軍していたため、実際にその場を目撃してはいなかったのだが、戦が終わった後で一人の年老いた男が源三郎を訪ねてきた。男の手にはまだ幼い男児が抱えられており、その子の母は織田の兵によって殺されたという事実を知らされたのだ。
「源三郎よ、新たに妻を取れ。いつまでも武田の女に未練を残して居ってはな、父上からいらぬ疑いをかけられるぞ」
源三郎が肝を冷やしたのは、正にその事である。
「滅相も御座いません。源三郎は、織田の将に御座る」
小さく頭を下げて、そう繰り返すより他にない。心の中では、多少なりとも織田を憎む気持ちがある。憎んでいないと言えば嘘になり、嘘という物は少なからず他人に疑念を抱かせる。故に滅多な事は口にできない。源三郎はその心中をひた隠す以外に術がなかった。
「そうか。まあよい」
武田へ人質に取られる前に自分の面倒を見てくれた「おつや」という女性は、身内の裏切りに激高した織田信長によって逆さ磔という極刑に処されていた。そして人質の自分を大切にしてくれた武田家を滅ぼし、愛した女を死に追いやったのは、紛れもなく織田家。更に言えば、その選択をした己の父である織田信長と、実際に軍を率いた己の兄である織田信忠。
津田源三郎勝長は、どうにもやり切れない想いを抱えて日々を過ごしているのである。
「御本所様、その事を申しに参られたのでしょうか」
それだけならば、まだ良い方だと思わねばならない。御本所と呼ばれるこの兄は、弟の源三郎から見てもどうしようもなく愚鈍であると言える。いや、愚鈍であるだけならばまだ良い。この兄は、自身が愚鈍でるという自覚を持たず、まるで切れ者であるかのように振る舞う為に言動がいちいち危なっかしい。
「気になるか。そうであろうな。ならば申そうか」
この兄の口から何が出るか、源三郎の心臓が撥ねた。
「はっ」
小さく返答した源三郎に対し、兄は上機嫌で言葉を発する。
「これはな、ここだけの話ぞ。実はな、兄上の事なのだが……あれは父の子ではない」
「ご、御本所様。今の言葉、聞かなかった事に致します故、以後そのような事は一切、申されるまするな」
自分が織田家に抱いている多少の恨みなど、今の言葉に比べれば可愛い物だと言えてしまう。この愚鈍な兄は、現織田家当主である長兄に対し、父信長の子ではないと言ってのけたのだ。取りようによっては即座に「叛意」とされても、些かの不思議もない。
「いや、聞け源三郎。あれが早々に当主の座に収まったのはな、父上と母の約束によるものだ。父の子でないあれの将来を案じた儂の母が、父上に頼み込んで嫡子という扱いにさせたのだ」
源三郎は完全に青ざめていた。その真相がどうであるかは問題ではない。このような事を、この密室で語らう自分と兄という存在が恐ろしくなったのである。まるで謀反の準備を行う段階の謀議であるとさえ言えてしまう。
「御本所様! それ以上申されますな!」
声を荒げた源三郎に対し、小さく頭を振った兄が言葉を続ける。
「あれはな、美濃の土田弥平次という男の子よ。その土田弥平次が戦死し、母は生駒の家に戻った。そこで父上に見初められたわけだがな、その時にはもう、あれは母の腹にいたのだ。父上の子ではないのだ。このまま織田家の当主に収まってよい人間ではない」
返す言葉さえ見つけられずにいる源三郎に対し、その様子に満足したかのように兄は言葉を並べ立てていく。
「そのあれが、だ。未だ正室を迎えずにいる理由を知っておるか? 破談となっておるはずの武田家との婚姻を、どうにか実現させようとしておる。それを許している父上もどうかしておる。いや、そもそもあれに後を継がせた父上はな、元よりどうかしておるのだ」
唖然とする源三郎は、兄の言葉に戦慄を覚えながらも、武田家との婚姻という言葉に小さく反応を示していた。
兄の言葉は続く。
「源三郎がこれほど苦しんでおるというに、あれは自分だけ武田信玄の娘を妻にしようと考えておる。勝手都合の話だとは思わんか? よいか源三郎、あれに織田家を継がせてはならん」
小刻みに震える手を、固く握りしめてどうにか動揺を隠そうと必死になる。
だが、そんな源三郎の意中をくみ取れる程、愚鈍な兄は他者の心に気を配るような人物ではなかった。黙ったままでいる源三郎が、自分の話に納得してくれていると早合点するのである。
「よく聞け源三郎。好機とあらば躊躇うでないぞ。其方が情をかけた女が生んだ子は、儂が必ずや身を立ててやる。何も心配いらん」
「御本所、お待ち下され」
話の流れがどうにもよろしくない。この兄は、自分に織田家当主を殺害しろと言い出したのだ。
「待たぬ、待たぬぞ。父上が死ぬような事があれば、その後どうなるか考えてみよ。父上の子である儂らはな、父上の子でないあれにとっては邪魔者でしかないのだ。父上が生きているうちにあれをどうにかせねば、儂らは生きる事さえ出来ぬのだ」
源三郎の肩を両手でぐっと掴んだ。
「あれが織田家の実権を完全に掌握してしまえば、儂らは揃って粛清されてしまう。その対象に、其方が甲斐で産ませた子さえ含まれるという事だ」
迂闊に首を振る事も、当然ながら頷く事さえ許されない。首を振れば、この兄は己の吐き出した言葉を消去するため、源三郎に何をしでかすか分からない。
そうではあるが、頷けば、源三郎はこの謀議に加担した事になる。
「何を迷う源三郎。よいな、誰にも知られず、あれを討て。仮に露見したとしても、其方が一人でやった事にいたせ。さすらば其方の子は、儂が必ずや、必ずや立身させてみせる!」
会話が堂々巡りになりだしていた。
源三郎は一先ず「考えさせて頂く」とだけ返答し、兄を犬山城から早々に退散してもらう事を選んだ。
返事をしなかったのであるから、この謀議が上手くいったのかは甚だ怪しいものである。だが、愚鈍な兄はそれで大いに満足し、自身の
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